第百話 凱旋
義姉さんの起こした竜巻で、周辺の空を埋め尽くしていた黒雲は吹き散らされ、太陽の光が草原に降り注いでいる。
鹿毛の美しい馬を歩かせて、義姉さんがゆっくりこちらにやってくる。俺は草原の緩やかな坂を降りていく――後ろからレスリーもついてきている。役目を果たしてくれたルーネとレイは一度召喚を解き、『パンデラの園』に戻ってもらった。
学院を出るときのことが、つい昨日のことのように思い出される。ここで義姉さんと会うことになるとは思っていなかった――しかし、久しぶりに話すというのに、何も言葉が思い浮かんでこない。
「……緊張感のない顔をしている。戦闘を終えたばかりだというのに、緩むのが早い」
馬上から俺を見下ろし、義姉さんは厳しい表情で言う。義姉さんの言う通りだ――俺は彼女の姿を目にしただけで、学院にいた頃に戻ってしまっている。
しかし俺が答えられないでいるうちに、義姉さんの背中に寄り添うテンペストが何かを囁く。すると真一文字に結ばれていた義姉さんの唇が、かすかにほころんだ。
「しかし、確実に成長しているようだ。私を超えるにはまだ至らないが……ゴブリンの集団を相手に動じず、牧場の人々を救ってみせた。レンドルもよくやっているな」
「……はい。従者として、グラス様のご活躍を一番近くで見させていただいています。ミレニア学院長も、ご健勝そうで何よりです」
義姉さんは、レスリーが『レンドルさん』を演じることを了承し、俺の秘書として同行させてくれた。そのことにも感謝しなくてはいけないが、要塞の脱衣所でのことを思うと、ただ『ありがとう』では済まないのが複雑だ。
アスティナ殿下とディーテさん、プレシャさんは生き残りのゴブリンたちに山に帰るよう促している。彼女たちの力を見せられたゴブリンたちにはすでに戦意はなく、素直に従っているように見えた。
「殿下が剣を振るう姿を久しぶりに見たが、相変わらずの達人ぶりだ。従えている将も、どこの前線でも勲章を得られるだけの武勇を持っている。アイルローズに並ぶ戦力を備えた要塞は、他に探すのが難しい」
「あ、ありがとうございます……皆さんも、ミレニア学院長にそのような賛辞を頂いたと知ったら喜ぶと思います」
「殿下には直接申し上げるつもりでいる。グラス、君にとっては災難かもしれんが、私は騎士団中央本部から要請を受けて『アイルローズ要塞に入るように』と言われているのでな」
ロートガルト将軍の一団が、先に帰っていった理由が分かった――義姉さんは、騎士団に随行する役目をすでに終えたのだ。
「心配するな、学院を留守にしても問題はない。秘書のクラリネが代行を務めているし、元々講義をする機会も多くはない。それほど滞在日数は多くないが、西方領の実情を見て帰りたいと思っている……それに、愛すべき義弟のこともな」
「俺は……何とかやっています。一日一日が目まぐるしいですが、充実していますし、来て良かったと思います。レンドルさん……レスリーや、皆にも支えてもらっていますから」
「……そうか。グラスのことだから、驚異的な鈍感ぶりでまだ気づかないということもありうると思ったのだがな」
義姉さんに全く反論できないくらい、俺はレンドルさんの正体に気づく気配すらなかった。あの夜の出来事がなければ、今も気づいていなかっただろう。
「その……私が慌てちゃって、グラス兄に迷惑をかけて……」
「それは興味深い。後で、要塞に着いたら聞かせてもらうとしよう……しかしグラス。君からも色々と聞かねばならぬことがあるようだな」
「い、いえ、俺は本当に、義姉さんが思うほど変なことは何も……っ」
女性だけの要塞で、どんな日々を送っているのか。そんな想像をされている気がして動揺してしまう俺をよそに、義姉さんは馬を降り、こちらにやってくる。
「今は学院を離れている。私がグラスの義姉だということを、彼女たちにも知っておいてもらわなければな……」
「ふむっ……ね、義姉さ……」
義姉さんは俺の頭を抱える――顔が柔らかな双子の山に受け止められる。こんなことで懐かしいと感じてしまうが、だからといって俺はもう少年ではないので、姉さんにこんなことをされていてはいけない。
「……学院長は、相変わらず弟ばか」
「弟を愛でるのは姉の特権なのでな。それを確認するためにも、私はここに来ている」
「ぷはっ……義姉さん、その、ここでは殿下や皆の目がですね……っ」
「敬語を使うなといつも言っているはずだが……と、あまり追い詰めても嫌われてしまうな。君が保ちたい世間体というものも、多少は考慮しよう」
多少なんですか、と言いたくはなるが、これが俺の義姉さんだ。俺がこの目で見た中では間違いなく最強の魔法士であり、その力でこの国を守ってきた――彼女が俺の姉であることを、俺は心から誇りに思っている。
「では……グラス、私が学院を出るときに、後から一人西方領に入った学生がいるようだ。知り合いであれば、まだ近くにいるだろう。会ってくるといい」
「は、はい。義姉さん、また後で……」
その挨拶でおそらく正解だったのだろう、義姉さんは微笑んで、再び騎乗して殿下のもとに向かう。プレシャさんが早速俺とのことを義姉さんに質問していたが、「義弟との再会を喜んでいただけ」とサラリとかわしていた。
「……グラス兄、あそこにある石壁……? の向こう側にいる」
逃亡しようとしたヴァイセックたちの行く手を阻んだ石壁。草原に転がっている石を集めて一瞬にして壁を作った――間違いなく、精霊魔法によるものだ。
その壁の向こう側から、白い煙が立ち上っている。俺の作った薬草煙草の煙だ。
「……やあ。久しぶりだね、グラス」
石壁の向こう側に回り込むと、壁を背にして座り込んでいる、長髪の青年の姿があった。魔力を失って少しやつれているが、相変わらず元気そうだと言ってよさそうだ。
「スヴェン……まずは、助けてくれてありがとうと言うべきかな」
「ははは……まあ、石精霊の力を披露するには良い機会かと思ってね。石精霊『クレメンティア』、多少はお役に立つことができたかな?」
「ああ。あのヴァイセックって男には、随分といいようにやられたから……でも、大事なものは何も失わずに済んだよ」
「そうか。君は、戦場で何かを守ることをすでにしてきたんだな……そちらの人は?」
スヴェンに質問されて、レスリーは俺を見やり、そして頷く。正体を明かしてもいいということらしい。
「……私は、レスリー。スヴェンが気づかないなら、この変装には意味があった」
「なんてことだ……私としたことが。グラス、君に妹分を男装させる趣味があったなんて初耳だ。なぜ腹を割って話してくれなかったんだ」
「ち、違……グラス兄じゃなくて、私が自分で……」
レスリーは慌てて訂正しようとするが、スヴェンが笑っているのではた、と気づいた顔をする。
「……だから、スヴェンはないがしろにしたくなる。グラス兄と仲がいいのが不思議」
「女の子に男装をさせるのは、一つの男の夢なんだよ。そうだろう、グラス」
「君の趣味に巻き込まないで欲しいんだけど……というか、スヴェンは幅広い夢を持ちすぎだと思うけどね」
「違いない。騎士の方々を見ていても私の心は熱狂のさなかにあったし、学院長の魔法についても言うまでもない。しかし何より心を動かされたのは……グラス、君にだよ」
スヴェンは俺たちのことを見ていた――牧場の人々を助け、ゴブリンと戦うところまで。
学院にいたときは、それこそ想像上の話でしかなかった。魔法を使って誰かを助けたり、魔物と戦うなんていうのは。俺もスヴェンと、もし冒険者などになったとして、自分たちの魔法がどれだけ通じるのかと何時間も話したことがあったものだ。
「私も君のようになりたいと思った。だから、魔法を使って、君に敵対する人物の足止めをしたんだ。あれくらいで何かができたとは思わないけれど、胸がすく思いがしたよ。私が探していた目標は、この先にあるのかもしれないとも思った」
「……スヴェン」
スヴェンは薬草煙草を吸う――微弱ながら魔力を回復させる効能のあるそれは、大掛かりな『石壁』の魔法を使って消耗した彼の魔力をいくらか戻していた。
「王都で職探しをしたが、私がしたいような仕事は見つからなかった。だから……本当は、理由を探していたんだ。在籍期限のぎりぎりまで学院に残っても、私は何者にもなれないだろうと気がついていた。しかし知らない土地に行く踏ん切りもつかなかった。君も知っての通り、私は臆病だからね」
臆病どころか、彼ほど肝が座っている人物もそうはいない。『石』の精霊と契約したことによって、何事にも動じない精神性を養っている。
それは植物の精霊と契約した俺にも通じるものがある。だから俺は、スヴェンと同室になってもすぐウマが合ったし、今も彼の言うことに共感している。
「……じゃあ、スヴェン。学院には、もう帰らないんだな」
「ああ。私の魔法は、王都においては私の望む方向では必要とされなかった。それなら必要としてくれる場所を見つけるために、実績を作ろうと思う」
「実績……石の魔法で、何かをするの?」
レスリーが尋ねると、スヴェンは俺に右手を差し出す。その手を引き起こすと、スヴェンは草原の丘の上にある小屋を見やった。
「『クレメンティア』の力を使えば、手積みよりも圧倒的に速く建築することができる。グラス、私は西方領の街を回って、この技術で貢献できることを探すよ。もし叶うなら、君が勤めている要塞の補強なども請け負いたい。新たな砦を作るというなら、全力を尽くすよ」
「それは……きっと、殿下たちもお喜びになると思う。修繕を急ぐ箇所がないか、聞いておくよ」
「そうしてもらえるとありがたい。私はまずあの小屋の修繕を願い出て、仕事をもらえるか聞いてみようと思う。次は確か、ポルトロという街があるんだったね。そこに滞在して仕事探しを……」
「スヴェン、西方領の中ならどこにいても声をかけられる。そちらからでも、強く念じてくれれば『彼女』が俺に声を届けてくれるはずだ」
ユーセリシスと契約した今、西方領のどこでも植物を介して意志の疎通を行うことができる。魔法士のスヴェンなら、ユーセリシスの働きかけをより明確に汲み取ることができるだろう。
レーゼンネイア王国とかつて深い結び付きがあった神樹の精霊と契約した――それを全て語らなくても、スヴェンは理解してくれたようだった。
「それが『植物の精霊』の秘めた可能性だったということか。グラス、やはり君は『はずれ』なんかじゃなかったんだ……ああ、なんてことだ。こんなに爽快な気分になれる日が来るなんて」
スヴェンは外套のフードを外すと、高揚を押さえきれないというように拳を突き上げる。
「私も負けていられないな……と言いたいが、どうやら君が新たに契約した精霊は、私の常識では測りきれない存在のようだね」
「……神樹、ユーセリシス。グラス兄がすごく頑張ったから、契約できた」
「俺よりも、アスティナ殿下のご決断が何より大きかった。スヴェン……色々あったけど、またゆっくり話させてほしい」
「ああ、楽しみにしているよ。また会う時には、私も少しでも前進してみせる」
俺はスヴェンと握手をして、殿下の一行がいる場所に向かう。殿下はラインフェルト家のハルトナー氏と対話をしている最中だった。
「……ハルトナー殿、彼が、グラス・ウィードです」
「おお……彼が、私の病を治してくれたという……」
ハルトナー氏は殿下に会釈し、こちらに馬を歩かせてくる。白髪交じりの髪を総髪にした、いかにも屈強な男性だ――髭が口元を覆っているが、息子のスナイダーさんと顔立ちは良く似ている。
「ご挨拶が遅れて申し訳ない、私はハルトナーと申す者です。ラインフェルトの棟梁をしております」
「直接お会いするのは初めてですね……私はグラス・ウィードです。此度は、ご病気からの快復をお喜び申し上げます」
「良いのです、グラス殿。貴方は私の命の恩人……そのような方に気を遣わせては、こちらが落ち着きませぬ」
ハルトナー氏はアスティナ殿下とは対立関係にあったが、幸いなことに和解できたということらしい。ラインフェルト家の騎兵団は、殿下を助けるための援軍だったということだ。
「このところ、領内で好き勝手にアスティナ殿下の悪評を吹き込んで回る輩がおり、どうやら中央から来た人間という話でしたが……殿下の施政と、ジルコニアに対する防衛に何も不足などないことは、我々はよく理解しているつもりです。ゆえに、もし国王陛下の派遣する軍と対峙しようとも、お力にならねばならぬと兵を動かしました。幸い、衝突ということにはなりませんでしたが」
「はい、戦いにならなかったことは何よりでした。今後も干渉はあると思いますが、しばらくは時間が置かれると思います」
「……グラス殿は、要塞の状況や、騎士団の状況についても理解しておられる。医者としてのお力を領民のために使っていただけたらと思いもしましたが、貴方は殿下にとっても優秀な側近であられるのでしょう。殿下の人望が、本当に羨ましい」
「私はアイルローズ要塞の軍医ですが、領民全体の傷病を診たいという気持ちはあります。もし医者が不足している地域があるのであれば、及ばずながら育成という方法も取れると思いますが……」
現在でも各地の街に医者はいるが、絶対的な人数が足りない。衛生兵の皆も、指導することである程度の医術を身につけることはできたので、医者の育成は十分に現実的なアイデアだ。もちろん、医療に対して熱意のある人を募らなくてはいけないが。
「先ほど、ラインフェルト家は正式にアスティナ殿下に仕えさせていただくことになりました。領内で医者の志望者を募るなど、殿下のご方針に従って行うことができればと思っております。当家の傘下にある領民たちに対する指示についても、今後は殿下の命が最優先となります。ゆえに、グラス殿のご意見が、殿下を通じて領内の内政に反映されることになりましょう」
「っ……い、いや。私は一介の軍医ですので、政治に対して意見をすることはありません」
「何をおっしゃいます、あなたは土地を失いかけた農民をすでに救っていらっしゃる。アイルローズ要塞から派遣された騎士たちに、グラス殿が随伴されていたと報告を受けております。あなたは自分が想像されるより遥かに、多くの領民から信望を集めておるのですよ」
急にそんなことを言われても、実感もなく、理解がついていかない――そんな俺を見てハルトナー氏は白い歯を見せて笑う。
「何より、私があなたを信奉している。人の命を救うということは、そういうことです」
「そ、そんな。俺はただ、あなたは命を落とすような病じゃないと思っただけです」
「息子と娘から話を聞いただけで、そう診断してくれた。それを聞かされたとき、私がどう感じたか分かりますか? 神はいた、神の子も。ただ、あなたがこの西方領にいてくれたことに感謝しました」
「父上、そろそろ出立の時間です」
「うむ、分かっておる。グラス殿、ジルコニアとの戦いに勝利したとの知らせを聞き、領民は殿下に感謝の意を示したいと言ってきております。どうか胸を張って、民の声に応えていただきたい」
ハルトナー氏は息子のスナイダー、そして娘のクーフィカを伴い、騎兵の隊列を組んで街道を進んでいく。俺はプレシャさんの馬に乗せてもらい、レスリーはディーテさんの馬に乗って、殿下を中心とする隊列に加わった――義姉さんは俺たちより少し後方にいる。
プレシャさんとディーテさんは、殿下の左右に追従する。しばらくすると、殿下は俺の方をうかがいながら言った。
「ラクエルたちも、一緒に戻れれば良かったのですが。彼女たちには、改めて今回の様子を伝えることにしましょう」
「ラクエル姉も、みんなもきっと喜びます。あたしたちは、勝ったんだから」
「ええ……後顧の憂いも当面は無くなったことですし。今は領地の人々と共に喜びたいですわね」
いつも気丈なディーテさんが、たおやかに微笑む――殿下と、仲間たちと進む先に、街道の両側にずらりと並んだ人々の姿がある。
「――ジルコニア帝国の侵攻を防ぎ、西方領を守護した偉大なる騎士たちの凱旋である!」
ハルトナ―・フォン・ラインフェルトは、その一言を持って、アスティナ殿下に対する忠誠を西方領内に向けて表明した。
割れんばかりの歓声を浴びながら、殿下とディーテさんが手を上げて応え、プレシャさんは照れながら控えめに手を振る。
「……帰ってきたんだね、あたしたち」
歓声の中でも、プレシャさんの呟きは俺たちの耳に届いていた。
アイルローズ騎士団は、一つの大きな苦難を乗り越えた。街道の先に見える要塞は、雲ひとつない空の下で、アスティナ殿下の御旗を掲げていた。