第百一話 姉と妹
アイルローズ要塞に辿りつくまでの間に、殿下の率いる俺たちの一行は多くの領民から声援を送られた。
「ジルコニアから守ってくれてありがとう!」
「農地を生き返らせてくれた我らの女神、アスティナ様万歳!」
「ハルトナー様、ご恢復おめでとうございます!」
西方領においてラインフェルト家は周辺地域を治めているというだけでなく、領内の治安を維持してきた存在でもある。当主であるハルトナー氏の信望は篤く、その子であるスナイダーとクーフィカも領民によく慕われていた。
彼らがアスティナ殿下に帰順してくれたことで、西方領内の安定については盤石に近づいたと考えられる。
今日で移動は三日目になり、要塞近くのウェンデルの街に近いところに来ると、やはり人々が集まってきて声援を送ってくれた。殿下がジルコニア領に攻め込むと事前に伝えたこともあり、無事に帰ってきたことがそのまま勝利を意味すると受け取られていた。
「ラクエル姉にも早く見せてあげたいよ、この光景を。ラインフェルト家があたしたちを良く思ってない間は、あたしたちを嫌ってる人も多かったからね」
俺を馬に乗せてくれているプレシャさんが感慨深そうに言う。轡を並べて馬を歩かせているディーテさんは、頬に手を当てながら言った。
「ハルトナー殿があれほどグラス先生に心酔なさっているとは、少し驚きましたけれど……先生の魅力は、男性にも放っておけないんですのね」
「俺は治療をしただけですから、少し戸惑ってもいますが……意識が戻られて、これほどの覇気がある姿を見せられると、ラインフェルト家を民が慕っていた理由もよくわかります」
「……グラス兄、ディーテさんの冗談が通じてない」
「え……あ、ああ。ええと、俺は性別を問わず、患者さんに喜んでもらえるならそれが一番だと思っているよ」
女性だけの騎士団に赴任してきた軍医。それでも男性を診る機会はしばしばあるので、今後もそんな機会は何度も巡ってくるだろう。
「男性と女性だと身体の作りは大きく違うし、食事で必要な栄養の量なども異なっているから、いつでも適切に対応できるようにしておかないといけないな」
「……グラス先生はお医者様としての視線だから、全然女を意識してないとか……?」
「ふふっ……そんなことも無いと思うのですけれど。私やプレシャの騎士らしさが前面に出ていて、女らしさを感じないというのであれば、それは光栄なことかもしれませんわね」
「えー……ま、まあ、確かにそれは嬉しい……かな。ちょっと複雑だけど」
こういうとき、俺はどう受け応えるべきなのだろう――何も言っていないうちに、何か聖人のように扱われてしまっている気がする。
「……グラス兄は、探しても他にいないくらい真面目なだけです」
「ははは……そんなこともないと思うんだけど」
「いえ、レスリー殿がそう言うのであればその通りなのですわ。正体も明かしたことですし、どうです? 一度みんなでお茶会でも」
「あ、それいいかも。でもラクエル姉も揃ってからかな、ブリジットとクロエも。あ、ノインも参加したそうだよね」
俺がいないところでどんな話をされるのか――戦々恐々としていると。
『……グラス、あなたも民を守るために尽力し、大きく貢献してくれました。皆の顔をよく見ておいてください』
先行しているアスティナ殿下が、契約の結びつきを通して語りかけてくる。まるで耳元で囁かれているような聞こえ方で、思わず動揺してしまう。
『っ……は、はい、かしこまりました。歓談のようなことをしていて申し訳ありません』
『それ自体は構いませんし、むしろ喜ばしいことと思います』
『え……?』
殿下が笑った気配がする。前を行く殿下は後ろを省みるようにして、一瞬だけ視線が合った。
これまでも、穏やかな表情を見せられることはあった。しかし今見せる微笑みは、これまでで一番優しいものだった。
――ずっと戦い続けていた。母君や大切な人たちを守るために、殿下は剣を振るい、王位をめぐる謀略の中で強く在り続けた。
誰かが殿下のことを『我らの女神』だと言った。神々しいまでに超然としていて、けれど時折、一人の人間としての表情を垣間見せる。
何かを為したいと思って軍医になった。今はそこに、もう一つの理由が加わっている。
これからこの西方領において、殿下は実質的な統治者となる。中央の干渉を退けた今、新たな干渉があるとしても、殿下はそれに従わない。内乱を起こしたいわけではないのだから、どこかで中央との折衝を行う必要は出てくる――だが。
あの日円卓の間で、殿下は『皆とともに一つの国として歩んでいきたい』と言った。
西方領は、独立する。殿下がつくる国がどうなっていくのか、俺はそれを見たい。
自分から殿下に語りかけることは、おこがましいことだと分かっている――それでも。
『これから俺たちは、新しい一歩を踏み出すんですね』
改めて言わなくてもいいような、当たり前のこと。それが今は、どうしても伝えたいと思うような言葉だった。
殿下の返事はなかった。やがてアイルローズ要塞が近づき、ハルトナー氏の率いる騎馬の一団は、俺たちを送り届けて役目を終え、街道を外れて草原に入り、帰っていく。
要塞の跳ね橋が降り、門が開けられる。その橋を渡る前のことだった。
『ラクエル、プレシャ、ディーテ……グラスとレスリー、ノイン。そして皆もいてくれるので、何も恐れてはいません』
『……殿下』
それで、終わりではなかった。それだけでも心は震えていたのに――身に余るほど、喜びを感じたのに。
『私に迷いを捨てさせてくれたのは、貴方です。グラス先生』
あえて、殿下は「先生」と言った。
――いえ。僭越ながら、ぜひ俺からもお願いさせていただきます。殿下に、精霊魔法の心得の基礎をお教えさせてください。
――……はい。ですが、こちらからお願いしているのですよ。そんなにかしこまる必要はありません。グラスが先生なのですから。
殿下は忘れていなかった。俺はいつかそんな日も来るかもしれないと思っていたが、それが現実になると想像できてはいなかった。
「アスティナ殿下、プレシャ隊長、ディーテ隊長、ご帰還されました!」
「「「お帰りなさいませ!!!」」」
通常の軍がどうなのかを俺は知らないが、この騎士団だからこそ、殿下は部下たちから熱狂的な歓声を受けて出迎えられる。
ようやく一息つくことができる。だが、ジルコニアがどう出るかを考えれば、悠長にはしていられない。向こうがこちらを脅威に感じるとして、遮二無二攻めてくるようなことになる前に、停戦勧告を成功させなければならない。
「さて……あたしとディーテさんは留守の間の状況を聞いてくるね」
「また殿下が招集をおかけになると思いますから、先生も心構えはしておいてくださいませね。まだ日が高いですから、今日のうちにジルコニア東砦に移動する可能性もあります」
「分かりました。いつでも出られるように待機しています」
馬を厩舎係の兵たちに預けると、プレシャさんは手を振り、ディーテさんはウインクをしてから歩いていく。
「……しばらくは、私の事情を知っている方以外の前では『レンドル』として居続けた方が良いと思うのですが、どうでしょうか」
「レスリーが大丈夫なら、それが良さそうだな。みんな驚くだろうから」
「了解しました。では、荷物を置いたら衛生棟に……」
そう言いかけたところできゅるる、とレスリーのお腹が鳴る。
要塞の食事改善については、まず第一に解消しなくてはならない問題だ。戦況が変わったら解決しなくてはと殿下もおっしゃっていたし、時間があれば厨房係と話しておきたいのだが――。
「レスリー、食堂に行く前に、衛生棟に寄ってもいいかな。ケイティ隊長に相談したいことがあるから」
「……はい」
お腹が鳴ったことを恥じらっているのか、レスリーの声はとても小さかった――こんなときに俺も豪快にお腹を鳴らしてあげられたらいいのだが、なかなかそうもいかないものだ。
驚くべきは、俺たちと同じようにまだ昼食を摂っていないはずのプレシャさんとディーテさんが平気で動いていることだ。
「……プレシャさんもディーテさんも気さくだけど、やっぱり凄い。騎士の人たちは、全然鍛え方が違う」
「そうだな……まず俺も、馬に一人で乗れるようにしないとな。馬術を習うにも体力が必要だから、身体を鍛えないと……レスリー?」
レスリーが何か驚いたような顔をしている――口元を隠して眼鏡をかけているので表情が見えにくいのだが。
彼女は俺の後ろに視線を送っている。俺は何気なく振り返ろうとしたところで――懐かしい香気が揺れて、それで後ろにいた人が誰かに気がついた。
「っ……ね……学院長……っ」
「ふふっ……義姉さんと言いかけたのなら、そのまま呼べばいい。学院を離れている今、私は君の義姉という以外には、宮廷魔術士の肩書きしか持たないのだから」
ミレニア義姉さんは腕組みをしながら言うと、嬉しそうに微笑む。
その姿勢はいつの頃からか彼女の癖になっているのだが――理由は一つだ。胸が重たくて肩が凝るからということなのだが、それを俺に教えてくれたときの義姉さんは、明らかに悪戯っぽい顔をしていた。
「レスリーも元気そうで何よりだ。君をグラスの秘書として送り出すときは茨の道を行くものだと感心したが、想像以上によくやってくれている。姉として、改めて感謝する」
「……私こそ、許可をくださってありがとうございました。家にも、内緒にしていただいて……」
レスリーはレンクルス公爵の血を引いているため、本来は学院から容易には離れられない。それが可能になったのは、義姉さんの協力があってのことだ。
「グラスには、レスリーは内緒にしていたのだったな……しかし、現状の把握は必要だろう。レンクルス家はレスリーを後宮付き魔法士とするつもりでいる。現状で次期国王と目されている、第二王子の側仕えとするためだ」
第二王子――アスティナ殿下を敵視している第二王妃カサンドラの子。
カサンドラは宮廷魔法士ヨルグと繋がりを持ち、西方領をジルコニアに攻め落とさせようとしていた――アスティナ殿下や、アイルローズ要塞の皆がどうなろうと構わず、切り捨てようとした。
いかに実子への愛情が強くとも、王位継承を望んでいないアスティナ殿下を、そして国のために戦ってきたアイルローズ騎士団を陥れようとしたことは、正当化できる行為ではない。
レンクルス家はレスリーを、第二王子に仕えさせようとしている。彼女が『レンドル』として俺に同行してくれていなかったら、どうなっていたか――考えるだけで、胸が曇る思いだった。
「……私は、父上の言うことに従わないといけない。私を引き取って学院に入れてくれたから……でも、それだけは……」
「分かっている。レンクルス家については、私も容易に意見できる立場ではないが……レスリーが王都に残り、学院を卒業していたらどうなっていたか。それを想像すると忸怩たる思いだ」
貴族の子女は、自分で人生を決めることができない。生まれた家の身分が、終わりまでの道筋をつけてしまう――貴族はそれを誇りに思うものだと、母さんは言っていた。
母さんは子爵家の出身だった。その彼女でも、平民だった俺の父親と結婚するまでには周囲の強い反対があった。そんな父の再婚相手は伯爵家の血を引く女性だったわけだが、ともに伴侶を亡くしているということで、一度目の結婚よりも強い反発はなかったという。
義姉さんは伯爵家の血を引いているが、軍属の魔法士となり、宮廷魔法士としても高い階梯を得たことで、本家の干渉から距離を置くことができている。しかし魔法士になるまでは、彼女もまた『貴族の女性』として生きることを強いられていたと聞いた。
「……魔法は、私たちに自分の力で立つ場所を与えてくれるものだ。レスリーがグラスとともにこの要塞に来て、自ら望んでしていることと、家の命令に従うこと。私は前者のほうが、よほど人間らしいと思っている」
「学院長……」
「貴族と平民では背負う義務が違うというのは、否定はできない。しかしレンクルス家が次期王位継承者を今から想定し、結びつきを強めようとするのは、現当主の希望であり、民を向いているというならもっと先に目を向けなければならない部分がある。私はそう考えているし、レスリーのことについては必要があるまで匿わせてもらう。なに、私も気難しいことで知られているのでな、公爵家も容易に圧力をかけてはこない」
そう言って義姉さんは柔らかく微笑む。そして、レスリーに向けて腕を広げた。
「……っ」
ずっと思いつめていたのだろう、レスリーは義姉さんの腕の中に飛び込んでいく。義姉さんはそれを抱きとめ、背中を優しく撫でながら言った。
「私の義弟を支えてくれてありがとう。これからもグラスを頼む」
「……私です……私の方なんです。いつもグラス兄がいて、グラス兄がいるから、息をしていられるんです……っ」
「……そうか。それなら、レスリーは私と同じなのかもしれないな」
義姉さんが俺に目配せをする。彼女が何を考えているのかは想像できて、それを簡単に受け入れるわけにはいかないのに、今回だけは逃げられそうにない。
レスリーが離れると、義姉さんはレスリーの変装用眼鏡を外し、ハンカチで彼女の涙を拭く。泣いたことを恥じらうように頬を赤らめ、嬉しそうに微笑むレスリーは、いつもよりあどけなく見える――いや、いつも気を張って大人の中で責務を果たしているだけで、本来の彼女は俺にとって、いつまでも可愛い妹のような存在だ。
「私も、義弟の無事を確かめるまでは息をするのもやっとだった。グラス、そんな姉に対してかける言葉はないのか?」
「……もう数日前になりますが、再会したときに、その……」
「一度抱きしめたくらいで満ち足りるものではない。何日離れていたと思っている?」
義姉さんは高圧的なようで、それは演技だと分かっている。彼女はいつもいろいろな言い方をするけれど、俺を弟として大切にしてくれているのは確かで、それは姉弟になってからずっと変わっていない。
「……と、あまり甘やかしてもありがたみがなくなってしまうな。私はアスティナ殿下のもとに行き、要塞に滞在する間のことについて話してくる。レスリーはグラスと同室と聞いたが、部屋は一つ余っているのだろう?」
「っ……ね、義姉さんも同じ部屋というのは、その、僕が申し訳ないというか……」
「ふふっ……そこまで慌てるということは、女性の園ですれてしまったということも無さそうだな。少したくましくはなったが、私の知っているグラスのままだ」
言いたいことを言って満足した――ということもなく、義姉さんは俺とレスリーの頭を撫でる。
「心配せずとも、部屋は別にしてもらう。そこまで真面目なら監視の必要もなさそうなのでな」
「っ……わ、私は、グラス兄に変なことをしたりは……っ」
普通なら男の俺の方が言いそうなことを、レスリーが言う。義姉さんは手を上げて応じるだけだ――全く、二人揃って完全に翻弄されてしまった。
「……だ、大丈夫……これからも、何もしないから」
「あ、ああ……俺もその、色々と気をつけるようにするよ」
「……湯浴みのときみたいなことがあっても、グラス兄に怪我をさせるようなことは、もう絶対しないから」
やはり気にしていたのかと思う――すごい力で押し倒されたときは、どうなることかと思ったものだ。
「だから、一緒の部屋のままでもいい……?」
「レスリーのことを知ってる人が増えたからっていうことか。俺としては、今から部屋を変わるよりは一緒の方が……レスリーが嫌じゃなかったら、その方がいいな」
「……良かった。グラス兄は人気があるから、私とずっと一緒だと困るかと思って」
困るなんてことは決してないが、別の意味で困ったりはする。可愛い妹分というだけではすまないくらい、レスリーは日に日に女性らしくなっていく――男装をしてくれていなかったら、同じ部屋で落ち着いていられたか分からない。
植物のような心を持ちたいと思った俺だが、これからもそれを続けていくには苦労してしまうかもしれない。はにかんでいるレスリーを見ながら、そんなことを考えてしまった。