第六十五話 誇り
衛生棟でケイティさん、レスリーと共に負傷者の回診をしていた俺は、仕事を終えてからすぐにラクエルさんの部下に呼び出された。
要塞二階にある、外部からの訪問者に応対するための部屋。その前まで連れてこられた俺たちは、隣室に通される――そこには、クロエさんとソルファさんの姿があった。円卓の間で二人の姿を見ていたが、直接話すのは初めてだ。
クロエさんはラクエルさんとまとう空気が似ているが、武人としての威圧感は、一回りラクエルさんの方が上だと感じる。魔力は感じないので生来のものだと思うが、深い緑色の髪と瞳が神秘的な女性だ。
ソルファさんは長い亜麻色の髪を左右で二つに結んだ、気品を感じさせる女性だ。ディーテさんを『お姉さま』と呼んでいたのでかなり若いと考えられるが、射手長の地位にあるだけあって、その瞳には鋭い光が宿っている。
「……本来なら、このようなことは危険が伴うのですが。ラクエル騎士長は、それだけグラス殿を信頼されているのでしょう。お姉さまも……」
「……前置きはいい……グラス殿、突然呼び出したりしてすまなかった。今、中央から国王陛下の命令書を持って、使者が訪ねてきている。アスティナ殿下、ラクエル騎士長、ディーテ殿が面会に応じ、話をされている」
「中央から……それは、殿下からの援軍の要請が届いて、その返事が来たということですか?」
そうであれば、この要塞にとって良いことであるはずだった。しかしクロエさんもソルファさんも、揃って何も答えず、クロエさんは俺に部屋の奥に来るように促す。
そこでは、隣の部屋からの会話がかすかに聞こえていた。クロエさんは何も言わず俺を見る――今、まさに隣の部屋で行われている殿下たちと中央からの使者の会話を聞けということだ。
「騎士長から許可は得ている。グラス、中央への離反になることを恐れるならば、無理強いはしない。私達も、軍医の務めを果たして貢献している貴君に、だまし討ちのようなことはできない」
「俺は自分の意志で、話を聞かせてもらいたいと考えています。ラクエルさんの指示なら、絶対に聞くべきだとも思います。命令されているからというだけではなく」
「……そうか」
クロエさんは短く返事をしただけで、それ以上は何も言わなかった。隣室から聞こえてくる会話に、俺たちは三人で耳を傾ける――そして。
聞こえてきたのは、高圧的な男性の声。とてもこの要塞の守将たちに相対しているとは思えない、不遜な話しぶりだった。
「――国王陛下からの、直々の仰せです。このアイルローズ要塞で拘留している者を、全員解放せよと」
「……ジルコニアの兵ならばまだ分かる。だが、それ以外の者についてはこの要塞に仇なす行為をしたがゆえに捕らえた。それをなぜ、解放せねばならぬのか」
「口は謹んでもらいましょうか、ラクエル殿。これは国王からの勅であり、私はそれを伝えさせていただくのみ。反論されれば、相応の意味を持って国王陛下に伝わることになりましょう」
「っ……」
耳を疑うような話だった。ジルコニアの捕虜だけでなく、ジルコニアに武器を流していた者たちまでも、『国王陛下』が解放せよと言っているという。
――それを疑問に感じる中で、俺は戦慄する。そんなことが本当にあっていいわけがないのに、今までの経緯が一つの可能性を示している。
(この要塞に拘留されている者を、『全員』解放させなくては困る者がいる……その人物が、国王陛下の名を借りるか、命令書を出すように陛下に促した)
『……北方、騎士団……王室の、人間を通じて……武器を、流せと……』
アルラウネの力で囚人から引き出した情報。国境を超えてジルコニアと通じていた者の言葉が、脳裏に蘇ってくる。
もはや、他の可能性はほとんど潰えていた。
――ジルコニアに通じている王室の人間が、国王陛下を唆した。
しかしそう示す証拠が残っていても、判断は殿下に委ねられている。この要塞の運命を決める、あまりに重すぎる決断――それでも、何もせずにただ捕虜たちを解放すれば、アスティナ殿下たちを陥れている人物の思い通りになってしまう。
(すべて、第二王妃が仕掛けてきている謀略なのか……なぜそこまでのことができる? アスティナ殿下は国を守るために戦っている。手を取り合えば、この国はもっと……)
拳を握っているのは俺だけではなかった。クロエさんとソルファさんも、怒りに唇を噛んでいた。
彼女たちはまだ、敵が王室にいることを知らないかもしれない。それでも、中央が理不尽を強いていることは、この要塞の人間なら誰にでもわかる。
「……ジルコニア側は、対話の姿勢もなく絶え間なく攻撃を仕掛けてきています。私たちはレーゼンネイアを守るために……」
「拘禁している人々を解放すれば、アイルローズの清廉さはきっと民からも、中央からも評価されますよ。『国王陛下』も、さぞお喜びになることでしょう」
――そしてまた、信じがたいことが起きる。使いの男が、王女であるアスティナ殿下の発言を遮り、さも必要ないかというように自分の意見を述べたのだ。
「貴様ぁ……っ!」
「ラクエル、いいのです。ヴァイセック殿、『国王陛下のご意思』を伝えていただき、ありがとうございます。しかし捕虜については、西方領の防衛に直接関わる問題……即時解放とはいかないことは、理解してもらえれば幸いです」
「……王女殿下、あなたは理解されるべきです。あなたの王国軍における地位は、王女という立場を最大限に考慮して与えられたもの。戦場でご活躍されていると噂は耳にするが、それを口にするのは決まってあなたの信奉者で、どこまでが真の勲功なのかは疑わしい。あまり図に乗らぬことですな」
男が荒々しく席を立ち、部屋を後にする。ラクエルさんが席を立った音がする――それでも彼女はやはり、殿下に制されて動かなかった。
「グラス殿っ……!?」
動かずにはいられなかった。なぜ、軍にいながらアスティナ殿下が命を賭して戦場に出ていることも知らないのか。これまで彼女が挙げてきた功績すら、無かったもののようにして扱おうとするのか。
そんなことを許せるわけがない。しかしそう思っているのは、俺だけではなかった。
扉を開けた向こうに、プレシャさんが立っていた。
彼女が誰よりも憤っている。激情と怒り、そして殺意――全てを押し殺しながら、彼女は握りしめた拳から血を流していた。
「……絶対にだめだってわかってる。あいつを殺したら、今まで耐えてきたことが全部無駄になる……あいつはアスティナ殿下の心を乱して、辱めるために送り込まれてきたんだ……あたしでも、それくらいはわかる」
「……プレシャさん」
ここで誰かがヴァイセックに斬りつければ、どうなるか――殿下は国王陛下の勅に背いた反逆者として、王位継承権を奪われるだろう。
それで得をする人物は一人しかいない。ヴァイセックの裏にいる人物を特定できたなら、本来ならば責を問われるのは彼のほうだ。しかし殿下が中央から離れており、人脈もつながっていないと見られる状況では、国王陛下は近くにいる人物の讒言に耳を貸してしまう。
「……殿下があんなことを言われていいわけない……絶対に許せない。あたしは、あいつらをいつか一人残らず……っ」
「……俺も、気持ちは同じです。あんなことが、許されるわけがない」
憎悪の色に変わりはじめていたプレシャさんの瞳から、涙がこぼれた。彼女は壁によりすがり、拳を何度も叩きつける。
「どうして……どうして、自分たちのことばかり考えて……この国のために、一つになれないの……どうしてっ……!」
もう一度振り上げられた拳が、止まる。部屋から出てきたラクエルさんが、プレシャさんの手首を掴んでいた。
「……辛い思いをさせた。私も……ヴァイセックの蛮行を目の前で見ていることしか……」
「それは違います。最も、恥じるべきことをしていたのは……私自身です」
「っ……何をおっしゃいます、殿下。殿下は、民のために……そして、我らのために、自ら剣を取ってここまで来られた。なぜ、仰ってくださらなかったのです。本当に民のことを考え、民の盾となろうとしているのは、アスティナ殿下、あなた自身のはず。それこそが我らの誇りでもあるのに、なぜ、ヴァイセックを斬れと命じられなかったのですか……!」
ラクエルさんが、殿下の前で言葉を荒らげる。それは殿下に深い敬意を持つ彼女にとっては、身を切るほど辛いことのはずだった。
殿下は俺を省みる。そして何も言わないまま、上の階層に向かって歩き出す。
追従せよということなのだと思った。ラクエルさんは何も言わず、俯いている――プレシャさんは俺に、縋り付くような眼差しを向ける。
俺が、行かなくてはならない。殿下の真意を、この耳で聞くために。




