第四十九話 霊導印
レスリーの素性については、義姉さんから殿下への書状にはすでに書かれているらしい。つまり、アスティナ殿下はレスリーのことを知っていてここに置いてくれたということだ。
俺が主君であるアスティナ殿下を欺くことになるわけではない。そう説明すると、レスリーは再び男装し、空気の精霊に干渉して、『レンドル』の装いに戻った。
そろそろ、カリンが殿下の霊導印を紙に写し終えているはずだ。それは半分だけなので、全体像を想像し、復元してから殿下の身体に描き込まなくてはならない。
「私は、霊導印の形を復元するのはできると思う。形を覚えるのは得意だから」
「本当か? それなら、殿下の身体に描きこむのも、同性のレスリーに……」
そう言いかけると、レスリーは首を振った。妙案だと思ったのだが、なぜ駄目なのだろうか。
「さっき、グラス兄……」
廊下を歩いているときに話すと、普通の声でもそれなりに響く。レスリーは誰かに聞かれても大丈夫なように、途中で言い直した。
「グラス先生が魔力の回復を促す施術をされたのなら、グラス先生の魔力が、アスティナ殿下の身体に入っていることになります。そこに私が魔力を込めながら霊導印を描くと、反発が起こると思います……『免疫』ができますから」
「そ、そうか……」
「先生も、そういったことはおわかりだと思います。殿下のお心を気遣うのは、先生の優しさのあらわれだと思いますが、これはお医者様のお仕事です。みなさん、疑いの目を向けたりなどしませんので、堂々と施術をしてください」
頼りになる秘書――というか、これでは普通に、妹分に説教をされているだけだ。
しかしレスリーの言うとおりなので、反論は出てこない。本来なら、カリンに任せるのではなく、俺が殿下の身体を見ながら霊導印を見て、写し取るべきだという思いもあった。
そうしなかったのは、まさにレスリーに指摘された通りの理由だ。
(そうは言ってもな……霊導印は、恥ずかしいとか言ってられない場所にも描き込まれるしな。基本は同性が描くことになってるんだが……)
「グラス先生、すみません、言葉が過ぎました。ただ、これからも女性が相手だからと遠慮をすることがあってはいけないと思って……」
「いや、レスリーの言うとおりだ。殿下の御体に関わる問題だ……今後は、医者としてするべきことをする。未熟なことは言ってられないしな」
「……こんなに優しい先生が来てくれて、皆さんも喜んでくださっていると思います」
「お、おい……『レンドル』さんは、俺に対して甘すぎないか」
元のレスリーはシニカルなところもあったので、思わず慌ててしまう。俺という人間は、とことん他人に優しくされることに弱いのだろう。
「ここに来てからの先生を見ていれば、誰でも思うことです」
「……無我夢中で、自分ではよく分からないんだけどな」
俺が診察や治療をしているところを、レスリーは助手として見ているから、俺とは違うものが見えているのかもしれない。
患者さんの心情を理解するのは大事なことだ。多忙だからと、ひとりひとりの顔を見られないことが無いように、常に心がけていなければ。
◆◇◆
殿下の部屋の外で待っていたカリンから、殿下の身体に描き込まれていた霊導印を模写したものを受け取る。
「……光が、かすれて見えないところが……」
「……大丈夫です。これなら、復元できそうです」
「良かった……じゃあレンドルさん、できるだけ急いで頼む。どれくらいかかる?」
「半刻ほどあれば足ります。少々お待ちください」
半刻――霊導印のかすれた部分を復元して、下半身部分の印の形状から上半身の部分まで類推して描く必要があるのに、それだけしか必要としないとは。
レスリーが隣の部屋で復元作業をしている間、俺はカリンから殿下の容態を聞いた。今のところ落ち着いており、先ほどまでソアラと話していたが、今は休まれているという。
ラクエルさんは先ほどまで残っていたそうだが、殿下の指示を受けて自室に戻り、今は休んでいる。明日の早朝から軍議を行うため、それに備えて休むようにと言われたそうだ――どんな話がされるのか気になるが、軍医の俺が呼ばれることはないだろう。
やがてレスリーが霊導印の図を完成させて持ってきてくれた。俺は自室から持ってきた塗料と筆を持って、殿下の寝室に入る。
この塗料は魔法陣を描くためにも使うもので、魔法士が最初に調合を教わるものでもある。材料が王都でないと手に入らないため、これも足りなくなれば調達しなければならない――俺の手で霊導印を描く機会は、二度とないかもしれないというほど稀有だが。
「……グラス、準備ができたのですね。ソアラ、彼の集中を削がないよう、一度退室していただけますか」
「っ……で、殿下、しかし……」
「心配はいりません。私は彼のことを信頼するに足る人物だと、報告を受けて感じています。私は、その直感を信じます」
「か、かしこまりました。申し訳ありません、グラス様、お疑いするようなことを……」
「いや、無理もありません。男の俺と王女殿下二人きりにするなんて、言語道断でしょう……でも、信じて任せていただけませんか」
「い、いえ……私こそ、殿下の御身体を一番に考えるべきなのに、従者の義務ばかり考えて……もう、お手間を取らせたりしません。殿下が信じる方を、私どもも信じます」
ソアラは頭を下げて退室していく。
二人だけになると、殿下は胸元にたぐりよせていた毛布を、ゆっくりと下げていく。
「で、殿下……少しずつ描き込んでいきますので、一部分を見せていただくだけで……」
「……それでは、手間がかかってしまうでしょう。全体像を見ながら描く方が、早いはずです」
殿下の言うとおりだ――一部分だけ見て描くだけでは、見えていない部分を想像しながら描いていくことになるため、作業には時間がかかってしまう。
淡い明かりしか灯らない、薄暗い部屋の中で、神々しいまでの姿態を露わにして、彼女は感情を押し殺した瞳で俺を見る。
――押し殺していると分かるのは、隠しようもなく、その顔に赤みがさしているからだった。
「……お願いします。私は、目を閉じていれば良いのですか?」
覚悟を決めた殿下を前にして、俺はもう一切揺らいではならないと思った。頷きを返して、彼女に横たわるように指示する。
太腿から脛にかけて描き込まれた霊導印が、かすれて途切れている。俺は鞄から陶器の小皿を出すと、そこに塗料を出して、幾つかの筆の中から最も細かいものを選んだ。
「もしくすぐったかったりしたら、言ってください。安静にしていただく必要がありますので……」
これから、空が白む前――一刻半ほどで、施術を終える。殿下に少しでも休んでいただくためには、可能な限り急がなくてはならない。
俺が描き始めても、殿下は全く動かなかった。ただ静かに胸を上下させ、目を閉じて、描くことに何の支障もないように配慮してくれていた。




