第四十四話 目覚め
診療を終えて侍女の部屋に二人でいるのは問題があるので、俺は廊下に椅子を出してもらい、そこで殿下の容態の変化に備えようとしたのだが――。
「私たちのことばかり心配している場合ではない。グラスも休んだ方が良いのではないのか」
ラクエルさんは俺の傍らに立つと、ちら、とこちらを見やる。俺は苦笑いして答えた。
「研修医をしていたときは、王都の中でも大変な病院に配属されまして……深夜に容態が急変する患者さんが出たときにも、一人で対応しなきゃいけないことが多かったんです。それで、どれだけ深く眠っていても、瞬時に起きる裏技というのを身につけまして」
「い、いや……疲れて、グラスが大事な時に眠ってしまいそうだと言っているのではない。ただ、私がここにいるので、さっきの部屋で休ませてもらってはどうかと……」
「大丈夫です、椅子で寝るのにもちゃんと理由がありますから。椅子はだいたい木でできているので、『非常時に起こしてくれ』と頼んでおくと、ちゃんと起こしてくれるんですよ」
「……グラスは勤勉なのか、変わっているのか。そのどちらもという気がしてきたな。この年頃の男の考えることは、よく分からぬ」
ラクエルさんは腕を組んで目を閉じる。その横顔を見ていて、俺はずっと気になっていたことを尋ねてみたいという気になった。
「ラクエルさん、その、俺とそこまで離れてないとは思うんですが。プレシャさんは年下でしたが、ラクエルさんは……」
「私はディーテの一つ上で、今年で二十になる。十二で騎士見習いとなり、十五で攻撃隊長となった。アイルローズ要塞に移る前に、騎士長の位を与えられたのだが……まだ、その位に見合う働きは……」
「い、いや……それは謙遜のしすぎですよ。二十歳……そうすると俺の義姉さんより、一つ下ですね」
「そうか……私と近い歳なのだな。殿下と旧知の関係とうかがってはいたが、そこまで詳しいことは聞いていなかった」
ラクエルさんはふっと笑う。何か、姉がいると言うと俺を見る目が優しくなったように感じてしまう――我ながら、女性に免疫がなさすぎる。
「グラスを軍医として送り出すことに、多少なりと葛藤はあったのではないか。初めに見た時は、学生が戦場に来ていいものかと思ったものだが……グラスの姉君も、さぞ心配されたことだろう」
「それでも、俺は宮廷魔法士になることが夢でしたから。軍医の厳しさを想像しているつもりで、それ以上に過酷だとは分かりました。それでも俺は、ここに来られて良かったと思ってます」
「……この状況でも、良かったと。そう思うのだな。顔を合わせた者が、明日には命を落としているかもしれぬ。そんな最前線で、心を病む者は少なくないというのに」
今日も沢山の兵が死んだ。敵に与えた被害の方が何倍も大きいといっても、人の死に対して感覚が麻痺することがあってはならないと思う。
「顔を合わせた人でも、そうでなくても。一人でも多く助けたい。戦場で魔法を使うことも同じです……軍医の仕事の範囲内です。負傷者を出さないことも、俺にとっては医療の一環ですから」
ラクエルさんは目を閉じ、何かを考えているようだった。
――今彼女は、今日命を落としていった部下たちのことを想っているのだろう。薄く開いた瞳は、ここではなく、決して届かないところを映しているようだった。
「リタは活発な娘だった。負けん気が強く、いつも一番槍を親友のサラと競っていた。アンナは西方領の生まれで、自分の手で故郷を守りたいといつも言って……気丈な娘だった。レベッカは優れた剣の使い手だった。アスティナ殿下に腕を見込まれて……これから、我が騎士団の中で、大きな存在に……」
六十二名の戦死者。その一人一人に叶えたい夢があり、それを志半ばで絶たれた。
ジルコニア側も多くの人が死んだ。この要塞を前に、どれだけの人が、戦争という波に飲まれて死んでいったのだろう。
それを悲しいと思うよりも、今は強い衝動を覚える。戦争は何があっても終わらせなくてはならない――一刻も早く。
俺はラクエルさんの方を見なかった。彼女が泣いているとしても、その顔を見られたくはないだろうと思った。
ただ、右の拳を強く握りしめる。この遣る瀬ない思いを、死んでいった人に何もしてやれなかった無念を、少しでも繰り返さずに済むように、何ができるか。
(……ジルコニアを、止める。停戦に持ち込む……そのためにどうすればいいのか、考えろ。俺の立場で、俺の持っているもので、一体何ができる)
「お医者さま……っ、殿下の意識が戻られました……!」
「っ……分かりました、すぐに行きます」
ソアラに呼ばれ、再び殿下の寝室に入る。先ほどまで眠っていた殿下が、ベッドの上で上半身を起こし、こちらを見ていた。
「……グラス・ウィード。そして、ラクエル……こちらに来てください」
殿下の言葉に従い、俺とラクエルさんは並んでベッドの傍に立った。ラクエルさんは騎士長として表情を引き締めている――殿下の前で脆いところは見せない、その強い決意が感じられた。
「私は……また、意識を失ったのですね。入浴の時間に……」
「は、はい……私どもが、このお部屋に運び込ませていただきました」
ソアラとカリンは俺たちの後ろに控え、話を聞いている。二人が殿下を寝室に連れてきて、最初の介抱をしたということだ。
「……身体から力が失われていることは、分かっていました。戦いと、敵の『流れ』を読むこと……このどちらもが、私の身体に負担をかけているのでしょう」
「はい……殿下のおっしゃる通りです。殿下はとても強い魔力を持っていらっしゃいますが、ある理由で、それを制御できていません」
殿下は自らの腹部のあたりに手を置く。丹田――霊導印の一部、半分に欠けた月が描かれているあたりだ。
「……私の身体の中に流れている力が、どこかで滞っていること……不自然な流れになっていることは、自分でも感じていました。その原因を特定するには、私の幼少の頃にさかのぼらなければいけません。しかし、私の記憶の一部は欠落しています。その欠落した記憶の中に、魔力を制御できない理由がある……そういうことなのですね」
「はい、おそらくは……その、先ほど、俺は殿下の……」
「……私のことを診察してくれたのですね。そのことは、目が覚めてから何となく感じました。私を目覚めさせてくれたのは、グラス・ウィード……あなただということを」
俺は殿下の身体に薬を塗り、魔法で魔力の回復を促した。そのとき俺の魔力が殿下の身体に入ったことが分かっているとしたら――どのように治療されたかも、分かってしまっているはずだ。
「遠慮することはありません。あなたが行ったのは、あくまで治療なのですから……送り込まれた力の温かさからも、あなたの誠実さは伝わりました。私の直属としてここにやってきたのに、私の狭量ゆえ、すぐに受け入れられなかったこと……申し訳ありませんでした」
殿下が俺に頭を下げる。さらりと光を糸にしたような長い金髪が流れる――一瞬何が起きたのか分からず、俺はすぐに反応できなかった。
俺が治療にあたったことに、殿下が感謝を示してくださっている。それは俺が、宮廷魔法士として、名実共に認めてもらえた瞬間でもあった。
「私に、伝えたいことがあるのですね。私からもお願いします……ジルコニアは、また間をおかずに攻めてきます。その時、少しでも兵たちが傷つかずに済むよう、私もできる限りのことをしておきたいのです」
――敗走したはずのジルコニアが、再び国境を超えて攻めてくる。
その悪夢のような現実を口にする殿下の瞳には、揺るぎない意志が宿っていた。この苦境を打破し、皆を守るという強い思いが。




