第五十五話 水の魔法士
魔法士の名前が出ても、アスティナ殿下は俺たちの表情をうかがわなかった。動揺は伝わっているはずだ――しかしすぐにこちらを見れば、疑いをかけているようにもとれる。殿下はそれを良しとしない人物であるということは、これまでの彼女の振る舞いから伝わっていた。
いや、初めは俺たちを容易に信頼しないようにと考えてはいたのだ。だが、俺が第二王妃の息がかかった人物でないと知ったあとは、疑いを向けられてはいない。
「その、ノインという魔法士は、どのような魔法を使うのですか?」
「……そこまでは……自分は、流れてきた話で聞いただけで……突然、若い女がやってきて、アレハンドロ将軍の側近に……しかし、直属の隊長からは、立場をなくしたくなければ何も言うなと……」
捕虜の話を聞いていると、疑念が改めて強まっていく。
魔法士の名が出たこと――それが俺達の世代で主席を争っていた生徒のものであること。まだ断定はできないのだが、俺とレスリーの知っている人物であるのならば、『ノイン』と本名を名乗り、アレハンドロ将軍に力を貸していることになる。
宮廷魔法士はすなわち戦闘魔法士であり、基本的に軍属だ。その人物が敵軍に力を貸しているとなれば、明らかな反逆行為となる――離反者には極刑が科せられると聞いたことがあった。
スヴェンはこの国が戦争状態にあることを憂いており、元素精霊と契約できなかったことを初めは悔いていた。だが『石』の精霊でもできることはあると考え、町で軍の動向について噂話を収集して、俺にも話してくれていた。
(スヴェンはノインと同じクラスだったはずだ。彼女が敵に寝返ったことを知ったら、ショックを受けるだろうな……)
「若い女の魔法士……そいつのせいで……っ」
「プレシャ……今は抑えてください。あなたの気持ちは、騎士団の全員が理解しています」
アスティナ殿下もまた、拳を握りしめていた。ノインの魔法に惑わされて敵軍の侵攻を許したとしたら、憤りを覚えるのは当然のことだ。
しかし、俺は一つ引っかかっていた。ノインという生徒は、一度学院の集会で発言したことがあるが、とても裏切りに加担するようには思えなかった。高潔な決意をもって宮廷魔法士を目指し、王国の守りに貢献したいと言っていたのだ。
(……なぜ、本名を名乗る必要がある? 敵国に寝返るとしても、素性を探られでもしなければ偽名を使えばいいはずだ。それも、隠密工作部隊とはいえ、一般の兵に知られているのは……あのノイン・フローレスが、それほど迂闊なことをするとは思えない)
その整った容貌と、魔法士として極めて優秀であることから『水の宝石』とうたわれた少女。俺は一度だけ、座学の試験で彼女と満点で並んだことがある――そのときは、実技の授業を受けられない俺が無駄な努力をしたのだと笑われた。
もちろん、魔法理論の試験だけで同点だったからといって、付け入る隙があるということではない。宮廷魔法士になってから二年が経つ彼女は、俺やレスリーとは比べ物にならないほど実戦経験を積んでいるはずだ。
いつから、彼女がジルコニア軍にいるのか。情報を集めるつもりが、ノインの名を聞いたことで、一気に疑問が増えてしまった。
「……最後の質問です。アレハンドロ将軍は、この要塞を落とすまで引くつもりはないのですね?」
「……将軍は……王の勅命を受けて、レーゼンネイアを攻めるようにと……期間は、半年以内……それまでには、レーゼンネイア西方領を、全て手中に……」
「召喚主さま、そろそろ、この人がもたないのです」
「わかった。催眠を止めますので、捕虜を休ませてやってください」
牢番の女兵士に後のことを任せ、俺達は地下牢から出て地上に上がる。
アレハンドロ将軍は、この要塞を陥落させるまで執念深く攻めてくる。そして、敵に魔法士がいることも踏まえて動かなくてはならない。
「……ノインという名前に、心当たりがあるようですね」
神樹のもとに向かうため、馬に乗る前に、殿下は尋ねてきた。やはり、彼女は悟っていながら、あえてすぐには触れなかったのだ。
彼女は国を守るために戦うと言った。西方領が王国の領土で在り続けるために。
――しかし、この国が。すでに、国王陛下の意志がこの地に届くことなく、歪められてしまう状況にあるのだとしたら。
国にとって重要な戦力を育成するシルヴァーナ魔法学院の出身者が、個人の策謀によって、敵国に送られている。それが事実と確かめられてしまったら、ジルコニアをたとえ撃退し、敵の拠点を落とすことに成功しても、後ろから攻められる危険が生じてくることになる。
「言いたくなければ、いいのです。私も、まだ知らずにおくほうが……」
「……俺が知っている人物だとしたら、ノインは魔法学院の生徒です。水の精霊を使う……おそらく、運河一帯に満ちている水精霊の力を借り、大規模な幻影を作っていたんだと思います」
殿下は俺の言葉を聞いて、どこか遠いところを見るような目をする。その憂いを帯びた横顔に、今言うべきではなかったのかもしれないと思った。
だが、ごまかしても何も好転はしない。アスティナ殿下に対する、王室の何者か――おそらくは第二王妃の陰謀は、もはや抜き差しならないところまで来てしまっている。
「……たとえ我が国の魔法士であったとしても、倒さなければならない。そのために、できることを……」
殿下が言いかけたときのことだった。降ろされた跳ね橋を渡って、一人の斥候が帰還してくる――そして、あらん限りの声を振り絞って言った。
「伝令……っ、南方にて、正体不明の魔物が多数出現! 住民は避難しておりますが、一時は止まっていた灰色の地が、再び広がり始めています……っ!」
枯れ果てても、わずかな力で踏みとどまってくれていた神樹が、ついに眷属たちの暴走を止められなくなった。
一刻も早く、神樹の元に向かわなければならない。植物の魔物たちが襲ってくるとしたら、たどり着くことは困難になる――それでも、迷っている時間はなかった。




