第二十九話 廃棄庭園
森に近づくほど、流れてくる瘴気が濃くなる。魔物に変化した花が、まるで砂嵐のように花粉を放出している――しかし俺は、花粉がこちらに飛来しないように防護することができる。花粉もまた植物の放つもので、俺が干渉できる物質の一つだからだ。
しかし、この瘴気の中にいると魔力を常に消耗することになる。魔力を蓄積し、適宜放出することができる『魔力結晶』があれば、消耗を補えるのだが。
(結晶は物凄く高いからな……学生が買えるものじゃない。軍医の給料をかなり長いこと溜めないと買えないし、今は何とか乗り切るしか……)
「……グラス様、魔法を使っているのですか?」
「あ、ああ。この瘴気を防ぐには、俺の魔法が有効だから」
「この砂みたいなやつが、私たちを避けてくれてるのって、グラス先生の魔法……?」
「植物の精霊というお話でしたが……この砂も、植物の何かですの?」
アルラウネの花粉とはまた違い、今回の花粉は、ただ人間の免疫機構を攻撃するだけのものだ。まともに浴びたら涙が止まらなくなってしまうだろう。
普通、花粉が飛んでいても視認はできないのだが、この濃さだと目に見える。花粉に対して過敏な人なら、とても耐えられない状況だ。
「……では。学院長様からお預かりして参りましたが、ようやく使えるところまで、魔力が溜まりましたので。お渡しします」
「っ……レ、レンドルさん、それは……」
こんな時にあったら有り難いと思っていた魔力結晶を、レンドルさんが鞄から取り出して差し出してくれる。
結晶は魔力を蓄積できる量によって値段が大きく変化する。これは一般的な魔法士の、七日分の魔力を集められるものだ――色の具合でどれくらい集めてあるかわかるのだが、全体の七分の一くらいの色が黒から紫に変化しているので、約一日分より少し多いくらいと考えられる。
「これって……もしかして、昨夜のうちに貯めておいてくれたのか?」
「申し訳ありません、前々から準備できていれば、いっぱいに貯めておくこともできたのですが……」
「いや、これだけでも十分だ。本当に助かるよ」
「レンドルさんも先生の秘書だから、魔法の心得があるんだね」
「医療と魔法の両面において、補助できる人材が選ばれたということですわね」
魔力結晶を受け取った瞬間、魔法を維持することが苦ではなくなる。それどころか、回復する速度の方が早いほどだった。
結晶に溜まった魔力は『純魔力』と呼ばれる形に変換されるので、魔法士であれば誰でも利用することができ、場合によっては自分の魔力より効率よく使えることもある。俺は初めて使うので、これほど強力なものだとは思わなかった――元素精霊と契約している学生たちは、模擬戦の際に使わせてもらえるのだが。
「魔力については、私の余剰分は常に結晶に蓄積しておきますので、夜の間はお預けください」
「ああ、無理のない範囲でいいからな。魔力は誰にとっても大事なものだから」
「ねえ先生、あたしたちも魔力ってあるの?」
「あなたはラクエル隊長と『同じ』ですから、魔力持ちですわよ。私も普通の人よりは多いようですが、魔法士のグラス先生とは比較になりませんわ」
一般的に、人間の生命力と魔力は十対一の比率となっているが、魔法士や魔戦士の場合は、それが一対一になる。その差は訓練などで埋められるものではない。
「あたしも方法さえ知ってたら、先生に魔力を分けられるのに……」
「私たち騎士にも、果たすべき役割はありますわ。それを全うすれば、先生に同行した意味があるというものです」
「うん……そうだよね。ないものねだりするより、役目を果たさなきゃ」
二人の役目――それは、敵を倒すこと。その言葉に応じるかのように、前方に、避けては通れない関門が待ち構えていた。
森の番人のようにして咲いている、二つの巨大な花。極彩色の毒々しい色でなく、大きすぎさえしなければ、元は美しい花なのだろう。
(……いや、待て……この花は……今まで、見たことがない花だ)
学院で手に入る植物は、とうの昔に調べ尽くした。図鑑の分布図を調べ、首都の近くで足を伸ばせる範囲は、実地調査もある程度行った――それでも、三年間調査を続けて、やっと数種類の新種を発見できただけだった。
しかし、この目の前に広がる森は――先ほどのイラクサは俺の知っている植物だったが、それも独自の進化を遂げている。目の前の花たちは、その形自体見たことがない。
ここに来て確信する。この森は、俺が知らない植物の園――秘境なのだと。
魔物化した植物を元に戻せば、この森は必ずかつての姿に戻る。そのためには、あのイラクサが『神』と呼んだ存在に会わなくてはならない。
「来るよ……っ、先生、弱点を教えてっ! あたしたちはそこだけを狙うから!」
「綺麗な花に棘があると言いますが……牙はありえませんわっ……!」
食虫植物でも、これほど『捕食』に特化した進化を遂げた者はいない――花が口を開けるかのように二つに裂け、びっしりと並んだ牙が見える。
ディーテさんはそのえげつないとしか言いようのない姿に面食らっていたが、プレシャさんは全く怯えることなく槍を構える。
「プレシャさん、茎を突いてください! この種類の植物に、特に弱点はありません!」
「そうだよね……そんなに都合いいこと、何度もあるわけないよね。いいよ、あたしに任せといて」
「……プレシャ、任せていいんですのね?」
プレシャさんは振り向かずに頷く。そして彼女に向かって、二つの花が同時に食らいつこうとする――しかし。
驚異的な体術で、プレシャさんは空中に飛んでいた。そして落下しながら、一方の花に目掛けて槍を突き立てる――三叉の矛の先端に取り付けられた刃で引き裂くようにして、花を両断する。
「――せやぁっ!」
振り向きざまに繰り出した槍で、もう一方の花の茎を両断する――その槍が淡い光に覆われている。小柄な身体からは想像もできない威力は、彼女の魔力によって生み出されているのだ。
「ふぅ……あ、ご、ごめん。あたし、戦いの時はみんなに怖いって言われるから……」
「誰も怖いなんて思っていませんわ。あなたの実力に感嘆していただけですわよ」
「で、でも……元は、普通の花なんだよね。切っちゃったりすると、ますますあたしたちのことを敵視してくるんじゃ……」
「それでも、奥まで進まないと何も分かりません。俺も説得は試みますが、植物たちも一枚岩というわけには行かないみたいです」
「そういうことなんだ……じゃあ、襲ってくる場合だけは倒させてもらうしかないね。あたしでやっつけられる魔物ばかりならいいけど」
最初の魔物は相性が悪かったが、相手次第ではプレシャさんの力は天下無双と言っていいと思う。若くして攻撃隊長となった実力は、これ以上なく理解できた。
「……先生、見てくださいませ。あそこに、石柱のようなものが立っていますわ」
「石柱? なんで、こんなところに……」
ディーテさんの指差した先に、二本の朽ちた石の柱が立っている。元の形状を推測すると、上の部分が崩れているがアーチ型の門だったようだ。
「こっちの足元には、タイルみたいな石が埋まってるよ。奥の方に続いてるみたい」
寂れてしまって原型を留めていないが、この場所が元は何であったのかは想像がついた。
ここは、庭園だ。かつて人の手で管理されていた庭園が放棄され、変わり果てた姿になってしまったのだ。




