第四十八話 同室
ありがとうというのはまだ早い気がする。今、この要塞が置かれている状況を乗り越えた後でなければ、気を抜くことはできない。
「……ごめんなさい、グラス兄……」
レスリーははにかみながら謝る。何を考えているのか分からないことが多い彼女が、こんなにはっきり恥じらって逡巡している姿は、言葉をなくすほどしおらしいものだった。
――それよりも、何よりも。今の状況を穏便に気付いてもらうには、俺は三年長く生きただけとはいえ、年上らしくフォローを入れなくてはならないと思う。
「謝ることは、ないんだが……さすがに、こんなところで後ろに倒されると、魔法士じゃなかったら怪我しそうなところだな」
「っ……ご、ごめんなさい……私、グラス兄に迷惑ばかりかけて……あっ……」
そこまで言って、ようやく彼女は、自分が一糸まとわぬ姿でいることを自覚した。
「っ……、っ……」
人は動転しすぎると、声が出なくなる――今のレスリーがそれを体現していた。
隠すことも忘れていた彼女は、ようやく思い出して、両手で隠す。俺は目を閉じ、さらに自分で目を覆う。
「み、見てないから……いや、多少は見えたけど。少し、大胆すぎたんじゃないか」
「も、もう少し待って、まだ目を閉じてて……私がいいって言うまで、お願い……っ」
「わ、分かってる。慌てなくていいからな」
俺はレスリーがいいと言うまで目を閉じる。衣擦れの音に耳を傾けることなく、俺は辺りの木造品に宿る精霊と話をしていた――あわてんぼうの娘さんですね、とご年配の材木の精霊が言う。俺は、いつもは落ち着いているんですが、と世間話風に答える。
「……グラス兄、着替えたから。起きて……」
「ああ……おおっ、『レンドルさん』に戻ってる」
――そして、許可されて身体を起こし、目を開けると。しっかりさらしを巻き直して、男物の服に着替えたレスリーの姿があった。
「でも、空気の精霊に干渉しないと、やっぱり……レスリーだよな」
「……今は、口を隠してないから……口は一番、人の特徴が出るところだから、隠さなきゃ」
「そうだな……その辺りは、部屋に戻ってから相談するか。今後も『レンドルさん』で居続けないといけないのかどうか」
立ち上がると、レスリーが服を払ってくれる。甲斐甲斐しく世話を焼かれると、今までレンドルさんが秘書としてしてくれたことも全てレスリーがこんなふうにやっていてくれたことに、何か申し訳ないという気分になる。
「……付き合いが長いんだから、仕草とかでも気づくべきなのにな」
「『空気』の精霊は、学院でははずれって言われてたけど、私は違うと思ってた。空気っていうどこにでもあるものに干渉できる力だから……人はみんな、何かを見たり感じたりするときに、空気越しに感じてる。だから『空気を変える』と、別人に見せたりもできる……ごめんなさい、ずっと秘密にしてて」
「いや、隠してたのは仕方ない。その魔法は、使い方によっては……もし、諜報活動なんかに利用しようなんて考える人がいて、レスリーに接近してきたら厄介だ。これからも、あまり人には言わない方がいい」
はずれの精霊使いは、教師たちの前で実技を披露する必要がなかった。元素精霊使いのみが実技を求められ、評価に加えられ、学院の華々しい誇りとして扱われていた――そんな慣例のおかげで、逆に俺たちは自分の精霊についての情報を開示することなく、秘匿していられた。
『植物の精霊』というだけで無評価の俺の成績表を見れば、魔法士として使い物にならないと誰もが思うだろう。第二王妃は自分の息子である王子と王位継承権を争うアスティナ殿下の元に、おそらく足を引っ張らせるために俺を送り込んだ。
レスリーの精霊も無評価でなかったら、必ず目をつけられる。『空気』に干渉する精霊――風の精霊と似ていると考えたことがあったが、実際はまるで違っている。
「……グラス兄の魔法も、戦いに使えるなんて知らなかった。お医者さまとして、いっぱい勉強して、手術もすごく上手で……私、グラス兄のこと、もっと頼りないと思ってたのに」
「まあ、そう思われても仕方ないが……俺の特技は覚えてるだろ。またそのうち、どこかで果実の生った木を見つけたら、実を分けてもらおう」
「うん。できたら、無花果がいい……そうでなくても、グラス兄と食べられるのなら、なんでもいい」
眼鏡をかけたレスリーの姿にはやはり違和感があるのだが、それは今は言わなかった。
眼鏡を外した方がいいんじゃないか、と言ったりすれば、口説いているみたいになってしまう。
「……私はまだ、本当の素性をこの要塞で明かすわけにはいかない。戦いが落ち着いたら、もう一度『レスリー』に戻ってもいい?」
「それは……どうしてなんだ? 事情あって男装してたって言うとみんな驚くだろうが、男装はレスリーにとっても負担がかからないか」
「ううん……この要塞に出入りする人は、私の家のことも知ってるかもしれないから……万一、家に私がグラス兄の秘書をしてるって伝わってしまったら、きっと連れ戻しにくる」
「……そういうことだったのか」
義姉さんが茨の道と言ったのは、おそらくこのことだった――俺についてくるなら、身分を偽らなくてはならない。
しかし、それだけじゃない。他人を装うなら、女性であっても良かったはずだ。
それでも男性を選んだ理由がある。もう思い当たってもいいはずなのだが、俺はどこまでも勘が働かない。しかし最大限に頭を働かせて、やっと一つの回答を見出す。
「……男装して秘書をすれば、俺と同じ部屋でも皆に怪しまれないと思ったから……っていうのも、あるのか?」
「…………」
レスリーは答えなかった。それが、正解だった――俺の秘書になって、俺のそばについていても怪しまれないために、男装したのだ。
「……そういう理由もあるけど……それだけじゃない」
「え……ま、まだ何かあるのか?」
「……この要塞は、みんな女の人だから……グラス兄と、もし他の人が相部屋になったら……そういうこともあるかもしれないって、思ったから……」
とても言いにくそうに、レスリーは言う。そんなことを想像することさえ、本当は恥ずかしいのだろう――顔を真っ赤にして、それでも本当のことを言ってくれている。
確かに、要塞の部屋は限られているので、俺が一人で来ていたら、誰かと相部屋になることもあったかもしれない。事前に義姉さんから聞いていたとおり、女性兵士から意識されることが多いというのも、実際に感じたことだ。
「……つまり、俺の監視役として来たわけか。全く……」
「……ごめんなさい」
「いや。俺が危ないっていうのと同じように、レスリーも戦場に来たら危ないだろ。だから、責任持って、無事で返さないといけない」
「グラス兄……ありがとう。私、秘書として、しっかりお仕事をするから」
「ああ、よろしく頼む。これからもずっと忙しいだろうから、無理はせずに行こう」
俺たちは笑いあい、部屋に戻っていく。
二人で並んで歩くと、レスリーが男物の服を着ていても、学院で過ごした頃のことを思い出した――隣り合って歩いたことは、それほど多くなかったのだが。
レスリーが何を思ってここに来たのか。今の話で、それは確信してもいいくらい明らかだと思う。
しかし今は、何よりも軍医と秘書として、この要塞における役目を果たしたい。山積みになった問題をどの順番で崩していけるのか、歩きながら思索を巡らせていた。




