第七十ニ話 鈍色の短剣
木造の宿舎は火災を警戒してか、火を使った明かりの類が一切ない。
突き当りの窓から差し込む月明かりと、建物を構成する木材自体が与えてくれる情報から、指揮官の寝室がどこにあるのかは特定できた。
精密に隙間なく組み上げられている建物でも、探せば空気が通れる場所は見つかる――催眠空気玉を指揮官に吸わせれば、抵抗なく捕虜にできる。しかし、そうできないということには、先程の声が聞こえた時点で気がついていた。
(この宿舎の中に、魔法士がいる……指揮官の寝室の内部まで、木の声を聞くことによる探知が通じません)
(……ここで戦うことになるってこと? 中にいるんだったら、外から仕掛けるとか……)
(室内に空気を送り込むことはできません。見てください……廊下の途中に、薄い水の膜が張られています)
(っ……!?)
プレシャさんは目を見開く。これほど薄く、透明度の高い水の膜では、暗い中では気づかずに触れてしまう。それを狙って仕掛けてあるのだろう。
(しかし、先程の声が気になります。あれが指揮官のものであるなら、魔法士が裏切ったという可能性が出てきます)
ジルコニア側に、シルヴァーナ魔法学院を卒業した魔法士が潜入し、敵軍に力を貸している。
それを俺は、殿下を良く思わない人間――第二王妃の謀略によるものだと推測した。
もし、第二王妃の謀略に、ノインが完全に従っていなかったら。
王国を守る宮廷魔法士としての務めを、忘れていなかったとしたら。それは、あまりに都合のいい考えだろうか。
(とりあえず、この膜をなんとかしなきゃ……触れるとまずいんだよね)
(はい。しっかり対策をして除去すべきです)
こうして、水の精霊魔法で仕掛けられた罠を前にして、俺は初めて気がついた。
先程の霧にも、考えてみれば、俺は対抗することができたのだ。
植物は呼吸をする。そして、植物の組織は一部を除いて、ほとんどが水で構成されている――空気中の水分吸収を促進させれば、霧は消すことができる。
植物が取り込んだ水に、水精霊使いが干渉できるのか否か。賭けにはなってしまうが、この水の膜を植物に吸収させてみればわかる。
(アルラウネを召喚して、根で水を吸ってもらいます)
(えっ……だ、大丈夫? ルーネは危なくないの?)
(水精霊のもたらした水を、植物の精霊であるルーネが取り込めば、無力化できるかもしれないと……試してみる価値はありそうですね)
殿下の許可を得られたので、俺は彼女たちに頼んで資料室の扉の影に隠れてもらう。そして、複数持ってきているアルラウネの球根のうち一つを水の膜から少し離して床に置いた。
(『妖花の園に咲き乱れる艶花よ……ひとたび現世に姿を現し、その力を示せ』)
――アルラウネの根は地面から精気を吸わなくても、俺の魔力だけを養分として開花できる。
しかし、今回の開花の過程は違っていた。詠唱を終えると同時に、まるで水の膜を養分とみなしたかのように、球根から一気に細い蔓と緑の葉が伸びて、水分をぐんぐんと吸っていく。
やはり水の膜は魔法士が仕掛けたもので、アルラウネの蔓に吸われて、初めは抵抗の兆しを見せていた――しかし、アルラウネの根に水が達するまでには、精気を吸われて無力化される。
いつもと違う過程を経て、アルラウネの花が開く。そして、花を頭に乗せた少女の姿で具象化した。
(ぷはぁ、美味しいお水だったのです。魔力がたっぷりだったので、つい蔓が伸びてしまったのです)
(よくやったぞ、ルーネ。敵の魔法士が仕掛けた水だと思うんだが、よく吸えたな)
(水の精霊さんの本体だったら、吸ってもそんなにきかないのです。さわると水の槍になって飛んでくるという仕掛けみたいですが、本体を離れたら私にとってはただのお水なのです。一気にたくさんで流されちゃったら吸いきれないので、それは苦手なのです)
(ルーネ、今回はよくやったが、褒めるのは後だ。あの部屋に敵がいる、危ないから飛び出したりしてはならぬぞ)
(はいなのです、召喚主様の指示があるまで静かにしてるのです)
ラクエルさんにたしなめられ、ルーネは自分の手で口を覆う。ラクエルさんはかすかに微笑み、ルーネを片手で軽々と抱き上げる。彼女が守ってくれるということのようだ。
水の槍とはどれほどの威力か――戦闘魔法士の魔法を遠くから見たことがあるが、生半可なものではなかった。この規模の罠でも、受ければ致命傷になるようなものだろう。
植物の精霊は、水の精霊と相性がいいようだ。これなら実戦訓練の有無という大きな差を、相性で少しは補えるかもしれない。
指揮官部屋は水精霊によるものか、魔法によって外部からの干渉が妨害されていて、壁に触れても中の様子が把握できない。プレシャさんはここでも、率先して切り込み役を務めてくれた。
(私の蔓を、扉を開けると同時にできるだけ速く中に伸ばすのです。それで罠がないか確かめるのです)
(うん、頼んだよ。そうでなくてもあたしも武人の端くれだからね、ちょっとくらいは避けてみせるよ)
扉を開けた直後、アルラウネの蔓が内部の空間に凄まじい速さで伸びる――水の膜が仕掛けられていないと悟るや否や、プレシャさんはその後に続き、身を低くして中に滑り込む。
「あんた……一体、何を……っ」
プレシャさんが中にいる人物に問いかける。その声からは、目の前の事態を理解できていないことが伝わってくる。
俺たちも続いて、部屋に入る――すると、寝室のベッドに座った指揮官らしき男性と、その首筋に短剣を突きつけている、ジルコニアの軍服を着た女性の姿が目に入った。
「……ノイン・フローレス……」
水の精霊に魅入られた、水色の髪を持つ女性。しかし、学園で見たことのある彼女とは雰囲気がまるで変化している。
指揮官はすでに傷を負っている。その返り血を浴びたノインは、空いた右手で頬の血を拭うと、カンテラの弱い明かりの中で艶を持つ唇に触れさせた。
「……私の『水鏡槍』を通り抜けてくるなんて。できそこないの魔法士と言われても、中身までは腐っていなかったみたいね」
水のせせらぎにも似たゆったりとした口調だが、その言葉には明確な毒と、油断を許さない鋭さが潜んでいる。
なぜ、この砦の指揮官を襲撃するようなことをしたのか。彼女があの霧を生じさせたなら、それは侵入者を探知するためでなく、自分が霧に乗じてここに侵入するためだったと考えられる。
「試験というつもりはなかったけど、ここに来るくらいなら、それなりの資格はあるとみなすわ。ねえ貴方たち、私と取引をしない? 利害はそれなりに一致すると思うのだけど。王女殿下もいらっしゃるなら、判断はこの場でできるでしょう」
アスティナ殿下は答えない。この間合いなら、プレシャさんか彼女の卓越した剣技であれば『届く』かもしれない――しかし、殿下は剣を握りはしなかった。
「……取引はしませんが、貴方が何のためにここにいるのか次第では、対話の余地はあります」
「ふふっ……民が信望を寄せるのも、これほど清廉な方であれば当然ですね。本当に、嫉妬する気持ちも起こりません」
その笑顔も、言葉にも、この状況では何かを含んでいるようにしか見えない。
しかし俺は、彼女を全く信用することができないとは思わなかった。現にノインは、俺たちの敵であるジルコニアの指揮官を、その手にかけようとしていたのだから。




