第四十六話 追憶
アイルローズ要塞には、運河から引き込まれた水路が通じている。それは生活用水として使われるのだが、他に深く掘られた井戸があり、食事を作るための真水として使われる。
元々は近隣の住民が小さな集落を作り、そこで利用されていた井戸なのだが、要塞を作るときに買い取られたのだという。その金を元手に、元の住民は要塞に近いウェンデルの町に移り住んだそうだった。
その井戸の代価が高かった理由が、二つ掘られた井戸のうち一つに、温泉が混じっていたことによる。要塞一階の宿舎に寝泊まりする兵たちにとって大きな利点は、温水の利用がしやすいということにあった。
要塞の地下はいくつかの区域に区切られており、そのうち一つには幹部の利用する浴場があるということだった。それも、女性だけの要塞ならではの配慮という気はする――戦時とはいえ、衛生状態は士気に直結するので、施設が整っているのは良いことだ。
(まあ、温泉と井戸も無限に湧くと限らないから、普段は身体を拭くくらいしかできないが……学院では、町に出てたまに公衆浴場に行ってたが、なかなかそういうわけにはいかない)
少し昔のことを思い出し始めると、やはり仲間のことが頭に浮かんでくる。スヴェンはたくましい奴だから大丈夫だと思うが、レスリーは学院で上手くやっているだろうか。
レスリーの家のことを考えると、気がかりではある。レンクルス公爵家当主の、隠し子――レスリー自身も俺が知らないと思っているが、俺は偶然にも、その事実を知ってしまっていた。
俺の父親は貴族議院に務める事務官で、俺の母親は子爵家の七女だった。本来なら、レスリーとは身分の差が大きく、交遊できる関係ではない。それがなぜ、彼女と知り合い、『グラス兄』と呼ばれるようになったのかというと、出会った当初に遡らなければならない。
俺が八歳で魔法学院に入った頃は、貴族の血を引いているということで、教師たちの目はそれほど厳しくなかった――その期待は、選霊の儀の日に裏返ることになるのだが。そもそも貴族の子女は少なくなかったので、俺が特に優遇されていたというわけではない。
しかし俺がまがりなりにも貴族の血を引いており、レンクルス公爵家との間に母親の実家が関わりを持っていたことで、俺はレスリーが入学してきた当時、ヘンドリック教頭に呼び出されてあることを頼まれた。
『レスリー・リー・レンクルスに他の生徒が危害を加えないよう、学院内で警護する人員のひとりとして、君にも協力してもらいたい』
それは、新入生と上級生が班を組んで行う林間学校の場で、俺に厳重にレスリーを見ていてもらいたいという頼みだった。
他にも数名、レンクルス家の息がかかった貴族の生徒が選ばれて、レスリーはおそらく全く自覚のないまま、複数の人間から監視を受けながら、林間学校の時間を過ごした。
俺はレスリーとは違う班だった。何があったのか、レスリーはあれだけ厳重に警護の指示が出ていたにもかかわらず、森の中で迷子になってしまった。
他の誰かが、レスリーを探してくれる。まだ話したこともない年下の女生徒を、俺が進んで助けに行くのは不自然だと、初めは思った。
けれど、いくらも迷わなかった。誰もが暗くなり始めた森に尻込みする中、俺は暗い森の中でもレスリーを探し出せると、理屈もなく確信していたのだ。
思えばそのときには、俺は植物の精霊と契約する兆候があったのかもしれない。自然に存在している木々の精霊たちが、レスリーの居場所を教えてくれている気がしたのだ。
『どうして、ここに来たの?』
探し回ってようやく見つけた少女は、大樹の根本にできた洞の中から、手をのばす俺を見上げた。誰も信用していない、そう伝わってくるような目だった。
俺は本当のことを言うことを、どうしてかためらった。『先生に頼まれたから』という一言を口にすれば、目の前の少女がどんな顔をするのか、想像がついていたのかもしれない。
だから俺は必死に考えて、考えても答えが出なかったから、『分からない』と言った。
そのときレスリーをどうやって連れ帰ったのか。足を挫いていた彼女をおんぶするまでのことを、俺はもうはっきりとは覚えていない。
(……俺は本当のことを言うまでは、死なない。だから何も心配いらないんだ)
教頭から指示を受けたこと、レスリーの出自を知っていたこと。そのことをずっと黙ったままでいてはいけない――いつか俺は、彼女から罰を受けるべきだ。
何も知らないという顔をして、『グラス兄』という呼び方も享受して、同じようにはずれの精霊を引いたレスリーと共に過ごす時間を居心地がいいと感じていた。
レンクルス家の血を引く女性は、全員が政略結婚で嫁いでいる。俺が学院を離れている間に、いつレスリーもそうなってもおかしくはない――貴族は十八歳までには、全てが嫁いでいくと言われているのだから。
「あ、あの……グラス先生?」
「っ……す、すみません。廊下で立ち止まったりして」
気がつくと、髪の短い女性が目の前に立っていた。衛生兵の名前はまだ全員覚えられていない――今度、改めて覚えなければ。
「ああ、湯浴びに行かれるんですね。浴室でしたら、男性使用中の札が出ていましたよ。グラス先生と秘書の方のために、私達が札を作っておいたんです」
「お気遣いありがとうございます」
「いえ、こちらこそ……先生方には、大変お世話になっていますから……そ、それではっ」
何か慌てたように、女性は走っていく――しかし『廊下では静かに』という標語の張り紙が見えたのか、そこからは早足で立ち去った。
この要塞の人達は、規律を重んじる勤勉な人ばかりだ。色々な人がいるのだとは思うが、今のところ人間関係は改善しつつあるし、諍いもない。うまくやれている方だと思っていいのだろうか。
(男一人だから、相当孤立するかもしれないとは思ってたが……そういう意味では、やっぱりレンドルさんが居てくれて、かなり助けられてるな)
そんなことを考えつつ、俺は『男性使用中』の札がかけられた扉を開け、脱衣所に入る。
「あっ、レンドルさん。もう、上がるところ……」
「っ……!?」
――そこにいるのは、『レンドルさん』以外であるはずがない。
男性使用中の札。俺と一緒にやってきたレンドルさん――帽子を外して眼鏡を取っても、間違いなく男性だった。
だが、俺はずっと、レンドルさんが俺をゴブリンの矢から守るときに使った魔法が、『何の精霊によるものなのか』を聞かずにいた。
その精霊の力で、『レンドルさん』が、俺に対して正体を偽っていたとしたら。
「……グラス、先生……」
そうやって俺を呼ぶ『彼女』を、俺は一瞬、俺の知っている人物と結びつけられなかった。
十二歳の頃は、まだあどけなさを残した子供だった。けれどそれから三年で、彼女が変わったと分かっていながら、俺はそれがどれくらいの変化なのか、まだ理解できていなかった。
身体を拭くための布が、頼りなく胸元を隠している。濡れた長い髪が肩にかかり、その肩も、服を工夫して隠していたのだろう――細く、華奢な曲線を描いている。
そうして俺の目に映るもの全てが、『レンドルさん』が男性などではありえないことを示していた。




