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第百二話 軍医の指針

 日照の長い季節ではあるが、もうすぐ夕食前で要塞の中が慌ただしくなるので、早めに衛生棟に向かう。


「ケイティ隊長、グラスです。ただいま戻りました」


 入り口のドアをノックして呼んでみるが、返事がない――そういえば今頃は、みんなが療養している患者の見回りをしている時間だ。


 誰も出ないときは入っていいと言われていたので、中に入ってみる。詰め所の中を覗くと――事務仕事の途中でケイティさんがちょうど伸びをしているところだった。


「んん~……肩が凝っちゃった。少し休憩……」

「お疲れ様です、ケイティさん」

「きゃっ……せ、先生、もうこちらにいらしてたんですか? 要塞に着いたばかりですし、少しご休憩されても良かったのに」

「いえ、お陰様であまり疲れは溜まっていません。馬に乗ることにも慣れてきましたし」

「凄いですね、先生は……私も乗馬の訓練をしましたが、半日でくたくたになってしまいますよ」

「俺は後ろに乗せてもらっているだけなので……みんなは病棟ですか?」


 ケイティさんは頷き、上階の方を見やってから苦笑する。


「部下たちも、患者さんたちも、先生が戻られたと知ったら大騒ぎですよ」

「ははは……すみません、お騒がせしてしまって」

「いえ、先生がそれだけ慕われているということですから。先生のご指導もありましたから、みんな士気が上がっていて、回復して任務に戻った方もいます。残りの傷病者はもう十名を切りました」

「それは良かった。あとで一人一人診させてください……それと、今回は幾つかご相談したいことがあるんです」

「はい、何なりとご用命ください」


 ケイティさんは敬礼をしてみせる――額の横に手を当てる仕草。最初に来たばかりの頃よりも表情が朗らかで、衛生隊の状況が改善していることが伝わってくる。


 今なら、色々と考えていたことを前に進めることができそうだ。


「現在の備蓄薬の量ですが、どれくらいになっていますか?」

「それが……医薬品を扱う商人が、中央から来ていないもので。領内で調達はしていますが、いずれの薬も不足気味になっています。消毒や痛み止めなど、重要なものもできるだけ節約している状況です」

「消毒には蒸留した酒類も使えますので、領内の酒蔵に交渉してみましょう」

「ウェンデルの町でお酒は手に入るのですが、消毒に使えるほどのものではないようです」


 ケイティさんが懸念を示すが、俺は彼女に微笑みかける。


「この辺りで作られているお酒の材料は、穀物ですか?」

「はい、芋や麦などが使われています」

「そういった材料のお酒であれば、俺に任せてもらえれば消毒に使える純度にできます。酒蔵に相談して、最初から純度の高い蒸留酒を作ってもらうこともお願いしますが、それが定着するまでは、こちらで消毒薬を確保します」

「まあ……先生、お酒についてもお詳しいんですね。でも、先生のご負担がますます増えてしまうのは心配です」

「消毒は医療のさまざまな局面で必須ですから。町の病院や診療所でも需要があれば、供給体制を作れればと思っています。その目的で穀物を使いすぎるわけにはいかないので、専用の作物の畑を増やしてもらえるよう交渉したいと思っています」

「分かりました、それについては要塞の事務官が行わせていただきます。グラス先生のご指示通りに交渉しますので、ご安心ください」


 ケイティさんはそう提案してくれるが、俺の指示で事務官に仕事をしてもらうというのは大丈夫だろうか――と考えていると。


「グラス先生は本来殿下の直属になられるはずでしたので、要塞における権限は私たち隊長格よりは上となります。ラクエル騎士長の直属ということでも、そのことに変わりはありません」

「あ、ありがとうございます。しかし……」


 殿下から正式な辞令があったわけではないので、俺の権限はあくまで一軍医の範囲を逸脱してはならない。そう思うのだが、ケイティさんは微笑むばかりだ。


「先生がお留守の間に、事務官の皆とも話す機会があったのですが。先生のご尽力で農地の問題が解決して、とても感謝しておりました。それまで領民から陳情が届いていても、解決できなかった問題でしたので……」

「プレシャさんとディーテさん、それにレンドルさんの力もあってのことです。最後に決め手になったのは、殿下自ら赴きになられたことでした」

「はい……それでも、みんな分かっています。グラス先生が赴任されて、この要塞を良い方向に導いてくれたことを」


 ケイティさんが俺の手を取る――握手ということではなくて、これは親愛の表現だろうか。


「……あっ……も、申し訳ありません。私ったら、つい嬉しくて……」

「い、いえ。俺もその、信頼してもらえて本当に良かったというか……最初はどうなることかと思っていましたから」

「あら、グラス先生は最初から落ち着いていらしたじゃないですか。私たちの方があたふたしてしまうばかりで、随分勇気づけられました」


 もはや何を言っても褒め言葉が返ってきてしまって、甘やかされている気分になる――と、そうこうしているうちに。


「……あら、あなたたち。戻ってきていたなら言ってくれたらいいのに」


 上階から降りてきた三人の衛生兵が、こちらを見ている。俺より少し年上なのでこう言うのもなんだが、まだ初々しいところのある人たちだ。


「お、お帰りなさい……じゃなくて、お帰りなさいませ、って言うんですか? こういうとき」

「それだとグラス先生の従者さんになったみたいな……」

「ライム、イリサ、先生が戻ってきたからって浮つかないの。すみません、この子たちが緊張してしまって……」

「ああっ、オデットだけしっかりしてる空気出そうとしてる。違うんですよ、本当はこの子が一番緊張してるんですから」


 かしましく話す三人を前にして、ケイティさんは苦笑している。あまり年齢は変わらないが、衛生隊長のケイティさんは皆のお姉さんのような存在なのだろうか。


「こほん……グラス先生が不在のうちのあなたたちの仕事ぶりについて、後で報告をすること。今は重要なお話をしているから、少し休憩室していてね」

「は、はいっ……先生、戦線に復帰したり、要塞内の任務に戻られた患者さんが、お礼をしたいと言っていました」

「ありがとうございます。楽しみにしていますね」

「っ……はい、皆さんとても喜ばれると思います……っ!」


 身体や心が傷つき、戦線を離れていた人がまた兵士として復帰する。それは本人の力によるもので、俺の役割は治癒過程の手助けだけだ。


 しかし「ただ仕事でやっている」というのは違う。感謝されることは嬉しく思うし、それが医者としてのやり甲斐でもある。

  

 三人の衛生兵が俺に会釈をして、休憩室に向かう。彼女たちを見送った後で、ケイティさんが俺を見て笑った。


「ありがとうございます、あの子たちや患者さんたちのことを尊重してくださって」

「本当は身に余ることだと思っています。ですが患者さんからの感謝は率直に受け取るものだと、師事していた医師から学びました」

「素敵なことだと思います。患者さんとの接し方は、お医者様ごとにそれぞれ違うとは思いますが。この要塞の皆は、グラス先生が優しい方だと分かっています。けれど、そのことに甘えているだけでもありません」


 ケイティさんは軍人としての顔に戻る――戦場の過酷さは、俺よりも彼女の方が何倍も味わってきている。


「グラス先生が打ち出される方針は、この要塞に良い影響をもたらすでしょう。ですから、遠慮せずに私たちを動かして欲しい……私はそう思っています」

「……では、農地への交渉について。消毒薬と、他の薬の原料となる薬草の栽培をお願いしたいと思っています。栽培方法、薬草の苗や種子についてはこちらで用意しますので」

「かしこまりました。お薬の調合などについても、専門の者を立てましょう。先ほどのライム、オデット、イリサの三人は、若いですが仕事熱心ですし、ある程度薬剤の知識も持っております」

「それは助かります。王都の病院では薬師(くすし)が調剤を担当するんですが、衛生隊にも調剤部門を作れると良いですね」

「調剤部門……要塞の中で薬の生産をできるようにするということですね。実現したら、中央からの補給を待つ必要はなくなります」


 中央からの物資輸送は滞っていたため、現時点でも中央依存からは脱却している。


 あとは、欠けている栄養を補うことができる食料の確保だ。穀物だけで得られる栄養には不足するものがあるので、それを補えるものを安定供給できると良い。ただ栄養が取れるというだけでなく、味もできるだけ良いものという条件付きだが。


 ユーセリシスは西方領に生育する全ての植物に通じているので、その中で安定生産できそうな作物を選び、農民に生産を依頼する。農民を束ねているラインフェルト家などの豪族を通じて頼んだ方が、話はスムーズに進むだろう。


 消毒用に使う蒸留酒の生産、薬草の生産と調剤部門の設立、そして食料生産――今から取り掛かって結果が出るまでには時間が少しかかるが、できるだけ早くに取り組んでおくに越したことはない。


 そして、もう一つ。この要塞が抱えている問題――軍医が俺しかいないこと。


 俺が砦を離れたとき、軍医が不在となる。衛生兵の皆にも医術の指導はしているが、難しい手術などには専門技術を持った医者が必要だ。


「ケイティさん、俺の前にいた軍医は、今は町で療養をしていると聞きましたが……」

「……前任の軍医、ニーナ・コルセアは、ウェンデルの町の診療所で療養しています。一ヶ月に一度衛生隊の者が面会していますが、西方領の出身ですので、このまま退役するという話も出てきています」

「……そうですか」


 ニーナ医師の残したカルテを見たが、初めのうちは落ち着いた筆致で書かれており、ある時期を境に決定的に乱れ始めていた。


 軍医の不足によって、彼女の双肩にかかる責任は重く、戦傷者から初めの死者を出してから、それほど長くは任務を続けられなかった。


 しかし、ニーナ医師の執刀記録と実際に手術を受けた患者を見る限りでは、同じ道具を使っての手術であれば俺よりも経験量が多く、技術も確かだと感じた。


「今のところ、アイルローズ要塞に当面の脅威はありません。もしニーナ先生に復帰してもらえれば……それは、やはり難しいでしょうか」


 ケイティさんは目を伏せる。退役する可能性があるということは、ニーナさんの状態は今も思わしくないということだ。


 やはり他の方法を考えた方がいいのかもしれないが、ラクエルさんたちがジルコニア東砦に駐留していて、アイルローズ要塞にも患者がいる。この状態ではどうしても、俺一人だけで十分軍医の役割を果たせているとは言えない。


「……いつかは、ニーナ先生……いえ、ニーナのもとに行かなくてはいけないと思っていました。ウェンデルの町ではなく、もっと前線から離れた場所で療養してもらいたいとも思っていました……でも、答えを先延ばしにしてしまっていました」

「ケイティさんは、ニーナさんとは……」

「同じ騎士団の仲間だけではなく、彼女を友人だと思っています……今でも」


 ケイティさんの瞳には涙が(にじ)んでいた。ずっと案じていて、それでも要塞からニーナさんを遠ざけずにいたのは、復帰してもらいたいという気持ちがあったからだろう。


「……俺も、この要塞に来る前に軍医をしていた彼女に会ってみたい。苦しい状況でも医者の務めを果たしてくれた彼女に、感謝を伝えたいんです」

「分かりました。明日、ウェンデルの町まで外出する許可を得ます。グラス先生は、殿下がもう一度ジルコニア側に渡るときには同行されるのですか?」

「はい、殿下のご指示があれば同行したいと思っています」

「では、殿下がいつ出立されるかもうかがって……いえ、グラス先生に直接通達があるでしょうか」

「後で招集があるとのことです。そのとき、ニーナ先生に面会する時間を設けられるように相談してみます」

「……よろしくお願いします。申し訳ありません、こんなにグラス先生に配慮していただいて」


 ケイティさんは胸に手を当てている。顔色もあまり良くない――それほどに、ニーナさんに会うことに対して緊張しているのだろう。


「ケイティ隊長、少しいいですか?」


 俺は席を立ち、座っているケイティさんに背中を向けてもらった。ここに入ってきたときから思っていたが、事務仕事などでかなり身体の血流が悪くなっているようだ。


「グラス先生、私でしたら大丈夫です、少し疲れていただけで、ニーナ先生に会うことについては……」

「いえ、少し上半身の筋肉にこわばりがあるので、血の巡りを良くしておきましょう」


 俺は筋肉の炎症を鎮める薬草を取り出し、魔法の詠唱を始める――言葉にしなくても、念じるだけでいい。


(緑なす草よ、その癒しの力を我に受け渡せ……『緑の癒やし(グリーン・ヒール)』……!)


 薬草の効能を魔力に変換して抽出し、それを患部に直接作用させる。しばらく手をかざしていると、ケイティさんの肩あたりの血の巡りが改善される。


「っ……凄い……肩がすうっと軽くなって……」

「それは良かった……ケイティさんも、可能な限りしっかり休憩を取ってください」

「……先生こそお疲れなのに、私の方から何もお返しすることができなくて」

「いえ、気にしないでください。俺にできることが何かあればと……」


 ――言いかけた途中で、ケイティさんは立ち上がると、俺の後ろに回る。そして俺の肩をほぐしてくれた。


「ケ、ケイティ隊長……」

「ふふっ……これくらいしかできないんですもの。グラス先生は、レンドルさんにしてもらっているかもしれませんけど」


 ケイティさんは楽しそうに微笑む。彼女なりに俺を気遣ってくれたようだが、こうして二人でいて触れられたりすると、多少なりと落ち着かない気分になってしまう。


「隊長、夕食の時間ですけど、どうされます?」


 休憩室から出てきたライムさんが声をかけてきて、ケイティさんはパッと俺から離れる――部下の人たちから誤解されないに越したことはないが、すごい反応の速さだ。


「あ……そ、そうね、どうしようかしら。グラス先生はどうされます?」

「俺はレンドルさんを呼んでから行きます。ケイティ隊長、相談の時間を取っていただきありがとうございました」

「いえ……こちらこそ、相談したいことが沢山ありましたから」


 衛生棟を出たところで、俺はケイティ隊長たちと別れて自室に向かった。その途中、宿舎からちょうど出てきたレスリーの姿を見つける。


「グラスに……グラス先生、殿下からお部屋まで来るようにと呼び出しがありました」

「ああ、ありがとう。レンドルさんはどうする?」

「私も一緒に行きます。先生のうかがうお話は、何でも聞いておきたいので」


 俺の前ではレスリーとしての振る舞いが前面に出るようになってきたが、可愛い妹分の言うことなので、同行してもらうことにする。


「……グラス先生、少し石鹸の匂いがします」

「えっ……い、いや、それは……」

「衛生棟でどなたかの治療をされたとか……? 帰って早々に引くて数多で何よりです」


 まさかケイティさんの治療をしたときに移り香があったのだろうか――直接触れていないのに、乙女の勘というものはなかなか侮れない。


※大変更新が遅くなり申し訳ありません、本日より更新を再開させていただきます!

 ブックマーク、評価、ご感想などありがとうございます、大変励みになっております。


※現在連載中のコミカライズ版「はぐれ精霊医の診察記録」がニコニコ漫画、

 BookWalker様で9月3日に更新されております!

 今回の内容はグラスの姉、ミレニアと秘書のクラリネの姿を描いた閑話となっております。

 ミレニアの素顔が見られますので、ぜひぜひチェックをいただけましたら幸いです!

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ちゃんと完結させてほしいなぁ、と思っています。 未完のまま、というのは気持ち悪くありませんか? 十話まで、未完を続けるんだって、思わないでください。 頑張って完結させてください。 よろしくお願いします…
[良い点] ワクワクどきどき [気になる点] これからどうなるのか楽しみですが 更新されてませんので気になります。 [一言] できれば更新お願いいたします。
[一言] やはり面白いです 是非とも、投稿再開してほしいです
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