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第四十七話 秘密

 深夜でも湯浴びのための温水は用意してもらえていたのか、脱衣所は底冷えすることもなく、空気は温かく湿っていた。


 濡れた髪からまだ雫が伝っていて、ぽたぽたと、白い肘から足元に滴り落ちた。


「……っ、空気の精、エアリア……我が声に応じ……っ」

「ま、待てっ……何をしようとしてるのか知らないが、落ち着け……っ!」


 秘密を見てしまった俺に、実力行使をしようと言うのか――身体の前面を頼りなく覆うタオルを持ったまま、彼女――レスリーが正面から間合いを詰めてくる。


「くっ……!」


 何をしようと言うのかが分からず、反撃するわけにもいかない。俺は足元に敷かれていた木製の簀子(すのこ)に働きかけ、弾性を高めて受け止めてもらう――それでも衝撃が全く無くなるわけではなく、押し倒された拍子に息が止まる。


「……エアリア……我が身にまといし空気……っ、朧なる幻と成り代わりて……」

「……そうか。空気の精霊……学院では見られなかったけど、それを使ってたのか」


 俺の上に覆いかぶさり、肩を押さえつけているレスリーを見上げながら言う。


 ――濡れた髪が顔にかかって、その瞳はただ怯えたように俺を捉え、詠唱を続けることもできなくなった彼女は、ただ俺を見ている。


 身体を隠していたタオルすら、もうどこかに飛んでいってしまった。そんなに彼女が取り乱す姿を見たことは、今まで一度もなかった。


「なかなか、凄い魔法なんだな……完全に男性だと、別人だとばかり思ってた。声の感じを変えるのも、空気の精霊なら難しくないってことなのか」


 専門分野以外のことには詳しいわけではないが、声というのはつまり、人間の声帯の振動が空気に伝わり、音となって生じるものだ。


 空気の精霊と契約し、干渉できるレスリーなら、声を変えられてもおかしくはない。それでも限界はあるのか、声の高さは下げきれていなかった。


「……どうして、もう少し後に、戻ってきてくれなかったの……?」

「すまない。これでも、レスリーが寝ている間に衛生棟を出て、殿下のところから戻ってくるまで、かなり時間が経ってるんだ」

「それでも……あと、少しだけ……少しだけ、遅くなってくれてたら……」

「……そうしたら、俺はもっと長い間、気がつかないままだろ。でも、いずれ気づく。気づかなきゃいけないだろ、これまで何も知らずにいたことが、どれだけ馬鹿なことでも」


 俺を押さえつけていたレスリーの手にこもる力が緩められる。彼女は手を引き、その瞳から涙がこぼれた。


「……グラス兄は……馬鹿じゃない……学院から命令が出されたら、絶対に従うって分かってた……学院長も、そう言ってた。だから、私に教えてくれたの……グラス兄が、行っちゃう前に……」

「それで……義姉さんと相談して、俺についてきたっていうことなのか。もう一生会えなくなるわけじゃないのに、なんでそんなことしたんだ」

「……戦場に行ったら、何があるか分からない。今日だって、たくさんの人が亡くなって……グラス兄がそうなっちゃったら、もう二度と……っ」


 会えないと思った。そこまで言葉にすることができずに、レスリーは声も上げずに泣き始めた。


 つかみどころがなくて、いつも冷静で。俺なんかより成績が良くて、けれど同じはずれの精霊を引いてしまって、周囲から認められなくなってしまって――同じ境遇を慰め合っていたわけじゃない。だが、俺は確かに、レスリーとスヴェンを心の拠り所にしていた。


 ――はずれの精霊に選ばれるやつは、生まれたときからついてないのさ。


 ――ねえ、あの人また木の世話なんてしてる。学院なんてやめて、庭師にでもなればいいのにね。


 ――グラス・ウィード。魔法士としてではなく、父君の仕事を手伝うことも考えてみてはどうかね。王都議院の事務員であれば、紹介状を書いてやれるが。


 魔法士になるために学院に入っていなければ、彼らの言うような生き方を選ぶこともあったかもしれない。しかし魔法学院に入ってしまった以上、俺は夢を捨てられなかった。


 蔑まれ、疎外されるたびに、初めは世の中を呪う感情の一つも湧いた。


 仲間がいたからこそ、俺ははぐれ者として扱われることに耐えられた。


 契約した精霊のことまで否定され、学院でただ呼吸をしているだけの存在に成り下がることを強いられても、諦めずにいられた。


 俺は死ぬことなんて恐れていなかった。


 誰にも必要とされないと思い、夢を絶たれたときに、人は簡単に絶望し、世の中を冷めた目で眺めて、自分も他人も貶しめる言葉ばかりが頭に浮かぶ。


 そうやって立ち止まり、泥の底に感情を沈められて生きる方が、死ぬよりもなお悪い。


 俺は泣いているレスリーが落ち着くまで待ち、彼女がこちらを見るまで待った。


 やがて潤んだ瞳がこちらに向けられる。俺はレスリーに初めて会ったときのことを思い出していた。


 あの時も、そんな目で彼女は俺を見た。恐れるように、けれど何かを求めるように。


「……夢が、あったんだ」

「……夢……宮廷魔法士になりたいって、言ってたこと……?」

「それもある。でも、それ以前に……俺は魔法士として、いっぱしの何者かになりたかった。それくらいの、漠然とした夢だ」


 俺が何を言いたいのか、まだレスリーには分からないだろう。けれど興味を持ってくれたのか、呼吸が次第に落ち着いてくる。


「……今日死んでいった人たちも、これまで国のために命を落とした兵たちも、みんながそうだった。夢があっても、それを叶える前に国を守ることを選んだ。だけど、もし生き残ることができていたなら……彼女たちは、もう一度夢を追いかけられたはずなんだ」


 前線の要塞に、軍医として赴任する。それを受諾したときには、俺はただ、宮廷魔法士の末席に座れることを第一として、軍医の仕事はそのためのものだと思っていた。


 今は、違う。軍医としてこの要塞に来られたことで、俺の夢の一つは叶えられた。それで終わってはならない――こんなことを考えること自体がおこがましくても、願わずにはいられない。


「俺はこの戦いが終わるまでを見届ける。いつか戦わなくて済むようになるまで、自分にできることを探したい。死ぬ恐れのない場所で平和に生きていくのも、幸福なことだ。でもそうしたら、俺はいつかレスリーが嫁いでいくところを遠くで眺めて、できることをやらずに生きて死ぬだけで終わる。それよりは、いつ死ぬか分からない場所であっても、ここでやるべきことをやりたい」

「……グラス兄……私の、家のこと……知ってたの……?」

「……全部知ってるわけじゃない。でも……レスリーが、公爵の血を引いてることは知ってる。ずっと黙っていてごめん。俺は、レスリーがついてきたことを怒る資格なんてないんだ。俺だって、もっと酷い嘘をついてた」


 本当のことを言ったとき、俺は全てを失うのか、それとも――許されるかもしれないと思うことさえ、罪だと思った。


「……そんなの……嘘なんかじゃない。グラス兄は、私のために何も言わないでいてくれた。私のほうが、自分のことだけ考えて……今だって、自分の嘘を守ろうとしてただけ……」

「……じゃあ、二人とも同じか。俺たちは、色々考えすぎてたのかな」


 初めは、レスリーは驚いたような顔をした。


 しかし『同じ』という意味が伝わったのか――彼女は顔をほころばせ、久しぶりに微笑む。


 その泣き笑いの表情に、俺は何も言えなくなる。彼女をここまで思い詰めさせたのは、俺で――彼女は俺が前線で死ぬことを、当の俺よりも怖がってくれていた。


 そんな彼女に対する感情は、ただ暖かかった。感謝と、何をしたら報いられるのかという思いがあった。

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