第三十八話 落陽
衛生棟の窓から差し込む光が夕焼けの色に変わるころになって、敵の撤退を知らせる角笛が鳴り響いた。
跳ね橋が降りて兵が要塞に戻り、負傷者が次々と衛生棟へと運び込まれてくる。
剣、槍、矢、槌――兵士たちは様々な武器で傷を負っており、軽傷で済んでいる人もいれば、中には歩けずに背負われて運び込まれた人もいる。
すでに診た十三名より遥かに多い負傷者――その治療に当たる中で、俺の前任者は心をすり減らしていったのだろう。
彼女がここに居てくれたら、と一瞬思う。手術ができる医師が二人になるだけで、負傷者が苦痛から解放されるまでの時間は、飛躍的に短くなる。
しかし泣き言は言っていられない。俺はケイティさん、そして衛生兵の中でも処置の腕がいい人を選んで、中程度の負傷者を担当するように頼む。
「レンドルさん、重傷者の治療が終わったら一度休んでくれ。俺たちが潰れたらどうにもならない」
レンドルさんはただ頷きを返す。彼も医術に精通しているというわけではないのに、よくやってくれている――俺が何も言わなくても、術後の処置ができるようになった。
衛生隊の皆も頑張っている。新入りの俺でも、関係なく現場の士気を上げる努力はするべきだろう。自分で言った通り、大切なのはどれほど過酷な現場でも折れないことだ。
何人目かの執刀に入り、二の腕に刺さった矢傷を治療する――どれだけ疲労しても、手元を狂わせてはならない。実技試験では指導を受けながら実際の手術をしたが、これほど多様な創傷を前にしても、学んだことは確実に生かされている。
苦痛に意識を朦朧とさせる患者さんを励まし、出血を迅速に止める。『失血をいかにして補うか』という研究は未だ途上で、他人の血液を輸血する方法が考えられているが、まだ実現はしていない。
全ての患者を生かすことができるのかは分からない。もう、手遅れで運ばれてくる兵がいるかもしれない――それすらも、俺は恐れない。
恐れて手を止めたら、命を落とす患者が増える。そう分かっていたからだ。
◆◇◆
ジルコニアの将軍アレハンドロは、二千五百人の部隊をほぼ二つに分けて、アイルローズ要塞を二方向から攻撃した。
敵の死傷者は、要塞西側で二百五十余名。味方側は、三十七名が命を落とした。
攻城塔が倒れたとき、敵の士気は大きく落ちて、指揮系統が乱れた。そこを味方側の軍が上手く突いて、崩れた敵兵を叩くことでさらに勢いを削ぎ、後は守りに徹することでこちらの被害を最小限で留めることができた。
北東側の戦いでは――ラクエル騎士長、そして殿下とプレシャさんの奮戦があっても、二十五名の死者が出た。
敵軍の死者は、四百をゆうに超える。アスティナ殿下は自らも最前線で剣を振るい、従えていた近衛騎兵十六名を合わせた数と同じだけ、敵兵を斬ったという。
ラクエル騎士長、プレシャ攻撃隊長の戦果は、アスティナ殿下と並んでいる。ラクエル騎士長が単独で突撃を選択したのは、魔戦士の力が、事実として一騎で百人を斬るほどに卓越したものであるからだった。
兵のほとんどが軽傷を負い、重傷の兵は要塞内に運び込まれた者は一命を取り留めた。
しかし、要塞に戻ることができず、戦場で命を落とした者も多くいた。戦いが終わった時にはまだ生きていたと聞くと、ただ無念でならなかった。
それでも、ジルコニアを撃退したことで、兵たちの目には確かな生気があった。
疲労の余りに、机に突っ伏したままで眠っているケイティさんを、俺はソファに運んだ。レンドルさんも座ったままで眠っている――今は、声をかけないほうがいいだろう。
俺は衛生棟を出た。衛生棟だけでは重傷者を収容しきれず、他の宿舎にも衛生兵が分散し、容態の急変に対応することになっている。
ラクエルさんの部下から戦闘の結果を伝えられてから、俺の頭の中で、一つの考えが同じところを回り続けていた。
「……アレハンドロ将軍……そして、ジルコニア……」
敵の将軍の目的は何だったのか――あれだけの兵を動員して奇襲をかければ、アイルローズ要塞を落とせると考えたのか。
それとも、狙いは別にあるのか。敵軍の損害は大きく、指揮官である将軍の責も問われそうなものだが、もし将軍に他の狙いがあるのならば、一概に今回のことが敵にとって、敗北というだけでもない可能性はある。
一昨日まで学生だった俺が、軍事のことを考えるなどというのは詮無き話だ。だが、ただ軍医として働くだけでは、死者は出続け、兵を補充するために徴兵を行えば、付近の領民はアスティナ殿下に対する忠誠を薄れさせてしまう。
中央から経験豊かな兵が送られる可能性は、とても低いように思えた。『王室の人間がジルコニアと通じた』という一件があった今では、そんな楽天的なことを考えられない。
(……この状況では、殿下に神樹を訪問してもらうこともできない。昨夜の敵襲から一夜明けての、大規模な攻撃……こんなことをやられたら、殿下は一時もこの要塞から離れることができなくなる)
それどころか、神樹のことをこの状況で話すこと自体が、不興を買ってしまうかもしれない。
枯れた大地の侵蝕は、いずれまた始まる――そうなってからでは遅い。
「……グラス・ウィード」
俺は前方に立っている人物がいることに、名前を呼ばれるまで気が付かなかった。
そこに立っていたのは――ラクエル騎士長。
しかし、戦場では猛々しく、平時は沈着冷静で、常に武人としての気を放っている彼女が――まるで覇気を失い、青白い顔をして、唇を震わせている。
「ラクエル騎士長、一体何が……っ、危ないっ!」
彼女ともあろう人が、足をもつれさせて、前に倒れそうになる。その肩を支えて押しとどめると、その身体から震えが伝わってくる。
「大丈夫ですか……っ、しっかりしてください、ラクエル騎士長!」
ラクエルさんの肩を揺すると、その虚ろになっていた瞳に、辛うじて光が戻る。
そして彼女は、肺から引き絞るような、かすれた弱々しい声で言った。
「……アスティナ殿下が、倒れられた」




