第五十八話 再契
もう、遠慮などしてはいられなかった。魔法を維持するための魔力を、後ろから支えてくれる殿下から借りて、俺の前には空気の魔法を維持するレスリーがいてーーその腰を抱くようにしてしがみついても、ほんの少しずつしか進めない。
神樹の声は聞こえてはこない。俺たちが来たと分かっていても、信仰を失って枯れ果てた神樹は、暴走を自身でも止めることができないのだ。
「二人とも、決して手を離してはなりませんよ! この瘴気の中で離されたらっ……!」
「くぅっ……ぅぅ……グラス先生……もう、神樹のくれた空気が……もちません……っ」
「もう少しで……手が、届く……っ」
神樹の幹に触れようと手を伸ばす――しかしその瞬間、俺の掌に焼け付くような痛みが走った。
乾ききって割れた樹皮の下に覗いているのは、血のような赤色。灰色だった樹皮は黒に近づき、触れようとするもの全てを拒絶していた。
――終わりにしなければならない。この地に根を張ったこと、それ自体が間違いだった。
――王に出会い、王家の巫女を通じて、人の世を見てきた。
――私が人のためにしたことは、何の意味も残らない、虚しいことだった。
――人間に関心を示さなければ。力を貸さなければ、私はあるがままの姿でいられた。
誰のものなのか、頭に声が響く。一つ聞こえるたびに、俺の脳裏には、見たことのない光景が見えていた。
神樹の命は終わりを迎えようとしている。俺が見ているものは、死に瀕した神樹が見ている、過去の記憶なのかもしれない。
もし人間に力を貸していなければ、神樹は『神』とならず、一介の樹木の精霊のままでいられたのだろう。
しかし一度信仰を得て神となると、人間との繋がりを失ってしまえば、その根から世界の淀みを吸い上げ、蝕まれていく。
「……私は、もっと早くここに来なくてはならなかった。あなたが、これほどに苦しんで、変わり果ててしまう前に」
殿下が神樹に語りかけている。後ろから伸ばされた殿下の手が、神樹に伸ばした俺の手に重ねられた。
そして、レスリーの手も。俺たちは痛みを恐れず、もう一度神樹に触れようとする。
「くぅっ……あぁ……痛く、ない……グラス兄と、一緒なら……っ!」
「貴女をもう独りにはしません……この身がいつか果てるときまで、ずっと傍に……だから、私たちの声に応えてくださいっ……!」
レスリーもアスティナ殿下も、俺と同じ苦痛を味わっているはずだ。しかし彼女たちは耐え、声を限りに神樹に呼びかけ続ける。
「俺の声が聞こえるか……俺たちはここにいて、信じている。おまえがもう一度、元の姿を取り戻すことを……」
――言葉を……契約の……力ある、言葉……グラス・ウィード……。
殿下の小手の下から、光が溢れる。彼女の身体に俺が施した、霊導印の放つ光。
神樹が契約を求めている。俺はそれを、やはりユーセリシスが、殿下を契約者として選んだからなのだと思った。
「グラス兄……っ!」
レスリーが叫ぶ。俺も、何が起こっているのか分からなかった。
輝いているのは、殿下の霊導印だけではない。俺の身体に描かれ、契約を終えて見えなくなっていたはずの印が、再び浮かび上がっている。
「契約の詠唱をしてみる……私も、あのとき一緒に、グラス兄のことを見てたから……どんな詠唱をすればいいか、分かるから……っ」
俺と殿下の霊導印が、どちらも反応している。今の状態で契約が成立すれば、何が起こるのか――全く想像がつかない。
しかし、もし俺が契約する時に見たものが、今起きていることの答えなのだとしたら。
「万象を司りし者よ! 導きの印を刻まれし者が、神樹の精に契りを求める……!」
レスリーの詠唱を引き継ぐ言葉が、自然と俺の中から溢れてくる。
ユーセリシスが、契約を促している。それが始まり――彼女が、神樹としての力を取り戻すための。
「――我がもとに真なる姿を示し、誓約を求めよ……神樹ユーセリシス!」
詠唱は、完成した。
俺たちの霊導印が輝きを増し、結びつきが形づくられてゆく。
「ユーセリシス……それが、貴女の名前なのですね……やっと、知ることができた……」
今までただ溢れていただけの殿下の魔力が、霊導印を介して神樹と繋がり、黒く枯れた大樹に活力を与えてゆく。
しかし、殿下と神樹が契約を介して繋がったというだけではない。
「……グラス兄……やっぱり、『はずれ』なんかじゃなかった。みんなも、私も、ずっと間違えてた……」
レスリーの言葉に答えるかわりに、俺は彼女の一回り小さな手を包み込むように握った。
アスティナ殿下は、『巫女』として神樹と結びつきを形成した。
――そして。
俺は『魔法士』として、『神樹ユーセリシス』と契約した――いや。
俺はずっと、呼ばれていたのだ。『植物の精霊』のおおもとである、『植物全てを統べる神樹』と、こうして契約を結ぶために。




