2-6
朝、ヴァレリーは女性の声で起こされた。
架空世界のベッドは、現実のアウトサイドに並んでいた卵形のカプセルとは違って木製で、ヴァレリーが寝返りを打つたびに小さくきしんだ。亡命から何日も経過しているが、ここで朝を迎えるのははじめてのことだ。寝心地は悪かったが、疲れているせいか寝つきはよかった。だからといって寝起きがいいということには繋がらないのだけれど。
「おはようございます」
「なによ、こんな朝早くから……」
カーテン越しに日がのぼっているのがわかる。シャッ、と小気味よい音がして、強烈な光が差しこんだ。
ヴァレリーは布団の中からうめいて頭を抱える。
「もうちょっと寝かせてよ」
「もう朝の九時です」
規則正しい翻訳調の言葉が相手の正体を知らせた。
「フェシス?」
「はい。インサイドの軍人というのは、これほど朝寝坊でも務まるものなのですか?」
かつてインサイドで聞いていたのと同じ台詞に、自然と背筋が伸びた。ベッドの脇に立ち上がり、直立不動の姿勢で敬礼する。
「ボーダー要塞、飛行部隊S-3所属、ヴァレリー・モーリスです! すぐ出ます!」
「どこに?」
冷たいフェシスの反応に、はっと我に返る。
「うっかり敬礼しちゃったじゃない!」
「勝手に敬礼したんでしょう」
ベッドからほど近い場所にある机に、目玉焼き、ベーコン・サラダ、パンプキン・ポタージュ、トーストと順番に皿が置かれていく。
「わ……すご」
「顔を洗ったら、どうぞ召し上がってください」
フェシスの声にしたがって、顔を洗いに行く。蛇口の前に手を出すが、水は出ない。自動ではないのだろう。少し考えて、栓をひねる。水の冷たい感触は、とても架空のものには思えなかった。
タオルで顔を拭きながら食卓についた。インサイドではパックに入った食事が多いから、まともな食べ物を見るのは久しぶりだ。
「アウトサイドではこういう食事が出るんだ」
トーストをかじる。こんがりときつね色になったトーストは、ヴァレリー好みのご馳走だ。
「どれも実体はありません。すべてヴァーチャルだから可能なのです。実際は管から栄養を補給しているだけです」
なるほどね、と納得して、ベーコン・サラダにフォークを伸ばす。適度に焼いたベーコンが香ばしい。黒胡椒がぴりりときいていてうまい。
「これ全部、にせものなのね。そう考えると切ないなぁ」
しゃきしゃきしたレタスが口の中で小気味いい音をたてたところで、ふとヴァレリーは手を止めた。
「……ねぇ、なんでご飯作ってくれたの?」
フェシスはしれっとした顔で、キッチンで洗い物をはじめている。朝食を作った際に使った調理器具だろう。
「あなたと出かけようと思ったんですが、まだ起きてもいらっしゃらなかったので。待っていたら遅くなりますから、先に準備をしておきました」
「……そりゃあ、どうも」
出かける約束をした覚えもないんだけど。
そう言いたいのをこらえられたのは、きっと目の前に美味しいものがあるからだ。
フェシスはヴァレリーの寝室に姿を消した。きっと寝ている間にぐちゃぐちゃになってしまったシーツを整えているのだろう、ばさばさと音がする。
ヴァレリーは目玉焼きを口の中に放りこんだ。半熟の黄身が、とろりと口の中に広がった。
すごい、完璧なんじゃない?
はじめて会ったとき、フェシスは自分のことを完璧なシステムだと言った。素直に認めたくはないのだけれど、ついうなずいてしまいたくなるような有能さだ。
「お気に召していただけましたか? あなたの好きなものがわからなかったので、とりあえずレイリーの好きだったものを作ってみたのですが」
はじめて聞く名前に、ヴァレリーは首をかしげた。
「レイリー?」
「一番初めのあなたです。あなたと同じ遺伝子を持つ人間です」
おそらくはヴァレリーの大元になったクローンのことだ。一番初めという言葉はインサイドでもよく使われる。一番初め、つまりクローンでない、オリジナルの人間だということだ。
……自分がクローンだって知ったときから、オリジナルでないということはわかっていたつもりだけど。
ヴァレリーは顔をしかめてフォークをレタスに刺す。ざくっ、と音がしたのに気付かないふりをして、何度もフォークで刺した。
「同じ遺伝子だと言っても、あなたに開発はできません。それは育ち方が違うからです。ヴァレリー、あなたはその分、操縦の能力を開花させた。同じ遺伝子でも、同じようには育たない」
ヴァレリーはようやくフォークを止めて、大きな口を開けた。レタスをほおばると鼻の下にドレッシングが飛んだ。
「ですからヴァレリー、あなたとレイリーは違います」
フェシス、ひょっとして私を慰めようとしてるの?
無表情なフェシスがこちらの様子をうかがっているように見えて、急に愛らしく思えてくるから不思議なものだ。
「レイリー・モーリス博士は、私を作り出した人です。そして最初のファウストを作った人でもあります。だからあなたは、ファウストの操縦に誰よりも長けている」
慰めようとしてくれるのはありがたいけれど、唯一誇れる能力が誰かのおかげだとは、思いたくなかった。
上空から急転直下して雲の下から攻撃する技も? 回転して追尾ミサイル同士をぶつける回避法も?
なんだか気がそがれて仕方がない。隼と誉めそやされているのは自分の大元、レイリー・モーリスで、ヴァレリー・モーリスではないような気がしてくる。
ため息をつくと、フェシスの表情がわずかにこわばった。やはりヴァレリーの気のせいではないらしい。何を言ったらいいか思案している様子が手に取るようにわかった。あまり困らせるのも悪いので、ヴァレリーはわざと脚をぶらぶらとさせた。
「フクザツだなぁ。ご飯はおいしいけど」
「それは……。ありがとうございます」
フェシスが何かを言おうとしてやめる。瞳が水色になったり、黒になったりとせわしない。ヴァーチャル・アウトサイドのすべてを掌握するプログラムは、ヴァレリーの感情を読み取るべきか読み取らざるべきか迷っているらしい。システムらしからぬその様子に、ヴァレリーはふきだした。
「あはは、フェシス、かわいいね」
「あまり、褒められている気がしないのですが」
「いいじゃない。かわいいんだから。でも私の思考を勝手に読むのはやめてね」
「そう言うと思っていました。けれど見なくても、あなたの気持ちを察することができるような気がするのです。もしも私が人間だったなら、伊庭祥子と同じ扱いをされたら気を悪くするでしょう。幸い私はプログラムですから、なんとも思いませんが」
伊庭祥子!
ヴァレリーは我に返る。世間話をしている場合ではない。アウトサイドについてなんでも聞いていいと、代表からもお墨付きをもらっているのだ。
「あのさ、フェシスと祥子さんってどういう関係? 顔、似てるよね。ていうかそっくり」
「祥子は私の命令を実行する下位プログラムです」
下位プログラムという言葉にヴァレリーは目を丸くした。
「ね、どういうこと? 下位プログラムって」
きらきらと目を輝かせたヴァレリーに、フェシスはほんの少し表情を和らげた。微笑んでいると、フェシスは白河陸よりも人間らしく見える。不思議なものだ。
「ヴァーチャル・アウトサイドを監視しているシステムはいくつかあります。巡回型もいれば、観察型のシステムもある。その一つ、インサイド偵察用プログラムが伊庭祥子です。もっと正確に言えば、偵察用システムを搭載したロボットが、インサイドで伊庭祥子と名乗っている。彼女たちの集めた情報はすべて、私の元に届けられます」
誤解のないよう淡々と、しかしていねいに説明されて、ヴァレリーは何度もうなずいた。そうしている間にも、皿の上の食べ物は着々と減っている。
「ってことは祥子さんは、ロボットだったんだね。フェシスの部下みたいなものなんだ」
「私も祥子も大きなシステムの一部に過ぎません。人体にたとえるなら、私が脳、祥子が目というようなことですね。祥子のスペックがもう少し優秀だったなら、私も高度な要求ができます。そういった意味で残念だと思うことはありますが」
インサイドで出会った祥子の姿が思い出される。ぴんと伸びた背筋に凛とした表情、隙のない身のこなし、どれをとっても優秀に思えてならない。
「優秀じゃないんだ。意外だな」
「一度白河海に改造されていますからね。ときどき暴走するのです」
「なにそれ!」
ヴァレリーは飲んでいたパンプキン・ポタージュをふきだしそうになった。スープ自体がねっとりしていて助かった。さらりとしたスープだったなら、唇から少しくらいはみだしていただろう。
「あいつ、そういうとこあるんだよね。新型ファウストの実験のときもさ、整備不良がいくつもあって、システムエラーとかばんばん出ちゃって大変だった」
それほど時間は経っていないのに、ひどく遠い昔のことのように思えた。
笑っている間はいい。笑い終わったあと、どうしようもなく寂しくなる。
ごまかすようにごちそうさま、と明るく言ってから立ち上がる。ひざの上に散ったパンくずを床に払うと、フェシスが少し苦い顔になった。すぐにほうきを持ちだして掃除をはじめる。
「……ごめん。床汚して」
「いえ、私が好きでやっていることです」
床の板目に沿って規則正しくほうきを動かすフェシスをながめる。瞳は黒い。大丈夫だ、勝手に感情を読み取られることはない。
「……今、フェシスがこうやって世話を焼いてくれるのは、私がレイリーのクローンだから? それとも、代表にでも頼まれた?」
「私の意志です」
黙々と掃除する少女の横顔を眺めながら、ヴァレリーはほんの少しだけ笑った。アウトサイドに味方が一人もいなくても、次第に慣れていくだろう。こうして気にかけてくれる、一見無表情だけれど本当は優しいシステムもいることだし。
ヴァレリーの思いなど知らず、少女はにこりともせず黙々と手を動かし続ける。
それがまた、力いっぱい抱きしめたくなるくらいかわいらしく見えて、ヴァレリーは上機嫌で扉を開けた。陽射しが強くて、一瞬視界が真っ白になった。
「さあ、どこに連れて行ってくれるの?」




