第二十三話 夜忘花
敵は城壁をぐるりと囲んでいる堀に辿り着くこともできず、河辺の草原で矢を受けて全滅していた。
長弓の威力を見たことはなかったが、金属製の矢は敵の鎧を貫通し、致命傷を与えていた。撃破した敵兵の数は、五十名余――ジルコニア軍が、それだけの人数で何をしようとしたかは、彼らが運ぼうとしていたものを見れば分かった。
「大砲……これのせいで、前回は大きな被害が出ました。少人数で闇に乗じて運び、私たちに気づかれる前に城壁を破壊するつもりだったのでしょう」
伏兵を案じて、ディーテさんは部下に命じて慎重に辺りを偵察させる。安全が確認できると、俺は馬から降ろしてもらい、辺りに倒れている兵士を見て回った。
生存者は見つからない。死者を野ざらしにしては、敵だけでなく自軍の士気にも影響が出る――今までは、敵軍を撃退したあとどうしてきたのだろう。
そのとき、何気なく見た先にいる兵を見て、俺は違和感を覚える。
「……生きてる……ディーテさん、生存者がいました。矢を受けて動けなくなっただけのようです」
「では、その兵を要塞まで連れて帰ります。今回の目的について聞き出せるといいのですが」
ここで矢を抜くと、失血が大きすぎる。現状では血止めの薬を塗っておくだけにして、帰ってから手術をしなくてはいけない。
「……何をしているのです? 治療など、必要は……」
「このままでは連れて帰る前に生命の危険があります。捕虜にするなら、最低限の処置はしておかないと」
「そう……ですわね。先生の、言うとおりですわ。すみません、続けてください」
少し、ディーテさんの顔色が白く見える。
思えば、ここまで来るときもそうだった。俺はディーテさんの前に乗るように言われたのだが、手綱を握る彼女の手は、少し震えているようにも見えた。
「……こんなことを言うと、怒られるかもしれませんが。プレシャさんも、必要でないなら、敵兵を殺さずに済んだ方がいいと言っていました」
「……そんな気弱なことを、軍医さんの前で言ってしまうなんて。あの子も、やはりまだ若いということですわね」
「いえ、年を取ったら慣れるということでもないでしょう。そのほうが、よっぽど人間らしい」
「国を守るためならば、そのような感傷は捨てるべきなのですわ。そうでなければ、いつか自分が命を落とすことにつながります」
他ならぬディーテさんが、割り切れていない――だからこそ、彼女は先程から、自分に言い聞かせ続けているのだ。
敵軍が近づく前に射抜き、進行を阻むこと。こうして矢を浴び、全滅した敵部隊を確認すること――それで何も感じず、心を摩耗させないというのは無理なことだ。
一緒に馬に乗っているうちから、彼女の心が必要としているものが伝わってきた。それは、眠れない症状を緩和させる花――『夜忘花』だった。
その花を寝室に置くと、夜があったことすらも忘れるほど、深い眠りにつくと言われるもの。俺が自分で使うことはそうなかったが、義姉さんに勧めて喜ばれたことがあった。
戦場に身を置いた人は、不眠を患うことが多い。特に、この要塞のように夜間の敵襲を幾度も経験している場合は。
ディーテさんも馬を降りると、敵兵が装備していたものとおぼしき落ちている剣に近づき、拾い上げる。その柄につけられた刻印が、削られたあとが残っていた。
「やはり……我が国で作られた武器。敵軍に武器が流れているというのは、本当でしたのね……」
「ディーテさんは、アスティナ殿下からお聞きになりましたか。プレシャさんから報告されたことを」
「私たちの士気を奪わないよう、ご配慮いただいたのでしょうが。私たちも、それほど勘は鈍くありません。アスティナ殿下は、中央から……いえ。王家の一部勢力から疎んじられている。そうでなければ、東方戦線で勲功を上げたあの方が、危険な西に続けて送られるわけがない」
――元は東方で、アスティナ殿下が戦っていた。東方国境では数年前から戦局が安定し、一度は奪われた領地を取り返して、今は領土拡張の好機を得ているという。
王女が戦陣に立つ必要など、もう無くなったはずだ――しかし彼女はまた危険な戦場に送られ、その命令を受け入れている。
殿下を見て人間離れしていると感じたのは、彼女の精神性が、他の人と明らかに異なるからだった。
彼女の才覚は決して、戦いのためだけに与えられたものではない。その清らかさ、神々しさは、本来なら、民の信望を集め、安寧を与え、導くための天賦ではないか。
まだ会ったばかりで、そこまで崇拝の念を抱いている自分に驚く。しかしアスティナ殿下は、それほどに敬われるべき存在だと俺は思う――ラクエル隊長を始めとして、この要塞の誰もがそうしているように。
「アスティナ様を『聖女』と呼ぶ者がいます。それは自分の境遇に何一つ恨み言を言わず、謀略の主に剣を向けることをしない彼女を、それ以外の言葉で表現できないからです。同時に『剣姫将軍』である彼女は、自分が剣を振るって敵を殺めることを厭わない。だからこそ私たちは、彼女の代わりに敵を討つ武器となりたい。そう、皆で誓ったのです」
アスティナ殿下の命を受けて駆けるラクエルさんの姿を思い出す。彼女があれほど猛々しかったのは、その誓いから来るものなのだろう。
「……不思議ですわね。先生のこと、まだ学生さん気分の抜けない坊やだと思っていましたのに。そんなに落ち着いているから、余計なことを話してしまいましたわ」
「……俺も、怖いですよ。だから、俺にできることをします。少し、向こうで待っていてもらえますか」
「何をするつもりですの?」
「敵兵をそのままにしておくと、伝染病の原因になります。俺には、それを防ぐことができる。回収すべきものがあったら、今のうちに取っておいてください」
「……証拠となる武器などは、一つずつで構いません。死んだ兵の墓標として、それ以外は残しておきます」
ディーテさんの部下が、破損していない武具を幾つか回収する。捕虜となった兵士は馬に乗せられ、運ばれていった。大砲については運ぶのに時間がかかるが、何とか要塞内まで輸送する。
ディーテさんが少し遠くから見守る中、俺は河原を埋め尽くした草々の精霊に働きかける。
本来なら、地の精霊使いの方が得意とすることだろう――命を落とした者たちを大地に還すことは。
しかし植物もまた、戦いの痕跡を見えなくすることには寄与する。
「大地を覆う緑草よ。我が呼び声に応え、荒れ果てた地を覆え……『緑化促進』」
広域に渡って、草の成長を促進させる。これで覆い隠すというのは一時しのぎに見えるかもしれないが、土中のリンや塩分を吸い上げる植物を新たに繁茂させることで、この土地に及ぼす影響を緩和させる。
後に見えているものは、敵の墓標となった武器。地面に突き立った剣と槍だけは、今はまだそのままにしておく。
「……グラス先生、魔法学院から来られたと言いましたが、こんな魔法は聞いたことが……あっ……!」
「っ……す、すみません。これくらいなら、大丈夫だと思ったんですが」
今日一日で、何度も魔法を使っている。最後にこんな大仕事をすれば、こうなる可能性があると分かっていたが――俺も、もう少し自分の力を弁えて動かないといけない。
倒れかけた拍子に、ディーテさんに受け止められる。なんとか意識を保ち、自分の足で立って、彼女から離れた。
「……あなたの方が無理をしているではないですか。私たちのことを心配している場合ではありませんわ」
「本当に、情けない限りで……すみません、ご迷惑をかけて」
謝ると、ディーテさんは俺を窘めるような顔をしていたが――その瞳が、困ったように細められた。
「迷惑どころか……こちらこそ、お礼を言うところですわ。今から水葬なんてしていたら、きっと今夜も不眠に……あっ……」
「やっぱり、眠れないんですね。俺が、いい薬を知ってます……俺も時々眠れない時に使うことがあるので、効き目は保証済みです」
「……こほん。女性が口を滑らせても、男性は黙って見逃すべきですわ……と言いたいところですけれど。目のくまを隠すのも大変ですから、頼らせてもらいますわね」
ディーテさんはそう言ってはにかむ。その笑顔は、それこそ『夜忘花』のつける小さな花のように可憐なものだった――そんなことを真顔で言ったら、きっとさらに笑われてしまうだろうが。




