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遠くで黒い日傘が揺れている。熱気が空気を歪ませているらしい。ヴァレリー・モーリスは何もすることがなくて、傘を手にした人影をじっと見た。空気が乾いて、身体中がじっとりと汗ばむ。架空の世界でもこんな質感を得られることに驚きを隠せない。
アウトサイドへの亡命を果たしたヴァレリーは、白河陸から簡単な説明を受けた。そのほとんどがスリープシステム、通称ひつじについての説明だ。
地上の環境は、人間にはあまりにも厳しすぎる。そのため、アウトサイドの人々は架空の世界で生活していた。ひつじと呼ばれる装置の中で眠り、ヴァーチャル・アウトサイドと呼ばれる架空の世界で生きるのである。ずらりと並んだカプセル型の中に、神経接続されたアウトサイドの人々がいる。栄養は管を通って自動的に供給されるし、仕事をするのも眠るのも、全て架空の世界で片付けられる。道理でインサイドから活動が捕捉できないはずだ。
はじめて見たときは違和感を覚えたが、そのうち慣れるのに違いない。なにより、ヴァレリーは嬉しかった。ただ滅びるのを待つだけと言われていたアウトサイドの人々が、どうにかして生きようとしていることが。
ヴァーチャル・アウトサイドに行ったら何をしよう?
胸に期待があふれるのを止めることはできなかった。はしゃいで脚をぶらぶらさせて、アウトサイド代表の白河陸に「ロリ子ちゃんにだけ見えるブランコでもあるのかね」と聞かれるほどだった。
来た。アウトサイドに、ついに来た。
黒い日傘の人影が段々と近づいて大きくなる。若い女性だ。太陽の照り返しで見えなかったのが、小さな銀色のスーツケースだとわかったとき、ヴァレリーはごろごろと地面を転がる車輪の音を聞いた。襟元の開いた黒いブラウスに、赤いリボンタイがだらしなくぶらさがっている。赤いチェックのスカートは膝丈だ。肩でそろえていた黒い髪と、キッと前を見る少女の視線にどうにも見覚えがあって、ヴァレリーは眉をよせた。そうしている間にも、少女はこちらへやってくる。
静かに連続していた少女の動きに、ほころびが生じた。スーツケースが段差のある場所でひっかかったようだ。ヴァレリーは黙って手を貸した。
「メルシー、マドモアゼル」
少女はそう言った。少女を真正面から見つめる。どこかで見たことのある顔をしていた。
「あなたは?」
ヴァレリーの声に、少女は一瞬面食らったように動きを止めた。チェックのスカートの裾が揺れる。
少女の表情はとても静かで穏やかなのに、苦しそうな印象を受けるのはなぜだろう。ヴァレリーは彼女の旅してきた道をふりかえる。どこまでも続く荒涼とした大地は、太陽の熱で揺れていた。
「名前。あなたの」
少女は無言で、ヴァレリーに傘をさしかけた。遠慮せずに入れてもらうことにする。暑くてたまらない。じっとしていても汗がにじんでくる。空気が乾いているから、唇がぱりぱりする。
「あなたが話している言葉は米英地区の言葉でしょうか。私の話していること、わかりますか?」
ヴァレリーがうなずくと、少女はまるで翻訳をしているような言葉使いでつづけた。
「私はフェシスと呼ばれています。あなたは先日アウトサイドに亡命してきた、パイロットのヴァレリー・モーリスですね。352年製クローン人間でアメリカ地区出身。優れた操縦能力でファウスト00Aを操り、隼の異名をとる……上官に従わないばかりか、暴力をふるったことが原因で、先年ボーダー要塞に左遷された」
無茶な上官に従って死ぬのはごめんだと喧嘩したことを思い出して、ヴァレリーは苦虫をかみつぶしたような顔になった。
これほどまでにくわしく知られていると、さすがのヴァレリーも目を丸くせざるをえない。驚きのせいか、喉の奥がかすれてうまく声が出ない。
「驚かないでください。私は誰よりもアウトサイドのひつじでのことを知っています。知らないことはありません。インサイドのことまではわかりませんが、ひつじで眠ったあなたの状態を、私は知っているのです」
言葉に詰まったままのヴァレリーに、フェシスは淡々と告げる。
知らないことはないという言葉は、ヴァレリーにとって魅力的であった。インサイドのこと、アウトサイドのこと、祥子とテイラー主任のこと、それから白河一家のこと。とにかく聞きたいことがたくさんある。
「ひつじの中で、私ほど完璧なシステムはありませんから」
フェシスの黒い瞳がかげった。
この顔、どこかで見たことがある。
唇に指を当てた思案した瞬間、ヴァレリーは理解した。伊庭祥子だ。
ヴァレリーは瞬時に状況を判断して身構える。道は多少でこぼこしているが、大きな障害物はない。万が一隠した銃で攻撃されてもかわせるように、身体の隅々に力をためて警戒する。祥子には、かなり痛い目にあわされている。油断はできない。
少女の黒い瞳が淡い水色に変わった。カリカリと何ごとかの処理を進める音がする。
ヴァレリーは右側に転がって、常に携帯している銃に手をやる。ごつごつした鉄の塊が、腰のホルスターにあるはずだったのに、ない。ヴァレリーの手が空を切った瞬間、視界が回転した。身体がふわりと宙を浮いて、つづけて衝撃がやってくる。
「いったぁ」
痛みに細めた目を開けると、フェシスは黒い傘をヴァレリーに向けていた。とがった日傘の先は、いつでも喉を突けるだろう。ヴァレリーは即座に両手を上げる。てのひらについた砂が、ぱらぱらと落ちた。
「私ってファウストがないと何もできないな。まったく、やんなっちゃう」
自嘲する声を受けて、フェシスが構えた傘を下ろす。
「ひつじの中で私に勝とうと思うのがそもそもの間違いです。私はひつじ内のすべてに接続できる。それはつまり、空気の流れや、音や湿度の微妙な変化も認識できるということです」
「すごいのね」
フェシスの警戒がとけたのを察知して、じりじりと距離を保つ。
「あなたが警戒するのも無理からぬことです。しかし、その心配はいりません。あなたが私に危害を及ぼそうとしない限り、攻撃を加えるようなことはしません。約束します。だから検閲を許可してください。私はそのために、あなたのところに来たのです」
「けんえつ?」
ヴァレリーはわずかにめまいを覚えて岩に手をついた。頭上で黒い傘が広がる。フェシスが日影を作ってくれたのだ。思わず感謝して、次の瞬間には恐怖で全身の毛穴が開いた。フェシスは音もなく、一瞬で近付いてきたのだ。
「アウトサイドの太陽は熾烈です。熱中症はひつじの中でも起こりますから気をつけて」
警告音が鳴る。耳のすぐそばで聞こえるような気がするのに、遠くの音のようにも聞こえる。
《ヴァーチャル・アウトサイド中枢部フェシス・システムより、仮想人格ヴァレリー・モーリスへ接続開始》
警告音に混ざって聞こえた声に、ヴァレリーは目を丸くした。
眼前に小さな窓が現れる。赤い縁取りの窓には、イエスとノーのボタンがついている。
《接続を許可しますか──》
そんなの、ノーに決まってるじゃない!
心を決めた途端、ボタンに触れる前に窓が閉じた。すぐに次の窓が開く。
《検閲の許可が下りませんでした。再度接続をしてください》
画面にボタンは一つしかない。認識した瞬間に、先ほどと同じ「接続開始」と記した窓が開いた。何度ノーを押しても次から次へと同じ窓が開いて再接続を試みる。
「やってくれるじゃない」
顔を上げてにらみつける。フェシスは首を左右に振った。
「アウトサイドに入るためには検閲が必要なのです」
ヴァレリーは奥歯を噛みしめて、フェシスをにらみつける。
伊庭祥子に記憶を操作されて、今まで当然だと思っていたことがヴァレリーの中で確かに変わっていた。
子供の頃、本当は友達のお菓子を食べたのに、食べていないと嘘をついたこと。教育施設で出会った素敵な先生へのちょっとした憧れ。クリスマスに年上のおしゃれな女の子にこっそりもらった香水の空き瓶。どれもがヴァレリーだけの記憶のはずだった。
記憶検査のあとに育児施設にいる親代わりの先生に叱られ、憧れの先生には思いを告げる前にふられた。香水の瓶は割れると危ないからと取り上げられた。インサイドでは、小さな秘密を持つことすら許されない。
「いやよ! 頭の中を他人に見せたりするもんですか!」
「私はアウトサイドのシステムを保守しなくてはなりません。あなたがもしもウイルスに感染していて、それがヴァーチャル・アウトサイド全土に広がったら、大変なことになります。そうならぬよう、アウトサイドの国民を検閲するのが私たちシステムの仕事です」
私たち、という言葉が癪に障る。こういったシステムはいくつもあるのだと暗に知らせている。フェシスから逃げても、また別のシステムが追いかけてくるということだろう。
「いやだったら!」
もう何度窓を閉じたかわからない。いらついて叫んだところで、すべての窓が消えた。思わず前のめりになる。瞬間、今までのものとは違う警告音が頭の中に響いた。
《仮想人格ヴァレリー・モーリスは、フェシス・システムにより拒否されました。神経接続を切断します――》
音声が終わると同時に、ぶつ、と強烈な音がした。ヴァレリーに見える世界が目まぐるしく変わる。普通の人なら画面酔いするだろうが、パイロットであるヴァレリーは身体にしみこんだ習慣を発揮して、はね起きた。ずらりと並んだカプセル型のベッドが、ところ狭しと並んでいる。傍に眼帯の男が立っていた。アウトサイド初代代表、白河陸だ。
「やあ、おはよう。寝顔もやっぱりロリ子ちゃんだね」
「代表、三回くらい死んできて」
「ヨダレが垂れていたよ」
「この私がヨダレ? ありえない」
カプセル型のベッドから起きだそうと身をのりだす。枕に触れたてのひらが湿ったのに気付いた。ヴァレリーの頬が赤くなる。乙女に本当のことを言うなんてあんまりだ、と白河陸をにらんだ。
「そもそも僕が死んだらアウトサイドとインサイドが全面戦争になるじゃないか」
白河陸は、先ほどから無表情である。表情がないために何を考えているのかわからないが、声だけは相変わらずまぬけだ。
「全面戦争? じゃああなたが起こしてるのは何よ?」
ヴァレリーはぐい、と口の周りを袖でぬぐって陸をにらみつける。
「うむ、質問ごもっとも。僕がしているのは、まあ、確かに全面戦争と言えなくもない、ような気が、するのだけれど」
「歯切れ悪ッ」
ベッドから下りようとして、ヴァレリーは頭をかがめる。座っていたのはボーダー要塞にあるいつものベッドではなく、楕円形のカプセルだ。嫌が応にも、自分がアウトサイドにいるのだということを思い知らされる。
「亡命初日、気分はどう? ひつじに入った割にはすぐに戻ってきたけど」
身長の低いヴァレリーは、横に並ぶと陸を見上げる格好になる。そのことも、ヴァレリーの癇に障った。ますます不機嫌になってしまう。
「代表、あなた変なシステムがあること、私に話さなかったでしょ」
「変?」
わずかに目を丸くした陸の襟元を、ヴァレリーはぐいとつかんで引き寄せる。
「しらばっくれないで、フェシスっていうのがいた!」
「……君、もしかして検閲を拒否したのか」
胸倉をつかまれた陸が顔を向けた先には、大きな液晶画面がある。何分割かされた画面の中には、ヴァーチャル・アウトサイドの様子が映されている。その中の一つに映った黒い髪の少女が、こくりとうなずいた。
「検閲を受けてもらわなきゃ、アウトサイド政府として君の亡命を受け入れることができないんだよ。インサイダーからの亡命者は大抵記憶の検閲に慣れているから、すぐに馴染んでくれるんだけどな。君、実はインサイダーではなくて、火星人だとかおばけだとかいうことはないのかい」
「こちとらちゃきちゃきのインサイダーっ子よ! 育ちはあんまりよくないけどね!」
真面目な顔をしていた陸の頬が、極端にゆるむ。似ても似つかないのに、ふとした拍子に白河海を思い出してしまう。ヴァレリーの亡命を手助けしてくれた白河海は無事だろうか。ハッキングはおろか通信傍受までして、インサイド政府に目をつけられないはずがない。
肩をふるわせて笑っている代表に、ヴァレリーは正拳突きをお見舞いした。拳が触れた瞬間、涙が出るかと思った。
──わたしは、ひとりだ。
インサイダーでもなければアウトサイダーでもない。ボーダー要塞には白河海がいた。整備班のような顔見知りの連中もいた。けれどここには誰一人として、これまでのヴァレリー・モーリスを知る者はいない。あまりに孤独で、あまりに心細かった。
陸は無神経なほど腹を抱えて笑い転げている。ヴァレリーはどんどん気が滅入るのを抑えこみながら、不機嫌な顔を作って叫んだ。
「ただのインサイダーと一緒にしないでよね。こちとらエースパイロットよ!」
「ロリ子ちゃん、すさまじく荒い運転だったものねえ」
ひとしきり笑ったあと、陸は並んだベッド……ひつじの間をすりぬけるようにして、液晶画面の前に移動した。陸が背を向けた途端、涙がにじんだ。味方などいない。誰が敵かすらわからない。
黒い髪の少女は、画面の中から陸を見つめたままでいた。指示を待っているのに違いない。
「フェシス、このままではロリ子ちゃんも納得いかないはずだ。ひとつ、交換条件というのはどうだろう」
陸の提案に、フェシスは思い切り眉をひそめ、ヴァレリーは目を丸くした。




