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第四十五話 感情

 まず、話すべきことは何か。何より優先すべきは、殿下の途中で終わっている霊導印を完成させることだ。


 それを行ったあと、神樹のもとに殿下を連れていく。殿下と神樹の精霊が契約するということになるかは、可能性は高いと思うが、確実にそうなるというわけでもない。


(通常なら、選霊の儀を行うと精霊界にいる精霊と契約することになる。その力を借りて、こちらの世界にいる精霊に干渉することができるようになる……ということは、王家の巫女は代々、直接神樹と契約していた……そういうことなのか?)


 精霊との契約については俺も最低限は勉強しているが、学院の教師候補生でもごく一部しか教えられないので、全てを知っているわけではない。


 ただ、霊導印に関しては幾つかの法則があり、男女で大きな図案の差があるのだが、半分描かれていればあと半分を仕上げることは難しくない。


「……グラス、どうしたのですか? 難しい顔をして」

「い、いえ……その、僭越ながら申し上げます。まず、殿下が魔力を制御できるようにするために、御身に途中まで描き込まれている『霊導印』というものを、完成させる必要があります」

「っ……」


 ラクエルさん、そして侍女二人が驚きのあまりに声を上げそうになる――そうなると分かっていたが、遠回りをしていたら話が先に進まない。


「私の身体に……それは、目に見えないものなのですか?」

「はい、描かれたときからかなり時間が経っていますので、薄れている部分もありますが……霊導印は、精霊と契約し、その力を行使するための契約書のようなものです。それを描かれているということは、殿下は『選霊の儀』という儀式を受けられる予定で、何らかの原因で中断されたと考えられます」


 俺の話を、殿下は疑わずに聞いてくれていた。その瞳を前にすると、俺の内心の揺れまで見通されそうで落ち着かなくなる。


 霊導印を描くということは、もう一度殿下の身体を見なくてはならないということでもある。学院では、生徒の心情を考慮して、描く部分以外を布で隠し、一部ずつ描いていくという手法がとられる――それでも、上半身全てに描き込むのだから、本来なら見てはならない部分も含まれている。


「分かりました。では、その印というものを描き込んでいただけますか。今ならば、この毛布の下は何も着ていませんから、都合が良いと思います」

「……し、しかし……」

「言い出しておいて、狼狽えるとは何事だ……殿下自身のご意思である。心を落ち着けて、えがくがいい」

「い、いえ。誰か、絵の上手い方がいたら、その方にお願いするというのでも大丈夫です。塗料を一時的に、誰でも視認できるようにする薬剤がありますから。勿論、人体に害はありません」

「で、でしたら……カリンはとても絵が上手なので、彼女に任せていただければ……で、でも、グラス先生が直接描かれた方が間違いがないのでは……っ」


 ソアラはかなり慌てている――対照的にカリンは落ち着いていて、その性格もあるのだろうが、アスティナ殿下に対して過剰に恐縮したりはしていない。


「……グラス、私のことを気遣ってくれているのですね。では、カリン……グラスに教えてもらって、描いてもらえますか? あなたの絵画は私も優れていると思いますし、文字もきれいですから、きっとうまくできるでしょう」

「……かしこまりました……」


 とても小さな声でカリンが返事をする。ずっと話さなかったのでどんな声なのか分からなかったが、涼やかで、囁くような話し方が逆に耳に残る。


「……ご指示を……お医者様の、言うとおりにいたします……」

「わ、分かりました。まず、殿下の身体に描かれている霊導印を、紙に起こす必要があるんです。そのためには……」

「私に遠慮することはありません。カリンは同性なのですから……」


 殿下はそう言って、俺の方を見る。何を言われるのかと待っていると――。


「……グラス、少しだけ外に出ていてもらえますか?」

「っ……す、すみません。では、描き方だけ説明して、一旦外に出ます」


 俺はカリンに正確に写し取ってもらうように頼み、図の描き方を教えて部屋を出た。


 外に置いてある椅子に座り、息をつく。図形を写し取るにはかなり時間がかかるので、離席してもかまわないと言われた。


 重大な思い違いをしていた――殿下があまりに、人間離れしているというか、超然としているから、当たり前のことに気が付かなかった。


(……普通は、恥ずかしいよな。でも、必要なことだから聞いてくれてるんだ。俺も、もっと繊細な気遣いをしないと。当たり前のことじゃないか)


 待っている時間が落ち着かない。窓の外を見ると、夜空に月が浮かんでいる――俺は一旦、自室に戻って冷静になろうと考えた。


 俺は植物のように生きることに憧れながら、全然なっていなかった。女性の身体を見て心を乱すのは、今日限りにしなくては――そう思いつつ、俺は静かな廊下を歩き、殿下の居館を出た。


   ◆◇◆


 衛生兵の居館に向かい、自分の部屋に行く。鍵を使って扉を開け、中に入る――すると、レンドルさんが一度戻ってきたようで、彼が使っている寝室の扉が開いていた。


 しかし、部屋にはいないようだ。そうなると、湯でも浴びているのだろうか。


 共同浴室なので、順番待ちをしなくてはいけないということはない。思い立ったときに身体を洗っておかないと時間が取れない――一日の汚れで服はすすけているし、ごまかせないほど汗臭くもある。


 俺は着替えを持ち、浴室に向かう。女性が入っているのなら問題があるが、レンドルさんが入っているのなら、他の兵たちに話は通してあるだろう。

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