第三十三話 祈り
「――先生、先生っ!」
「しっかりしてくださいませ、グラス先生!」
「っ……」
我に返ると、俺の右手は、目の前にある大樹の幹に触れていた。
辺り一帯に満ちていた瘴気は限りなく薄くなっている。それで、プレシャさんとディーテさんの二人も、俺のところまで来られたのだろう。
「良かった……この木に触ったまま、ずっと動かないんだもん」
「……グラス先生が、この瘴気を止めたんですの?」
「いや……この神樹が、止めてくれたんです。土地の侵蝕も、少しの間ですが止まるでしょう。魔物化した植物が人を襲うこともなくなります」
「本当に……? 良かった……でも、少しの間っていうことは、根本的な解決にはならないってことだよね……」
「それなんですが……要塞に戻って、ラクエル騎士長にお願いしないといけないことがあります。この神樹に力が戻れば、枯れた土地は活力を取り戻せる……そのためには、アスティナ殿下の協力が必要になります」
殿下の名前を出すと、隊長二人は緊張した面持ちに変わる。それだけで、アスティナ殿下に対する敬意の深さがうかがえた。
「ここが、王家の管理していた庭園であることと、何か関係があるんですの?」
「えっ……ディーテさん、どうしてわかるの?」
「今までの情報からの類推ですわ。この庭園の最奥にそびえている、この巨木……これは、この庭園を象徴する存在だったと考えられます。グラス先生は、この巨木に触れて……おそらく、対話をしていた」
「おっしゃる通りです。この神樹ユーセリシスは、かつて神として崇拝されていました。ですが事情あって、庭園ごと放棄され……神としての力をほとんど失ってしまった」
俺たちは頭上を見上げる――かつては見事な枝ぶりだっただろうに、樹皮にひびが入り、幹を蝕むように黒い苔が生えてしまっている。
「グラス様、ご覧ください、葉が……っ」
「っ……これは……」
レンドルさんに言われて咄嗟に反応し、落ちてきた葉を手に取る。
――神樹は枯れ、他に葉は一枚もないというのに。俺の手にある葉は小さいが、瑞々しい緑色をしていた。
幻の中だけではなく、現実にも、僅かながら力を取り戻すことができたのだ。俺はこの神樹が蘇ると、さらに強く信じなくてはならない。その思いが、この神樹を少しでも癒すと信じて。
「……この樹は、生きている。いえ……グラス様の思いに応えてくれたのですね」
「いや、俺が信じるだけじゃ全然足りてない。一人でも多く信じて欲しい……この樹は絶対に蘇るんだって。俺はこの庭園を、昔の姿に戻すことができたらと思ってるんだ」
「じゃあ、あたしもお祈りしてみるよ。戦いの神様ばかりに祈ってきたから、やり方があってるのかわからないけど……」
「礼を尽くしたやり方よりも、ただ自分の心に嘘をつかないということが大事なのですわ。それが、信仰というものです」
ディーテさんは手を組み合わせて祈る。プレシャさんも、それに倣う――そして、俺たちも。
神樹は何も答えない。しかし、俺は今祈ったことを常に忘れなければ、それが神樹を支える力になると信じていた。
◆◇◆
灰色の土地の侵蝕は停止しただけでなく、ほんの少しではあるが『後退』していた。
家を捨てて別の土地に移ろうとしていた男性は、戻ってきた俺たちの姿を見るなり、駆け寄ってきて頭を下げた。
「皆さんに、なんとお礼を言っていいか……広がる一方だった灰色の土が、元に戻ろうとしています。まだ無事だった作物も、急に生き生きとして……」
森から流れ出していた瘴気が止まったことで、ただちに作物に良い影響が出ていた。俺は馬車を降りたところで手を取られ、何度も感謝を伝えられる。
「このまま灰色の土が止まっていてくれれば、収穫まで作物が無事に育ってくれます。そうすれば、私たちはこの家を離れずに済みます」
「収穫できたら、少しでもいいので、俺たちの要塞にも売ってもらえませんか。食糧が、とにかく不足していて……」
「売るなんてとんでもない、収穫したものをお届けする際には代金はいただきません。騎士団の方々がいてくれるおかげで、ジルコニアを恐れずに暮らしていられるんです。私たち農家を取りまとめている方も、それは常に言われていますよ」
その農家を取りまとめている人というのは、この辺り一帯をかつて自治していて、今は王国の庇護下に入った豪族のことだろう。一度接触できれば、この辺りの農地で何を作っているかを聞いて、新たに薬草を作れそうかも相談できるかもしれない。
何よりも、まずは神樹を復活させることだ。一人でも、二人でも、信じてくれる人を増やしていかなければ。
「この灰色の土を、元の土に戻すために、一つお願いしたいことがあるんです」
「はい、私にできることならぜひ……家族、いえ、親族一同、どんなことでも協力させてください」
「ありがとうございます。それほど負担のかかることではなくて、あの森に向けて祈ってほしいんです。あの場所にいる神様が力を取り戻せたら、この辺りはもっと栄えることになる……だから、俺たちと一緒に祈っていただけませんか」
「あの場所に、神様が……ああ、私たちは、あの場所に近づいてはならないなんて思っていましたが。それは、神様の怒りに触れたからだったんですね……この土地に長く暮らしているのに、何も知らなかった。本当にお恥ずかしい……」
「今からでも、遅くはありません。全てが元に戻ります……いや、元よりももっと、この辺りの土地は元気になるはずです」
プレシャさんとディーテさんは、すでに森に向かって祈っている。男性は総勢十人にもなる家族を連れてきて、全員で俺たちと一緒に祈ってくれた。
豊穣の祭りをただちに行うというわけにはいかない。しかし、アスティナ殿下なら、西方領の領民全てに知らせることができる――実りをもたらす神に、祈りを捧げてほしいと。
そうすればきっと、神樹ユーセリシスは元の姿を取り戻す。かつて王国を勝利に導いた神が居てくれれば、ジルコニアからいつ攻撃されるか分からないという今の状況も、変えられるかもしれない。
――いや、変えなくてはならない。戦で心をすり減らせていくよりも、領民のために力を使えば、プレシャさんも、ディーテさんも、人を殺すことの憂いを重ねずに済む。
「……これからは朝、晩と忘れないように祈るようにしましょうか。グラス先生、私とプレシャの部隊なら、可能な限りご指示に従いますわよ」
「うん、あたしも。ラクエル姉を説得できたら一番いいんだけどね……魔法嫌い、なんとかならないかな……あ。魔法といえば、レンドルさん、先生に後ろから追いついたとき、いったい何をしたの?」
「グラス様に、魔力を供与させていただきました。私も魔法のたしなみがありますので」
レンドルさんが魔力を分けてくれたから、俺は大樹までの最後の一歩を踏み出すことができた。
――本当に、そうなのだろうか。魔法士同士での魔力の共有はできても、とても効率が悪いとされている。魔法士一人ひとり、魔力の性質は同じではなく、血族でもなければ他人の魔力はほとんど利用できない。
(レンドルさんは、俺と魔力の性質が近い……いや。彼が魔法を使って、瘴気を防いでくれたんじゃないのか……?)
「ふーん、やっぱりそうなんだ。ねえ、その魔力結晶っていうの、今度はあたしが持っててもいい?」
「そんなことをしてグラス先生の点数を稼ごうなんて、意外に健気ですわね」
「そ、そういうわけじゃ……あたしはグラス先生に感謝してるから、それくらい……ちょ、ちょっと! 全然信じてないでしょ、その顔!」
「ふふっ……グラス先生が来てから、思いがけず張り合いが出てきましたわね。私もあなたも」
プレシャさんの魔力も、魔力結晶に蓄積すれば確かに利用できる。しかし異性の魔力を利用しすぎると、大きな声では言えないような問題が起こる――というのは、俺が自己責任で対処すべきことなので、とりあえず言わずにおくことにした。




