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白河がセンサーに指先を押しつけると、ハゲタカが言うように歓迎されているのか、簡単にロックが解除された。小さな液晶画面ににこやかな女性オペレーターの姿が浮かんで「ロックを解除します。しばらくお待ちください」と場違いにやさしい声を投げかける。
ヴァレリーがC-0と行き先を伝えるが、小さな液晶画面の中の女性は「インサイドC-0は概念上の階層で実在しません」とエラーメッセージを伝えた。C-0はインサイド政府により公開されたデータベースであり、そこへ接続する者を警戒するための囮だ。いらだちを露わにするヴァレリーに、ワルターが小さくため息をついた。
「声紋認識。多分白河海でないと動かない」
うながされた白河がもう一度行き先を告げると、液晶画面は途端に真っ暗になった。次の瞬間、重力に逆らって身体がふわりと浮かんだような感覚があって、エレベーターが動き出す。真っ暗になった画面にオレンジ色の光で階数が表示される。不満気にうなるヴァレリーにちらりと冷たい視線をよこしてから、ワルターは床に座り込んだ。それを見てハゲタカが、つづけて白河が座る。
高速エレベーターなら十分ほどでインサイドの最上部に着くはずなのに、なかなか目的階へは止まらなかった。オレンジ色の数字は次々と明滅を繰り返す。白河はあくびをかみ殺しては頭をかき、ハゲタカことテイラー主任はマシンガンの手入れと最終確認をしている。
「ヴァレリー」
長くつづいた沈黙を最初に破ったのはワルターだった。背を向けたままの彼に話しかけられると思っていなかったヴァレリーは、小さく肩をすくめてから首を傾げた。
「君の名前、借りていい? マスターコードに追加登録する」
突然何を言い出すのだろう。ロボットにとって主は絶対で、所有者を示すマスターコードを自分で改変できるロボットがいるという話は聞いたことがない。そんなことを許せばロボットたちは思い思いの主を選んでしまう。
マスターを追加することによって何が変わるのか理解できずに眉を寄せたヴァレリーに、ワルターはエレベーターの液晶画面に映っていた案内嬢のように淡々とした声を返した。
「今、俺のマスターはメイジスだ。でも君の名前を登録すればマスターは二人になる。そうすれば君の権限でメイジスの命令を相殺できる。メイジス側から俺とインサイドの接続を断とうとしても、君の命令がなければ完全に切断することはできない」
「ふうん。それは便利ね」
ワルターはヴァレリーの返事を待ちながら、エレベーターの表示をながめている。白河がにやにやと気持ち悪い顔をしてワルターをながめているのに気付いて、ふと伊庭祥子の記憶を思い出した。ヴァーチャル・アウトサイドで追体験した祥子の記憶によれば、ロボットにとってマスターとは最も大きな存在ではなかったか。
「君の命令もメイジスによって相殺されるけど、幸い俺には特殊プログラムが……《ココロ》があるから、望み通りに動くことができる」
いつもより口数の多いワルターを不審に思った。
本当にメイジス対策のためだろうか。一度気にしだすと止まらない。ワルターはヴァレリーを守るという約束をフェシスとかわしている。けれども今思えば、その約束を果たす以上に、ヴァレリーを気遣っているような気がしてならない。
心という言葉を照れくさそうに視線をそらして口にしたワルターを見るうち、ヴァレリーは頬が熱くなるのを感じた。
「や、えっと、あの、それは……ちょっと」
憧れたことならあるけれども、誰かを特別好きになったことも、色恋の対象となったこともない。隼として尊敬と羨望の念を集めるのには慣れていても、女性として見られるのは苦手だ。慣れないとはいえ、言葉尻を濁してかわそうとする自分とファウストを操る自分の落差が情けない。
「だ、だって今までも、その、《ココロ》で動いてきたんでしょ」
《ココロ》はどの命令よりも優先される。ワルターがこれまでヴァレリーに協力してきたのは、そのシステムのおかげだ。マスター登録をすることで、今さら何かが変わるのだろうか。ならばこれはもう、祥子と先代の白河海のような関係をワルターが望んでいると疑った方がいいではないか。
「わざわざ私をマスター登録する必要なんて、ないじゃん……」
昔のヴァレリーなら、使いっ走りができると喜んでマスター登録をしただろう。今登録をごねているのは、祥子のせいだ。一度マスター登録をすれば、マスター本人が登録を抹消しない限り、その名は主の名として永遠に残る。白河海が死んでも待ちつづけ、一人で戦いつづけた祥子と同じ轍をワルターに踏ませるかもしれないと思うと、胸が苦しくなった。
インサイドに侵入している今、生命の保証はない。
余計なことを考えるのは、クローン人間の生死観から脱したせいだ。死を身近に感じるようになったからこんなことを考えるのだと自分に言い聞かせても、うなずくことができない。
ワルターもいつ修復不可能なほど壊されるかわからないから、思いを告げようとしたのだろうか。ならば断るにしろ応じるにしろ、ワルターの言葉にきちんと向き直るのが礼儀だろう。ヴァレリーは腹をくくって、長めの息を一つ吐き出した。
「ワルターには、レイリーがいるじゃん?」
腹をくくったはずなのに、随分遠まわしな言い方になってしまった。けれどもレイリーに似ているからヴァレリーのことが好きだというのだけはやめて欲しい。誰かの身代わりのようで悲しいではないか。
少し前、これと似たようなことをフェシスに言って困らせたことがあったのを思い出した。黒髪の少女が小さくため息をつく姿が思い出されて、無性にフェシスに会いたくなった。
「……レイリー? どうしてここでレイリーが出てくるの?」
エレベーターの中では白河とテイラー主任が笑いを噛み殺している。すっかり二人のことを忘れていた。ヴァレリーはこの衆人環視の公然告白に、己の羞恥心の目盛りが最大限に振り切れたのを悟った。
「う、うわあああああ!」
ワルターが物事の核心に触れる前に、大声で叫んでエレベーターの扉に駆け寄る。握りこぶしで重い金属の扉を殴りつづけた。それを見て白河とテイラー主任はこらえ切れなくなったらしい。腹を抱えて涙まで流して笑っている。
「ヴァレリー、君、何か勘違いしてない?」
ワルターがゆっくりと顔をのぞきこんで、眼鏡の奥の焦げ茶色の目をわずかに細くする。ヴァレリーは両手で耳を覆って、金色の髪が乱れるほどに激しくかぶりを振った。
「言うな! お願いだからそれ以上何も言わないで! 聞きたくない!」
「レイリーはすべてのシステムの母親だ。それはメイジスの下位組織である俺にとっても同じ」
「わああああ! 聞きたくないって言ってるでしょうがあああ!」
絶叫するヴァレリーをものともせず、ワルターがゆっくりと告げる。
「だから、君は妹」
ぎゅっと両目をつぶって両耳を覆っていたヴァレリーは、その言葉の意外さにぽかんと口を開けた。
「は?」
「妹」
白河とハゲタカの笑い声がぴたりと止んで、次の瞬間、一際大きくなる。
「ちょっと、床まで叩いて笑うってどういうことよ、失礼な!」
「いやいや、隼のお嬢ちゃんの勘違いっぷりがあまりにも見事で。これは盛大な誤射だ。あははは」
「いやあ、そうかぁ、ヴァレリーの好みはこういう、過保護なお兄ちゃんみたいな男だったんだな。そうかそうか」
「ち、違うよばか!」
今まで存在を忘れ去られていたROPまでもが宙でくるくると回りだしたのを見て、二人は笑いをようやくおさめた。ROPの誤射は間違いなく生命の危険を伴う。
折りよくエレベーターが止まり、扉が左右に開いていった。ヴァレリーは一刻も早く忌まわしい事故を忘れたくて、銃を片手に早足で外へ向かう。青緑色の薄暗い照明が、せまい廊下を隅々まで照らし出している。ROPをひきつれたワルターがそっとヴァレリーの後へつづいて、「ごめん」と小さく言った。
「なによ、あんたが謝る必要なんてないじゃん」
半ば八つ当たりなのを承知で、声をひそめたままいらだちを露わにする。敵地で大声を上げるほど、ヴァレリーは己を見失ってはいなかった。
「いや、前に俺がロボットと恋愛ができるのかなんて聞いたから、ヴァレリーが勘違いしたんだ」
「あのねぇ……ワルターが謝ったら、まるで私があんたのこと好きだったみたいじゃない。別にあんたのことなんて好きでもなんでもないんだから」
柱の影で銃の安全装置をはずして、壁にぴたりと背をつける。刺々しい言葉に明らかに落胆した気配が返って来て、ヴァレリーは軽く眉間にしわを寄せた。好きでもなんでもないなら嫌いなのかと無言で問いかけられているような落胆ぶりだ。
「嫌いじゃないよ」
「うん」
ぶっきらぼうな言い方をしたのにうれしそうな反応があって、つい振り返ってしまった。ワルターが微笑んでいる姿が見えて、いつもの無愛想で言葉が足りなくて、それでいて面倒見はそれほど悪くないという、よくわからない印象が少し変わった。破れた人工皮膚の下から金属製の板が見えていなければ、とてもロボットには見えない。
敵を警戒しながらも、眼鏡の奥でワルターの目がうれしそうに細められているのに気付く。よく見てみれば、頬もわずかにほころんでいる。それをかわいいと思う自分はどうかしている。
ロボットのくせにという気持ちは、ヴァレリーの中に確かにあった。人間とロボットの間には大きな壁がある。ロボットは人間のように相手を認めるのではなく、命令で従う。その仕組みにもどかしさや不満を覚えるのは、心のどこかで人間の方が上だと思っているからではないか。ヴァレリーは息を詰めて、一度肩から力を抜く。姿形は似ていても、両者の間には大きな隔たりがある。命令ではなくあるがままの自分を認めて欲しいという欲求に気付いて息をひそめる。マスター登録は必要ない。
「生体反応、熱源反応共になし」
喜びを隠して状況報告をした声にひとまず息をついて、構えていた銃をおろした。
フェシスも、ワルターのような顔をするのだろうか。フェシスの顔を思い出そうとすると、いつも何かを堪えている姿ばかりが頭をよぎる。今もヴァーチャル・アウトサイドで白河陸に従っているのだろうか。マスター登録でがんじがらめにされているのだろうか。そう思うと胸が痛んだ。
「兵器稼動音なし。進んでいいよ」
柱から顔を出して後続の二人の様子を伺うと、ハゲタカは未だに銃を構えてあたりを警戒している。歴戦の戦士というものはわずかな間でも気を抜かないものなのだろう。白河はきょろきょろと好奇心のおもむくままに廊下を見渡している。
「オレ、ここに来るのはじめてだわ。これ、扉? 開けゴマ、なんちゃって」
白河海の声に反応して、壁に埋め込まれたセンサーが小さな電子音をたてた。
「……あ、開いた」
唖然とする白河をよそに、他の三人が扉の向こうへと銃を向ける。光が薄暗い廊下に漏れたかと思うと、次の瞬間には一気に白く染め上げられる。視力を奪われぬように目を細め、ヴァレリーは銃を握りしめた。
光の次にもたらされたのは、歌だった。
やわらかな声が歌い上げる悲しげな旋律が、ぽつぽつと部屋の奥から流れてくる。足を進めるのをためらっていると、白衣の男がヴァレリーの横をすり抜けて行く。警戒心がなさすぎないか、と白衣をつかもうとするが、ヴァレリーの手は空を切った。光が一瞬さえぎられる。遠のく背中をあわてて追いかけると、徐々に像が形を成した。
「母さん」
「あら、海くん?」




