第九十八話 成長
アスティナ殿下たちがロートガルト将軍と話し始めたあと、すぐに俺たちに指示があった。
神樹ユーセリシスは、王家の巫女である殿下と『繋がった』ことで、かつての力を取り戻しつつある。
すでに西方領全域の植物は、いつでもユーセリシスの声に耳を傾ける用意がある。それは、この草原のどこで何が起きているのかをつぶさに知ることができるということだ。
――そして分かったのは、憤りを通り越して、一瞬何も考えられなくなるほどの事実。
ヴァイセックの配下の手勢が、俺とレンドルさんが西方領に入ったばかりの頃に出会った、あの牧場の親子を捕らえていた。
『その命令に従うことはできません。私の務めは、この西方領の民を守ること。西方領を守り、領民の心を安らかにし、暮らしを豊かにすることです』
『なっ……お話にならぬ、陛下の命に反したこと、それが何を意味するかお分かりでないというのなら、その言葉自体が重大な反逆ではないか!』
殿下はついに、ヴァイセックに真っ向から意志を伝える。これは議論ではなく、一方的な論破でしかない――ヴァイセックには大義などなく、私欲のために動いているだけだ。殿下はヴァイセックの素顔を、何も知らなかっただろうロートガルト将軍の前でつまびらかにすればいい。
この段階で、殿下はユーセリシスの力を借り、ヴァイセックの謀略を見抜いていた。
ヴァイセックの手下は牧場の小屋に押し入り、仕事をしていたミーナを捕らえて人質にすると、様子を見に来た父親まで拘束した。他の家族は近くにいない――おそらく最寄りのポルトロの街に出向いているのだろう。それは不幸中の幸いではあったが、ミーナと父親を何としても助けなければ、悲しみを増やすことになる。
『ヴァイセックの旦那も悪いことを考えるもんだ。これ見よがしに人質を取ろうなんてな』
『敵にとっては手のつけられない猛将でも、民にはお優しい剣姫さまだ。大人しく従わせるには仕込みも必要ってわけだな』
『それにしても……乳臭い小娘かと思ったが、なかなかどうして上玉じゃねえか』
『んんっ、んんんっ……!!』
ユーセリシスが伝えてきた光景は、憤りのあまりに拳を握らずにはいられないようなものだった。
ヴァイセックが雇った男三人は、捕らえたミーナに下卑た視線を向けている。父親は縄で縛られ、猿轡を噛まされて床に転がされている――もはや一刻の猶予もない。
ディーテさんの馬の後ろに乗っているレスリーに、俺は目配せをする。ロートガルト将軍の近くにも、ヴァイセックが連れていた騎兵がいる――彼らは油断なく俺たちの動きを見ているので、馬から降りるところをあからさまには見せられない。
そう、『あからさまには』だ。レスリーがいてくれれば、今の状況を彼らに悟られずに打破できる。
『レスリー、気配を消してあの小屋に向かう。ミーナと父親が、ヴァイセックの手下に捕まっている……急いで救出しないといけない』
『……分かった。空気の精、エアリア……光を妨げ、私たちを匿って……』
精霊魔法士同士は、近くにいれば感応して会話をすることができる。念話越しでも、レスリーの囁くような詠唱が伝わる――そして、俺とレスリーを取り巻く空気の様相が変化した。
「プレシャさん、このまま待機していてください。彼らは、俺たちが動いたことには気が付きません。あの小屋にいる人質を助けないといけない」
「人質って……ヴァイセック、また卑怯な手を……!」
「落ち着きなさい、プレシャ。動揺を誘うのも、ヴァイセックの思惑のうちですわ」
そう言うディーテさんが、背負っている複合弓を意識しているのが分かる――彼女の狙いがヴァイセックに向けられれば、射程が届く限り逃げることはできないだろう。
度重なるアスティナ殿下への無礼と、今まさに行っているヴァイセックの非道は、二人の猛将に忍耐の限度を超えさせている。
『……グラス兄だって怒ってる。でも、冷静に見えるから凄い』
俺は思わず苦笑いをする――冷静さを失ってはいけないと自分に言い聞かせているだけで、本当は今すぐにでも、この歪んだ状況を変えることができたらと願っている。
姉さんと戦うことは避けなくてはならない。こうして対峙しているだけでも、酷く緊張する――向こう側に『翡翠の魔女』がいる、そう意識するだけでこれほどにも震える。
「っ……ヴァイセックが何か合図した。あいつ……人質を、殿下の目が届く位置に……!」
プレシャさんが憤る――しかし、怒りを抑えて後ろにいる俺を見る。俺は頷き、レスリーと同時に馬を降りて草原を走った。
ミーナと父親を救出しなければならない、それも第一に重要なことだが、もう一つこの場に来てみて分かったことがある。
ヴァイセックはまだ気がついていない。この牧場一帯が、どんな状況にあるのか――騎兵たちが『山から見える位置』に長く待機すれば、『彼ら』がどう考えるか。
『――グラス、やはり彼らはこの牧場を狙い続けていたようです。本来ならここではない場所でロートガルト将軍と対話すべきでしたが……』
それは仕方がないことだろう、これ以上ロートガルト将軍の一行が進んでしまうと、強引にアイルローズ要塞に入ろうとする可能性が出てくる。
『殿下のお力になれるよう、俺たちもできることをしたいと思います。戦いになるかもしれませんが、そのときは……』
『ええ、私たちが牧場の民を守りましょう。ロートガルト将軍も、追従してきた騎兵も、自分の命を守る力は持っているはずです』
ヴァイセックは殿下の発言で急所を突かれ、決して使ってはならない手段を使った――領民を人質に取り、殿下にアイルローズ要塞を明け渡すよう強要した。
ロートガルト将軍はヴァイセックの言動を、剣を向けてまで咎めた。そしてなおヴァイセックが騎士の誇りを汚す行動に出たと分かれば、もう言われるままに殿下から指揮権を奪おうとするとは考えにくい。
それとも、カサンドラ第二王妃の意向に沿うことを優先するのか。それもロートガルト将軍の立場を考えれば無理もないことではある。
本来忠節を尽くすべき相手であるアスティナ殿下を侮り、女性の幹部たちを下に見ている騎士たちの姿を見て、ミレニア義姉さんがどう考えているのか――もはや怒りも限度を過ぎていると思うが、幸いと言うべきなのか、まだ彼女は精霊魔法を使ってはいない。
『グラス兄、空気玉を使うの? それとも……』
『ルーネの催眠花粉が効果を持続させられるように、レスリーは空気を滞留させてほしい。妖花の園に咲き乱れる艶花よ……!』
小屋の外にミーナと父親が連れ出され、背後に立った男たちに刃物で脅されて、小高い丘の上に立たされている。こちらに全く意識が向いていないので、後ろから近づくことは難しくなかった。
「む、娘だけは……がっ……!」
「黙ってろと言ったのが聞こえないのか?」
「仕事が終わったらお前たちのことは好きにしろと言われてる。死なずにいれば、どこかで奴隷として親子再会なんてこともありえるかもな……ハハハ……!」
――怒りですらない、これは失望だ。
こんな連中の力を借りていると分かれば、何も手加減する必要はない。
「グラス兄……ルーネが……っ」
俺の目の前に顕現したルーネは、いつもよりも少し成長した姿をしていた――そして俺は理解する。
ユーセリシスが力を取り戻すことで、俺と契約している植物精霊全てが、今までより多くの魔力を取り込めるようになっている。
「召喚主さま……すごいのです、今までにないくらいの力が……」
成長しても口調が変わっておらず安心する――舌足らずな口調にギャップを感じるくらいには大きくなっているのだが。この様子では、人間に換算して13歳前後くらいだろうか。
「もっともっと大きくなるですよ。大人になったらぼんきゅっぼんで、召喚主さまをめろめろにしちゃうのです」
俺は今更に思い知る――パンデラの園に咲き乱れる妖花は、花粉だけではなく、その姿さえも人を魅了しうるものなのだと。
「……グラス兄、準備はできた。エアリアの空気の壁で、あの人達を包んでる。人質が花粉を吸わないようにもできるから」
「ああ……アルラウネ、遠慮は要らない。彼らを無力化してくれ……!」
「――かしこまりました、召喚主さま!」
目には見えない、魔力で組成された花粉が、アルラウネの全身からふわりと広がり――風の流れに乗って、ミーナと父親を捕らえている男たちを包み込む。
「なんだ、この甘い……匂い……は……」
「お、おいっ、何をしてる! 解放しろなんて命令は……ぐぁっ!」
ミーナと父親の後ろにいた男二人が、ナイフで二人の縄を解く。それを見ていた男が咎めようとすると、猛烈な勢いで殴り倒された――仲間に突然不意を打たれては、反応しようもない。
「あ……ああ……っ」
「……もう大丈夫。大丈夫だから」
その場に座り込んでしまったミーナに駆け寄り、レスリーが声をかける。ミーナはその胸に縋って、子供のように泣きじゃくる――『レンドルさん』の装いをしているレスリーを見て、安堵せずにいられなかったのだろう。
「あ、あの男……自分は騎士団の中央本部からの使いだと言って、俺たちを油断させて、急に豹変して……む、娘を、人質に使ったあと、奴隷に売り飛ばすなんて……」
猿轡を外すと、ミーナの父親は目に涙を浮かべながら言う――娘に危害を加えると言われても何もできなかった無念が伝わり、俺も歯を食いしばらずにいられなかった。
「……お父さん、私は大丈夫……また、お二人に助けてもらって、これ以上どんな言葉で感謝を伝えればいいのか……」
「ごめん、ミーナ……まだ少し不安な思いをさせると思う。でも、必ずこの牧場は守ってみせるから、安全なところで休んでいてほしい」
「グ、グラス先生、一体それは……っ、うわぁぁぁぁっ……!?」
声を上げたのは、小父さんだけではなかった。
ロートガルト将軍の連れている騎兵、そしてヴァイセックまでが取り乱している。
――山から押し寄せてきた、ゴブリンの群れ。一度アイルローズの騎士たちによって撃退された魔物たちが、最後の反撃を仕掛けてきたのだ。
「ロートガルト将軍、ゴブリンの中に巨大な個体が……っ」
「わ、我々の任務は、魔物と戦うことではない……一刻も早くアイルローズ要塞に……っ」
騎士が率先して戦わなければ、この辺り一帯がゴブリンによって蹂躙される。
前線に出ていない騎士たちは、魔物と戦うことに慣れていない。王都の周辺では魔物はほとんど出没しない――魔物の巣とされるところは念入りに掃討され、その上で王都の城壁を広げてきたという経緯があるからだ。
「我らが退けば、ゴブリンによる近隣の支配を許すことになる……ここで掃討し、山まで押し戻す。騎士は常に、力なき民の盾とならねばならぬのだ!」
恐慌に陥った部下たちに、ロートガルト将軍が檄を飛ばす。
――だが、広がる草原の草たちが教えてくれる。なぜ、将軍が退却命令を出さないのか。将軍の部下として西方領に入ったのは、魔物と戦うためではない。
「……ロートガルト将軍。あなたの部下たちは、魔物を相手にしたことがないようですね。アイルローズ要塞に入るということは、領内を荒らす魔物を討伐する任務を請け負うということも意味しています」
「そ、そのようなこと……ゴブリンなどに臆する騎士は、私の部下には一人も……」
騎士たちが覚悟を決め、山から来るゴブリンを迎え撃とうとする――しかし、その時だった。
「じょ、冗談じゃないっ……こんなことになるとは聞いていないっ! 西方領が魔窟だと知っていたら、みすみす来るものかっ……!」
「ヴァイセック殿、何を……っ」
「そ、そうだ……『翡翠の魔女』ミレニア殿の力があれば、あのような魔物など恐るるに足りません! さあ、我らをその魔法でお守りください!」
どれだけ都合の良い方向に考えられるのかと呆れもする。騎士たちが魔物と戦うことを任務だと思っていないなら、それは義姉さんも同じだと言っていい。
「生憎ですが、私の魔法は戦場で行使されるべきもの。貴君らがゴブリンとの戦いを『戦』と見なすのであれば、まず騎兵の役目を果たしていただかなければ。魔法士とは後衛で詠唱し、相手の陣を砕くものですから」
「その『騎兵の役目』は、我らが果たしましょう。民を守るのは騎士の役目、そのようなことは改めて確かめるまでもないことです」
「ぐっ……!」
「き、聞いたか騎士たちよ! 勇敢な剣姫が領民のために剣を執られる! ここは我らの出る幕ではないぞ!」
「――黙れ、卑怯者め! 何もせぬ蝙蝠が賢しらにわめくな!」
「ひっ……く、くそっ……! い、行くぞお前たちっ……!」
もはや求心力も何もなく、ヴァイセックはロートガルト将軍の激昂を前にして、連れてきた部下と共に馬を返す――その方角は、中央と西方領を隔てる関所だった。
「――ヴァイセック殿っ!」
「アスティナ殿下、ご心配なさらずとも、あなたが中央に戻られた暁には――」
ヴァイセックは馬上で振り返り、呼び止めたアスティナ殿下に答える。最後まで、捨て台詞のようなことを言おうとしたのだろう。
しかし、最後まで言うことができなかったのは――ヴァイセックたちの行く手に、突如として『壁』ができ、馬がいなないて足を止めたからだった。
「うぉぉっ……! な、なんだ、これは……っ」
「まるで道を阻むように……あの女狐が、我らを逃すまいとして……っ」
ヴァイセックと部下たちは混乱している――俺はその壁が何でできているか、草原の植物たちに教えてもらっていた。
材質は――『石』。かつて馬車が移動するための道をつくるとき、草原に撒かれていた石が組み合わさって、馬の足を止めるための防柵を作り出していた。
どうやって、西方領まで足を踏み入れたのか。抜け道はいくらでもあるが、俺は『彼』がそんなリスクを冒してまでここに来てくれたことに感謝していた。
「……スヴェン。これは、一つ借りになってしまうかな」
どこで調達したものか、馬に乗って外套を羽織り、顔を隠している男性。彼がスヴェンだということは、口に咥えた煙草で分かった――それは、俺が手製で作った薬草煙草だったからだ。
「ヴァイセック殿、ロートガルト将軍は貴君をこのまま行かせる気はない。将軍は貴君の騎士団に対する態度に疑問を持っておられる」
「――計ったな、ミレニア・ウィードッ! 貴様のような毒婦が、よくも、よくも俺を……っ!」
ヴァイセックの逃亡は阻止された――詭弁で逃れようとしたが、彼の持つ『勅令書』の内容が確認され、その傍若無人な振る舞いがようやく糾されることになるだろう。
そして、ミレニア義姉さんはそうまで言われて黙っているような人ではない。
こちらに向けて矢を射掛けようとするゴブリンたちを、彼女は馬上から睨み据える。
「アスティナ殿下、私が敵の弓を無力化します。その後は……」
「はい……貴女と共に戦えて光栄です、ミレニア殿」
『剣姫将軍』と『翡翠の魔女』が手を取り合う――そして、プレシャさんとディーテさんも戦列に加わる。
アイルローズ要塞を守っていた騎士たちが、どれだけの力を持っているのか。その頼もしい姿を、ただ見守っているわけにはいかない――俺はまずマンドレイクを召喚し、彼女の『声』でゴブリンたちを怯ませる。レスリーとの連携で空気の精霊に干渉し、音を遮断することで、巻き込まれることなく有効に攻撃ができる。
「『神樹の眷属にして、破滅の歌を響かせる魔蔘よ。我がもとに来たれ』……!」
マンドレイクのレイを召喚する――ルーネも、そしてレスリーも目を瞠る。
召喚されたレイの姿は、ルーネと同じように成長している。いつも少し眠たそうな目をしている彼女だが、その力が増していることは見れば分かった。
「……思いっきり歌ってもいいのれすか? 召喚主さま」
微笑むその姿を見て、俺は正直を言ってゾクリとする――この場に現れてしまったゴブリンたちには悪いが、彼らがこの場に出てきてしまったことを後悔するのは間違いなかった。