第十七話 衛生棟
要塞の五階は屋上となっており、そこにアスティナ殿下や近衛兵、そして幹部の宿舎がある。ラクエルさんも、そこで寝起きをしているらしい。
衛生兵の詰め所は別棟にあり、行くには一階まで降りなくてはならない。本棟から隔離された構造になっているのは、伝染病などが流行ってしまったとき、感染を抑止するための配慮だ。
現状では伝染病の発生もなく、要塞内部の衛生状態は、こまめに清掃されているようなので良いほうだ。しかし地下に水路が通っている関係で、一階ではカビが生えやすくなっているところがある――これも場合によっては病気の原因になるため、後で対策を考える必要がある。
俺の場合植物を材料とする食品に生えたカビは、有毒かそうでないかが判別できる。中には、医療に有用な成分を生成するものもあるのだが、カビから薬を作れると言っても誰も信じてはくれない。
医療の発展は、目に見えない微生物の力が鍵を握っている――そう思うのだが、論文を書いて出そうとしても、ヘンドリック教頭は受け取ってすらくれなかった。
俺に求められていたのは、息を殺して、優秀な生徒たちの邪魔をしないことだけ。精霊医として医療の発展に尽くすことなど、学院では無価値だった。
戦争で精霊魔法を行使し、力を発揮することが悪だとは思わない。だが、プレシャさんの話を聞いて思ったのは、味方が魔法を受けて死ぬのは受け入れがたいということだった。それは敵国も同じで、俺の考えはただのエゴにすぎない。
戦争を終わらせることができれば、魔法を戦争に使わずに済む――魔法学院で学んでいるときは、こんなことは考えもしなかった。
だがそのためには、負けではなく、勝って敵国を押さえつけなければならない。それがどれだけ難しいことか、俺はまだ実感として知るだけの材料を持たない。
「……到着して早々に、拷問に立ち会わせたことは、騎士長として詫びる。私も、捕虜から情報を確実に引き出す方法など持ち合わせていない。プレシャや尋問係の者たちには、非道を強いていると分かってはいるのだ」
別棟までたどり着き、ラクエルさんが扉を開ける前に言った。
アルラウネの件を話すべきか――魔法嫌いの彼女に聞かせていいものか迷う。しかし、伏せておいても説明が不自然になると考えて、腹を括って話すことにした。
「苦痛を与えて吐かせるということをしなくても、魔法を使って話させることはできます。さっき、プレシャさんが言おうとしたのはそのことです」
ラクエルさんがこちらを肩越しに省みる。俺は目を逸らさない――すると、彼女の方から視線を逃がした。
「……御前だと言って、プレシャを制した私を、嫌な女だと思っているか?」
「いえ、そうは思いません。まだ来たばかりの俺が言うのも何ですが、プレシャさんはラクエルさんを凄く尊敬しているんだと見ていて感じました。俺も助けてもらったときから、そう思ってます」
「……あんなふうに雄叫びを上げて突撃する女を、尊敬するのか? 物好きな男だな」
「雄叫びってことは……よく通る、凛とした声でしたよ」
「はい、とても勇気づけられる声でした。同時に、この国はラクエル様のような猛将に守られているのだと、心強く感じました」
レンドルさんも同調してくれる。ラクエルさんはしばらく何も言わなかったが、もう一度俺のほうを省みて言った。
「世辞などいらぬ、私は殿下の槍として、騎士たちを率いて民を守るのみ。その民には、お前たちも……いや。グラス殿と、レンドル殿も含まれている。ただそれだけのことだ」
「ありがとうございます、ラクエルさん」
改めて礼を言うと、ラクエルさんの瞳に宿る感情の色がかすかに変わった――無関係な他者を見る目では無くなった、というのか。
――そういえば、今回召喚したアルラウネは幼い少女の姿をしているわけだが、催眠が急に切れてしまわないよう、花粉を徐々に薄れさせるまで地下の牢番に預けてきた。俺が離れているうちに、精霊界に帰ってしまっただろうか。
考えているうちに、ラクエルさんが扉についている鈴を鳴らし、別棟の中に向かって呼びかけた。
「騎士長ラクエルだ。衛生隊長、中にいるか。軍医のグラス殿を案内したい」
「はーい、ちょっと待ってくださいな……本当にただのお水でいいの?」
「はい、お水大好きです♪ お水と光さえあれば生きていけます!」
(騎士団の中に子供が……って、あの声は……まさか……!)
内側から扉が開いて、衛生隊長らしき人物に出迎えられる。彼女は衛生面に配慮するためか、髪を纏めて帽子におさめており、衛生兵の制服に身を包んでいる――肩につけられた腕章が、隊長であることを示しているらしい。
「ラクエル騎士長、申し訳ありません、一階に誰かのお子さんが歩いていたので、こちらで保護していました。アルラウネちゃんと言うそうです」
「あ、召喚主さま! 私、ちゃんとお勤めを果たしました! 褒めてください!」
「あ、ああ……いや、褒めるったって……待て、いきなり走るな!」
椅子に座って足をぶらぶらさせていたアルラウネは、ぴょんと飛び降りてこちらに走ってくる――しかし床として敷き詰められた丸石につまずいてしまった。そしてあろうことか、ラクエルさんに正面から受け止められる。
「ふぁっ! ……あ、ありがとうございまふ……」
「……な、何なのだ。召喚主とは、何のことだ? なぜ、この子は私に抱きついてくるのだ」
「あらあら、ラクエル隊長のことをお母さんと勘違いしたのかしら。私にだってそんなになついてくれてないのに……ずるいですよ?」
「なっ……わ、私がお母さんなどと、何の冗談だ。私は武に身を捧げた者、そのような相手などいるわけが……」
「召喚主さま~! 私、いい子にしてました! 褒めてください!」
ラクエルさんから離れると、アルラウネは今度は俺の方に駆け寄ってくる。しかしひょい、とレンドルさんに捕まえられ、抱っこされてしまった。
「はぅ~、捕まっちゃいました……」
「あまりおいたをしてはいけませんよ、アルラウネさん」
「はい、以後気をつけますです。おに……お兄さん?」
「そうです、お兄さんです。こう見えても力持ちですし」
「ふふっ、アルラウネちゃんは天真爛漫ですね……ラクエル様、いかがなさいましたか?」
アルラウネがすぐ離れてしまったからか、ラクエルさんは両手を手持ち無沙汰にしている。これはもしや――彼女は、子供好きだったりするのだろうか。
「……グラス殿。何か事情があるようだが、子供を連れてきたのなら事前にそう言ってもらわなければ」
「は、はい……連れてきたというか、俺もこうなるとは想像がつかなかったというか……」
「言い訳はいらぬ。ケイティ、衛生兵の区画で空き部屋があれば、グラス殿を案内してやってほしい。その前に、この少女について説明してもらおう」
前はこれほど活発に活動できるほど、はっきり実体化できていなかったが――擬人化というか、人に近い形態になるとこんなにおてんばだとは思わなかった。
しかし魔法嫌いのラクエルさんに、アルラウネの正体を説明しても、そこまで拒絶されなかった。魔法は嫌いでも、子供の姿をしたアルラウネを嫌うことはできない――そう思ってくれたのなら、俺は今まで持っていたラクエルさんに対する厳格な印象を、少し変えなくてはならないと思った。