2-8
薄い青の世界でヴァレリーは目覚めた。あたりを見回すが何もない。ひょっとして失敗したのかと不安になりはじめた頃、眼前に小さな通信枠が現れた。時を同じくして、空間に本棚の群れが現れる。
「具合はどうですか」
通信枠からフェシスが声をかける。画質は外ほどよくない。
「平気。この本棚にあるのが蓄積されたデータ?」
以前これに似た景色を見たことがある。ボーダー要塞の特務課にあった書庫だ。ヴァレリーが苦々しく笑ったのにゆっくりしたまばたきを返して、フェシスが口を開いた。
「祥子が先代の白河海にはじめて接触したのが六年前です。そして先代の白河海が亡くなったのが五年前――この一年間に、祥子が《ココロ》を作動させるきっかけになった事件があるはずです」
「了解。どれを読めばいいのかな」
本棚の群れから、すっと一冊の本が飛んでくる。現実にはない光景に、ヴァレリーは今いる場所が他人の頭の中なのだと思い知った。床に座り込んで本を開く。文字がふっと明滅した。通信枠の内側に小さな窓が開いて、《インサイド偵察機SH型0Sの記憶データを展開中》と表示される。《ロード完了》の文字と共に、通信枠から世界があふれだした。薄暗い部屋に、上等のソファがぎっしりと並んでいる。少し離れた場所に大きな通信枠ができていた。映画館だ。白い通信枠で三、二、一と数字が踊ったかと思うと、ぽーんと小さな電子音が聞こえた。映し出された映像が徐々に鮮明になっていく。
次の瞬間、ヴァレリーはがらくたの上にたたずんでいた。頬に冷たい雫がぶつかる。雨のようだ。手をかざして確かめようとするが、身体が動かない。
戸惑うヴァレリーを見透かしたように、フェシスの声が届いた。
《現在、祥子の記憶にあなたの意識を重ねています。祥子が過去にとった行動をなぞることはできても、あなたの意思で動くことはできません。追体験プログラムの一種ですから》
納得して、ヴァレリーはゆったりと祥子の視界に没頭した。
ところどころ崩れたコンクリートの建物の屋上に、錆びた鉄塔が見えた。鉄塔の先端で赤い光が明滅し、土を掘る轟音が足元から響く。インサイドの中心部とは比べ物にならないほど空気が淀んでいた。思わず顔をしかめてしまうほどほこりっぽく、空の色が暗かった。インサイドの最下層だ。ヴァレリーは固唾を飲んだ。
インサイド政府の記憶検査にひっかかった者は、再教育研修によって記憶を差し替え、品行方正な人格を授けられる。しかし、なかには検査のたびにひっかかる頑固者もいるそうだ。くりかえし研修を受けた者は社会不適格と認定され、インサイドの中心部から追われることになる。追われた者たちは最下層地区で暮らす。
「あれだけ型番が古いと処理場行きだね」
「愛玩用は型落ちが早いからなぁ」
声の主にさりげなく目をやった。雨のせいか人通りは少ない。二人の青年がロボットについて話しているようだ。その後ろを少女型ロボットが規則正しい足取りでついていった。
「流行りが過ぎたら、オークションでもなかなか買い手がつかないからなー」
「売れないのもわかるよ。他人が使った愛玩用ってなんか嫌じゃね? レアもんなら我慢するけどなぁ」
うなる男に、もう片方の男が後ろを歩いていたロボットを指差す。ロボットの表情は変わらない。
「あ、ミラたん売りたくなったらいつでも言って?」
「メンテもろくにしないくせに」
「確かにこの前、うちのレナ様から煙が出たときは焦ったわぁ」
笑い声とともに人間二人とロボット一体の姿が街角を曲がった。伊庭祥子はゆっくりとした足取りで街を進み、錆びた金属の扉を押す。ギギギと耳障りな音がして、空気の流れが変わった。目の前にうずたかく廃棄物が積まれている。処理場だった。
(お前、型が古いからもう要らないや。自分で処理場に行って)
ヴァレリーの頭の中に、会ったこともない男の声が響いた。それが現在の祥子を動かしている命令だった。たとえ祥子がアウトサイドのロボットでも、インサイドにいる間はインサイドでのマスターの命令に従わなければならない。ヴァレリーは奥歯を噛みしめた。処理場に行けとロボットに命令するのは、インサイドでは当たり前のことだ。
──それなのに、どうして今は怒りがわくんだろう?
きっと後の祥子を知っているからだ。ヴァレリーの会った祥子はとてもロボットとは思えない、ほぼ人間にしか見えない女性だった。そんな祥子が《型が古い》というだけの理由で廃棄処理される……戦場で使い捨てされるクローン兵士を思い出した。クローンもロボットも大差ない。
処理場の廃棄物の山で、祥子は雨に濡れていた。雨は機械の天敵だというのに、黙って顔を空へ向けている。黒い髪が頬に張りついた。
「あのさ」
祥子の背後からゆったりした声がかけられた。この声の主を知っている。ヴァレリーはすぐにふりむきたい思いに駆られた。
「いくら防水加工してたって、雨に打たれたら錆びるよ」
祥子の目に映ったのは金髪の男だった。肩幅はそれなりにあるのに、痩せていて頼りない。
過去を知るために記憶にもぐりこんだのだから、こうして白河を目にするのは当然のことだ。今ここにいる白河は、ヴァレリーの知っている白河でないということも、よくわかっている。それでも動くことが叶うなら、白河に軽口をたたいて、背中をばしんと一発叩いてやりたい。
──やだなぁ、参ってたのはわかってたけど。
髪に手をやるが、腕はまったく動かなかった。祥子の過去を追体験しているのだから当たり前だ。
「私は処分を待つ身ですから」
「ああ、ここって廃棄物処理場だっけ。君はロボットか」
淡々とした祥子の声に、のんびりとした白河の声が応えた。次の瞬間、祥子の頭上に傘が開く。
「俺ん家来ない? 君、ほっといたら錆びるし」
「私は処分を……」
「まだ使えるのに」
よく見れば、足元の木箱に山ほど部品が入っている。処理場で使える部品を集めていたらしい。
「マスターのご命令ですから」
「マスター登録、消去してあげようか? そしたら命令とか関係ないし」
ヴァレリーは自分の頬に手が伸びてきたような錯覚を覚え、白河の手を払いのけようとした。当然動かない。
「お断りします」
白河を懐かしいと思ったことを恥じた。顔に胡散臭い笑みを貼り付けて、完全に口説きに入っている。人間でもロボットでもいいのか、見境もポリシーもない、とヴァレリーは噛みつきたくなる。
「君に下されたマスターの命令って?」
「古くて要らないから、一人で処理場に行けと」
「それ、処分されてこいとは言ってないよね」
祥子がひそかに眉をひそめる。白河の言っていることは間違っていない。これからしようとしていることも、きっと間違ってはいない。それでも妙に腹が立つ。
「処分の時期だって命令されてないだろ? だったら俺と話してからでもいいと思わない?」
廃棄物の山の上で、白河が一見爽やかな笑みを浮かべている。その向かいには黒髪の無表情の女性型ロボット。そして女の身体にはヴァレリー・モーリスというまったくの別人が潜んでいる。
──他人の記憶だ。こういうの、見たくないな。
《ココロ》が作動するほど、祥子にとって白河との出会いは特別だったのに違いない。一番大切な記憶、二人の関係の記憶……ヴァレリーは目の前の白河をにらみかけてやめた。この身体を動かせるのは過去の祥子だけだ。
──白河を助ける方法を探さなきゃ。
くりかえし自分にそう言い聞かせる。雨はまだ降っていた。傘の上で水玉が筋を作って落ちていく。ようやく観念したのか、祥子は白河の傘にそっと身体を入れた。
「もっとこっちに来ないと濡れるよ」
「それはあなたが濡れるのでは?」
ふ、と恋人に投げかけるような笑みをよこすと、白河はそれきり口をつぐみ、祥子の肩を抱き寄せた。




