第五十九話 新たな力
枯れた砂を巻き上げ、神樹を中心にして渦巻いていた瘴気が、晴れていく――黒い神樹の表皮が剥がれ、その下から再生してきたのは、羊毛のような色をした瑞々しい樹皮だった。
廃棄庭園全体を覆っていた瘴気が、神樹から放たれた清浄な空気によって、一気に消失していく――青い空が見えて、その向こうに浮かんだ白い雲の間から、眩しいくらいの陽の光が降り注ぐ。
広がり続けていた灰色の土が止まり、元の色に戻っていく――瞬きの間に、庭園全体の土に生気が戻り、魔物と化していた植物たちが動きを止める。
神樹の全てが元通りになったわけではない。しかし俺が想像していたよりもずっと再生は早く、一枚も葉をつけていなかった枝に緑の芽吹きが見える。すでにいくつも若芽が開き、新たな葉が生まれようとしている――。
「……グラス兄……契約、できた……?」
「ああ……そうだ。俺は『植物の精霊』に選ばれた。だから、ユーセリシスとも契約を結ぶことができた。こうなるとは、思ってなかったけどな」
俺の手を握っていた殿下の手が、そっと離れていく。振り返ると、殿下は乱れた御髪を直したあとで、俺の髪も直してくれた。
「で、殿下……恐れ多くも、そのような……」
「いいのです。貴方は、言葉で尽くせぬほど大きなことを成し遂げました……今はこれくらいしか、労いの気持ちを表すすべを持ちません」
いつもその身にまとう威風が、殿下のことを大きく見せる。しかし、やはり目の前で見る彼女は、俺より背が小さく、華奢な一人の女性だった。
鎧を着ていなければ――いや。これほどに玲瓏たる容姿をしながら、戦いのために作られた金属の武具を身に着けているからこそ、彼女のことを皆は『聖女』と呼ぶのだろう。
「……レンドル……いえ、レスリー。あなたの勇気にも感服しました。グラスのことが、何より大切なのですね」
「……私は、いつもグラス兄についてまわっているだけです。彼がすることを見ているだけで、勇気をもらえるんです」
衒いのないその言葉が、今は胸の中にすっと入りこんでくる。『彼』という言い方をするレスリーは、今までよりずっと大人びて見えた。
いつまでも幼いままではないと分かっていた。レスリーは自分で決めて俺についてきた――そして、大事なときにここにいてくれている。
「私もそうです。グラスがいてくれたおかげで、ずっと感じてきた喪失感を止めることができました。こんなに気持ちが晴れているのは、とても久しぶりのことです……いえ。生まれてからずっと、無かったことかもしれません」
「殿下の魔力の流出は止まりましたが、『巫女』として神樹と繋がったことで、再生のために使われています。しかし……これほど再生が早いとは、思ってもみませんでした」
「……私には、分かります。神樹ユーセリシスは、『信仰』によって神性を取り戻す。しかし必ずしも、『直接』ユーセリシスに信仰が向けられる必要はないのです」
神樹の巫女となったことで、殿下は急速に神樹についての知識を手に入れている――そんな彼女が言うことなら、事実なのだと考えていいはずだ。
「……グラス兄が、沢山の人を癒やしてきたから。グラス兄へのみんなの気持ちは、『信仰』と同じで、神樹の力となる……そういうことなんですか……?」
「ええ。私に対する兵たちや民の忠心も『信仰』に類するものです……しかし傷ついた人を治療して回ったグラスに向けられた感謝は、それ以上に尊いものです。グラスが皆を癒やした分だけ、今、神樹もまた癒されているのです」
軍医として、ひたすら目の前の患者たちの治療に臨んだ――そのことに皆が感謝してくれているのなら、それ以上に報われることはない。
まして、癒やすことが神樹への信仰を得ることに繋がるのなら、医者として務めを果たすことで、あらゆることが良い方向に向かう。
しかし、それだけでは根本的な解決にはならない。戦いを終わらせるには、アレハンドロ将軍の戦意を折らなければならない。
「……アスティナ殿下。敵の拠点に潜り込むのなら、俺と……」
「私も、連れていってください。私たちは、戦闘の訓練は受けていません……でも、敵に魔法士がいるのなら、私達が止めないといけないんです」
レスリーの素性――レンクルス公爵の隠し子であることを知っている殿下は、容易には許可を出すことができないはずだ。
俺も、敵地にレスリーを連れて行くなんてことはできないし、してはいけないと思う。しかし彼女の決意の固さ、俺と共に神樹に手を伸ばしてくれた姿を思い出せば、駄目だと言うことはできなかった。
「私の魔法は、敵地に潜入するときに、必ず効果を発揮します。決して足手まといにはなりません」
「……グラスの判断を仰ぎたいところですが。こうして三人で神樹のもとにたどり着いたのですから、彼女の力が大きなものであることは、疑う余地はありません」
眼鏡をかけていても分かる、レスリーが泣きそうになっていることが。
――それでも泣かないあたり、強くなったな、と思う。しかし無事に任務が終わるまでは、妹分を甘やかすことはできない。
「空気の魔法は、気配を絶つために使える……それなら、レスリーの力は必須になるな」
「……それって……」
「無理はしないこと。殿下や、同行する人たちの指示に従うこと……それを守れるなら、一緒に行こう」
「うん……っ、ありがとう、グラス兄……」
神樹と契約したからといって、戦闘訓練を受けた宮廷魔法士と渡り合うのは難しいだろう。
新しい力が必要だ。今の俺には、魔法で攻撃する有効な手段がない――足止めや弓封じはできても、魔法士に対して攻める手立てがない。
魔法は守備のために使い、攻撃は魔戦士である殿下や、ラクエルさんたちに任せる。それも考えたが、彼女たちが武器を振るうということは、ほぼノインが死ぬことは避けられなくなる。
(真意を聞きたい……俺たちの国を裏切ったのかどうか。もしノインに何かの思惑があるんだとしたら、『殺さずに無力化する』ことができれば……)
そう、考えた瞬間だった。
神樹が淡く光を放ち、地面に光が集まっていく。そして、それまでは存在しなかった植物が、土を盛り上げて茎を伸ばし、大きな四枚の葉を出した。
「これは……神樹の眷属……?」
魔物化していた植物のどれでもない――図鑑で見たことすらない。
精霊界の植物を、神樹が召喚してくれたのだろうか。その葉に触れてみると、俺の頭に、一つの名前が浮かんでくる。
「……マンドレイク……この植物を、俺のために?」
神樹は応えない。俺に、自分で答えを見つけるようにと言うかのように。




