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5-1

 覚悟はしていたけれど、とヴァレリーは眉を下げた。フェシスはヴァレリーのことを覚えていない。データとしての記憶はあっても、自分を「よき友人」と呼んでくれたフェシスはもういない。記憶が失われるということは、そういうことだ。ヴァレリーは苦しくなる胸をおさえた。


 こんなふうになるまで、人間を……私を守る必要なんてあった?


 口をついて出そうになる言葉を飲み込む。クローン人間であるヴァレリーにとって、記憶は自分自身を確立させるためのものだ。一番初めのヴァレリーであるレイリー・モーリスはもちろん、その他の代々クローニングされてきた自分……その誰も、今のヴァレリー・モーリスの記憶と同じものを持ってはいない。

 記憶操作の技術で消去されることもあるにはあるが、自我を確立するのに必要なのは自分の記憶だ。

 だからヴァレリーは、フェシスの今の様子を見るのがつらい。そうまでして人間を……自分を守ろうとしてくれたことへの感謝はあるけれど、申し訳なさの方が先に立つ。


「ごめんね、ごめん。フェス」

「どうかされましたか? ヴァレリー・モーリス」


 きょとんとした様子で、フェシスはヴァレリーの心境をはかりかねている。フェシスの瞳の色が水色と黒を何度か往復する。ヴァレリーはヴァーチャル・アウトサイドに自分が来たばかりのころを思い出した。フェシスは心を読もうとしているのだろう。


「エラーが発生しました。……おかしいですね。私はヴァーチャル・アウトサイドのすべてを管理する基幹システムです。なのにヴァレリー・モーリス、あなたの心を読もうとすることを拒絶する何かがあります。あなたの側でエラーが発生しているのではありません。私の側でエラーが発生しています」


 フェシスの言葉に、ヴァレリーはいてもたってもいられなくなって抱きついた。フェシスが困惑する。


「あなたの心を読むことができません。申し訳ありません。あなたの考えることがわからないのです。どうして泣いているのですか」

「フェスが起きたからだよ!」

「私が再起動したのが悲しいということですか?」

「違う! うれしいの! 複雑なことたくさんあるけど、うれしいの!」


 心を読まれることを嫌ったヴァレリーの言葉をどこかで覚えているのかもしれない。それは初期化されたはずの≪ココロ≫の動きのように思えて、ヴァレリーはぐずぐずと鼻水をすすりあげた。


≪お取り込み中のところ、悪いんだけど≫


 通信枠の中から遠慮がちに、しまりのない声が聞こえた。白河陸だ。フェシスの再起動が完了したからだろう、先ほどの音声のみの通信とは違って、映像も追加されている。


≪ロリ子ちゃん、フェシスの再起動が無事完了したよ。おかげさまでアウトサイドは通常営業に戻ることができた。栄養や酸素なんかも問題なさそうだ。みんなヴァーチャル・アウトサイドに戻っていってる。海くんも協力ありがとう≫


 通信枠の中の白河陸の映像が横を向いて、そこにいるらしい白河海に礼を述べる。


≪そんなわけでロリ子ちゃん、リアル・アウトサイドに戻っておいで≫


「やだ。まだ少し、フェスといる」


 ヴァレリーが駄々をこねる。通信枠の外側から、白河海の笑い声が聞こえた。アウトサイド代表白河陸は困った様子で、眼帯をぺちぺちと顔面に弾きながら「あんまりヴァーチャル・アウトサイドにいると、僕がロリ子ちゃんに接続するからね。早めにリアル・アウトサイドに帰ってきなさい」と言った。「それはセクハラだよね? パワハラの方?」とヴァレリーが返す。白河陸は両手を上に向けてお手上げを示したあと「じゃ」と通信枠を切った。

 カーテン越しに日がのぼっているのがわかる。ヴァレリーはゆるゆると立ち上がると、窓に近づいてカーテンを開けた。リアル・アウトサイドを再現した強烈な光が差しこんできて、いつだったか、フェシスが部屋を訪ねてきた日のことを思い出した。


「ちょっと待ってて、今、ご飯作るから」

「食事ですか? しかし私はヴァーチャル・アウトサイドのデータ上に存在するロボットです。人間と違って現実での栄養摂取は必要ありません。人間にたとえるなら、私の栄養は電力であり……」

「じゃあ、電力の摂取でいいよ。真似事でいいんだ。一緒にご飯食べよう」

「ヴァレリー、あなたは変わった方ですね」


 以前ヴァレリーと過ごした記憶のないフェシスは、ヴァレリーに困惑しつづけているようだ。最初に出会ったときも、もしかしたならずっとそうだったのかもしれないな、とヴァレリーは笑った。全然そんなふうには見えなかったけれど、よく瞳の色を往復させていたのを覚えているから、内心では困惑していたのかもしれない。


「フェス、顔、洗っておいで!」

「……? 私はヴァーチャル・アウトサイドのデータ上にのみ存在します。実体があるわけではありませんから、顔を洗う必要がありません。ヴァレリー、あなたは先ほどから私に実体があるかのように接しますね。何か誤解があるのではないでしょうか」

「誤解じゃないよ。フェスがヴァーチャル上の存在だって知ってる。でも真似事でいいんだ。いいから顔洗っておいで」

「あなたにどのような意図があるのかわかりませんが、敵意のないことはわかりました。顔を洗ってきます」

「ついでにシャワーとか浴びてきてもいいよ!」


 困惑しながらもゆっくりと立ち上がり、フェシスが洗面所に向かう。

 ヴァレリーは腕まくりをして、キッチンに立った。料理はあまりしたことがない。ボーダー要塞では、食堂で支給される経口栄養食を食べることが多かった。

 冷蔵庫から卵とベーコン、レタスを取り出す。パンプキン・ポタージュは缶入りのものがある。あとはトーストだけれど、パンは何枚かにカットされたものが食品棚の上に置いてある。

 缶のふたを開けて、鍋にパンプキン・ポタージュを注ぎ込む。ベーコンをカットしてフライパンに乗せる。じわじわと熱が通ったベーコンは、他のことをしていたら、少し焦げた。レタスを一口サイズにちぎって皿に盛り付け、その上に焼いたベーコンを乗せる。ベーコンをいためた油が残っているフライパンに、卵を乗せて目玉焼きを作る。トーストを作る準備も忘れない。

 フェシスも以前こうやって作ってくれたのかな、とヴァレリーはにやけた。自然と鼻歌が出る。ヴァレリーが寝ている間に作っておいてくれたことを思い出す。

 シャワーを浴びて戻ってきたフェシスに「座って!」とうながして、ヴァレリーはできあがった料理をダイニングテーブルの上に乗せていく。


「ちょっと待っててね」

「手伝いましょうか?」

「うーん……もしも私が困ってたらよろしく」

「手伝います」


 即座にそう返したフェシスに「そんなに困ってるように見えた?」とヴァレリーはたずねた。


「あまり料理の経験がないようにお見受けします。それに私も、ただ座って待っているのはばつが悪いですから」


 トースターのタイマーが音をたてて、焼けたパンが飛び出してくる。フェシスは皿を用意して、さっとトーストをその上に乗せた。

 ヴァレリーがパンプキン・ポタージュを深めの皿に注ぐと、ダイニングテーブルの上に朝食が出そろった。


「いただきます」


 フェシスが両手をあわせてそう言ったのにつられて、ヴァレリーも両手をあわせる。おそらく日本地区の風習だろう。アメリカ地区出身のヴァレリーには、あまり馴染みがない所作だ。フェシスを作ったのは一番初めのヴァレリー・モーリスであるレイリー・モーリス博士のはずだが、アウトサイドのシステムは白河空が作ったものがベースになっているというから、そこから学習したのかもしれない。白河空は日本地区出身だ。

 以前のようにトーストをかじる。少し焦げたトーストの端が口の中にぶつかった。目玉焼きはフェシスが以前作ってくれたような半熟ではないし、ベーコン・サラダのレタスはしんなりとしている。そういえば黒胡椒をかけるのを忘れた。フェシスのようには、うまく作れない。


「前にね、フェスがこうやって、私に朝ご飯を作ってくれたんだよ」

「そうだったのですか? それで私に作ってくれたのですね」

「フェス、自分のことを完璧なシステムだって言ってた。なによってちょっと思ったけど、作ってくれたご飯は完璧だった。私はそれに敵わないな」


 もしも完璧に作れていれば、フェシスが記憶を少しだけでも取り戻してくれることもあったかもしれない。そんな後悔をするヴァレリーをよそに、フェシスは首を傾げながらベーコン・サラダにフォークを差し入れた。


「ヴァレリー、あなたは人間です。そうして私は、このヴァーチャル・アウトサイドの全てを管理している基幹システムです。ヴァーチャル空間上で私に及ばないのは当然のことですから、どうかお気になさらずに……」

「もう……そういうとこだよ。そういうところに、ちょっとだけ、なによって思っちゃうんだよ」

「そうなのですか? 事実を述べたまでですが……ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません」

「謝るようなことじゃないよ。フェスはそれでいい」


「そうですか、それではお言葉に甘えます」と返したフェシスに、ヴァレリーは元気よく「うん!」と返事をして、完熟に焼き上がった目玉焼きをほおばった。

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