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第二十話 決意

 騎士団員の診察記録に目を通し始めたグラス兄は、学院で勉強していた頃と同じように、周囲の音が聞こえなくなるくらいに集中していた。


 何をしているかというと、ひとりひとりの負傷者について、治療の改善点を洗い出しているのだ。直接見ていない患者でも、グラス兄はもっと良い薬があるとか、これが使えれば回復が早められるとか、そういうことが分かってしまうらしい。


 私が風邪を引いたときも、私より先に気がついて薬をくれた。それを早めに飲んでおいたら、少し喉が痛いなと思ったところで治り始めて、学院を休まずに済んだ。


 『空気』の精霊と契約した私を、担任の先生は他の人と同じように指導してくれることはなかったし、出られない授業が多くなったから、本当は学院に毎日行く必要もなかったし、実家からは戻ってくるようにとしつこく言われた。


 でも、戻るわけにはいかなかった。魔法士として何かの職につくこと、役割を得ることができなかったら――私があの家でどう扱われるかは決まっていた。


「レンドルさんも、いつでも休んでいいからな」

「はい。ご心配、いたみいります」


 こんなふうに丁寧な言葉を使って話すことに、もう慣れてしまっている。いつもは、自分でもいけないと思うけど、年上のグラス兄に遠慮のない言葉を使ってしまっていた。


 学院に入ったばかりのとき、上級生と班を組んで参加する林間学校という行事があって、私はそこでグラス兄と知り合った。


 子供の頃から、私は周囲から気にとめられない子供だった。家族で外出するときも一人だけ置いていかれてしまったり、クラスの班作りで私一人だけが入れなくて、先生もそれに気が付かないなんて、冗談のようなこともあった。


 林間学校のときも、私は森の中で同じ班の子たちに置いて行かれて、迷ってしまった。だんだん暗くなる森の中で、私は意地を張って、自分ひとりでも森を出てみせるんだと、自分がどこに向かっているかも分からず歩き続けた。


 そのとき助けてくれたのが、グラス兄だった。他の班だったのに、私が森の中で迷ったと聞いて、一人で探しに来てくれたのだ――そのあとグラス兄は凄く怒られてしまって、私は自分のせいだと言えずに見ていることしかできなかった。


 恩返しがしたかった。どうして私を助けに来てくれたのか、ずっと聞きたかった。


「ふぁぁ……さすがにちょっと目が疲れたな。医者ってのはどうしてこう、自分だけに分かる文字で書きたがるんだろう」

「グラス様は、すらすらと読まれているようにお見受けしますが」

「俺が教わった講師の人も、結構クセのある字を書いてたからな。まあ、場合によっては診断に数分しか使えないなんてこともあるから、速く書けるように文字が簡略化されていくんだろうな」


 医師の少ないこの国では、首都の病院はいつも混雑している。グラス兄も、これからすごく忙しくなってしまうだろう。


 グラス兄が無理をしすぎることを心配したのか、学院長は私に「弟の目付け役を頼みたい」と頼んでくれた。それは、私がグラス兄と友人であることを知っていたから。


 でも、私が私――レスリー・リー・レンクルスのままで西方に行ったら、家に把握されてしまう。そうならないために学院長が提案したのは、身分を偽るということだった。


 私には、グラス兄が私の正体に気づきそうになっても、強制的に別人だと認識させることができる――精霊の力で『空気』に干渉することで。


 グラス兄は、『空気』なら『風』の精霊と似たようなこともできそうだと言ったけど、それができるならはずれとは言われない。


 空気とは、目に見えなくても、存在を認識されなくても、常にそこにあるもの。とても曖昧だけど、私はそういったものに宿る精霊と契約している。


 自分のまとう『空気』を変えれば、他人の抱く印象は変わる。でも、それを常にし続けると魔力がもたないから、変装だけでもグラス兄に、『レスリー』と『レンドル』は別人だと思ってもらう必要があった。


 彼が気づきかけるたびに『空気』に干渉して、認識を変えた。けれど顔を見せなければならないとなると、干渉の程度も大きくしないといけない。


 上手くいくと信じていたけど、初めは緊張で声が上ずりそうになった。そんな私の心情すらも、『空気』の精霊が包み隠してくれた。


「医薬品の在庫が、かなり乏しいな。近くの町で手に入らないなら、中央に要請するか……それとも、近場で自給自足を考えるか」

「ご自分で、お薬を作られるのですか? それでは、グラス様のご負担が大きすぎるのでは……」

「製法自体は材料があれば難しくはないんだ。薬は特産品にもなるし、薬草の産地さえ確保できれば、町の人を雇ってお願いすることもできると思う」

「なるほど……あの牧場の方に口利きをお願いすれば、話は円滑に進みそうですね」


 学院の中では窮屈そうにしていたグラス兄が、今はすごく生き生きとしている。


 戦場の悲惨さを見ても心が沈んだりせずに、自分にできることをしようと一生懸命になっているグラス兄は、やっぱりすごいと思う。


 私はグラス兄と西方に行けることになって、初めは足元がふわふわしていた。でも、そんなことではここにいる資格がなくなってしまう。


 魔力の消耗があっても、これからはずっと魔法で『空気』を変え続ける。とっさに名乗った、曽祖父の名前――『レンドル』という人物そのものになる。


 でも、本当は『レスリー』として、グラス兄から預かった手紙を見てみたい。そんなことは、決してしてはいけないと分かっているのに。


「……ん? これは……」


 診察記録の中に、表紙の色が違うものがあって、小さな紙が貼り付けてある。そこには、こんなことが書かれていた。


『ラクエル隊長は、長く前任の医師に相談をしていました。彼女が自分から、後任のグラス先生に診察を申し込むことは難しいと思います。ですが診察記録だけでも、お目通しいただければ幸いです ケイティ』


 ケイティさんが、ラクエルさんのことを気遣って、診察記録をグラス兄に見てもらうように頼んだ――幹部の診察記録は、本人の同意が無いと見られないと言っていたのに。


 それだけ、ラクエルさんの身体の調子が良くないのかもしれない。グラス兄はどうするのかと思って見ていると、迷っているようだけど、記録を開くことはなかった。


「ケイティさんの気持ちも分かるが、これを見たら信頼関係を築くのは難しくなる。だから、今は見られない。まずは、正面から聞く機会を得ないとな」

「明日の朝からラクエル隊長とは顔を合わせますので、お話をする機会はあるでしょう」

「そうだな。さて……残りは夜に回して、一休みするか。レンドルさんも休んでくれ」

「私は夕食の時間までは起きています。少し、書き物もありますので」

「そうか、分かった」


 グラス兄が自分の寝室に入っていく。その扉が閉まったところを見てから、私は居間の壁に掛けられている、小さな鏡に近づいた。


 グラス兄には、私のことが男性に見えている――けれど、鏡を見れば、私の本来の姿が映っている。


 これからずっと、演じ続けなくてはいけない。彼が妹分のように見ているだけのレスリーとは全く別人の、『秘書のレンドル』を。


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