タペストリー
「どうされましたかな?」
タペストリーの前で立ち止まったエリカの表情を読むように、大司教は声をかけてきた。
「いえ、あまりに見事な刺繍なので、驚いてしまって…それにとても大きいのですね」
驚きを悟られないようにエリカは大司教ににこりと笑った。
タペストリーは大型のテレビくらいの大きさで、専用の大型刺繍台にはまっていた。
タペストリーの図案は優しげな女性の周りにユニコーンや妖精達が戯れる穏やかな場面だ。だが、タペストリーの端の方はまだ布地に線が引いてあり未完成だった。
エリカは刺繍の図案とは相反する警告文には触れずに、なるべく自然な口調になるように気をつけて大司教に答えた。
「こちらは先ほどお話した聖女ミネルヴァ様のお作りになったタペストリーです。ミネルヴァ様はこのタペストリーに刺繍を刺される事に晩年力を注いでおいでだったと記録に残っております。その後、幾人かの聖女様が刺し加えております。残念ながらまだ未完成ではありますが」
本来タペストリーは織物であるが、このタペストリーは全て刺繍でつくられている。
ーなに…これ…
見つめたタペストリーのあちこちから不穏な文字が浮かび上がってくる驚きを、エリカは大司教に悟られないようにするのが精一杯だった。
「ほ…本当に見事な刺繍ですね。細部まで本当に細かくて…」
エリカは細かい刺繍を見るふりをして、浮かび上がる文字を読んでいった。
「周りの誰も信用してはいけない」
「騙されるな」
「王族に恋をしてはいけない」
「祝福を与えすぎてはいけない」
「この国から逃げて」
「貴女に神のご加護がありますように」
浮かび上がる文字は他の模様に馴染むように崩した筆記体で刺され、草花の蔓や服の模様に紛れ込ませてあった。
ーこれ…ラテン語?
エリカは少しだけラテン語に触れたことがある。浮かび上がった日本語の下にかつて見た単語を見つけた。
大学生の時に、母から「少し知ってると言うと扱いが違うから」とほんの基本だけ手ほどきを受けたが、難しすぎてすぐに放り出した言語だ。
エリカの母は通訳者で仕事を通じてドイツ人の父と知り合った。その母の影響でエリカも大学で英語を学んだが就職にはあまり役に立たなかった。
少し読み書きが得意でも、エリカは母のようなコミュニケーションおばけではない。スピーキングが苦手だったエリカは就職の面接で普段の半分も実力を発揮できず正社員は諦めたのだ。
派遣では逆にそれが役に立ち、商社の書類をメインに扱う営業サポートとしての仕事にはありつけていたのは皮肉である。
ーどういう事? こんな手の込んだ事をしてまでこっそり伝えたいって…。この国から逃げてって、聖女って大事にされる存在じゃないの?
浮かび上がる文字に頭が混乱していたら、大司教がこほんと咳払いをした。
「ところでエリカ様は、このタペストリーの上部の文字は読めますでしょうか?」
大司教はにこりと笑うと、上部にある旗のような部分…「これが読めるなら口を噤んで」の所を指差した。
「え? も…文字ですか?」
大司教の試すような質問にどきりとしながらも、エリカはタペストリーに綴られた警告文達に従って口を噤む。
「いえ、読めません。私の国の文字とは違うものだとはわかりますが…申し訳ありません」
「そうですか…。いえ、お気になさらずに」
残念そうにする大司教にエリカは疑問をぶつけた。
「あの、聖女ミネルヴァ様はこれは文字だと言われていたんですか?」
「いえ、幸運の文様だと言われたと記録に残っています。私は文字だと思っているのですが…」
そう言ってチラリと大司教はエリカを見るが、エリカは黙って下を向いた。
ー確かにエリカ様の書かれる文字は、過去の聖女様方と似ても似つかない文字だったな。
大司教はエリカが今まで解明できていなかった聖女達の文字が読めれば、自分の代で解明できるかもと密かに期待していた。
聖女達の書く文字は未だ解明されていない。そもそも文字がまともに読み書きできたのは3人だけで、書き残した物も少なかったからだ。
「よろしければ他の聖女様の書き残した物をご覧いただけますか? もしかしたら読めるものがあるかもしれません」
大司教は僅かな可能性にかけて3冊の本と紙挟みが並べられた長机へとエリカを誘い、穏やかな微笑みながらエリカに椅子を勧めると、自分もテーブルの端の方に座った。
エリカは椅子に腰掛けると、まずは紙挟みから手にとった。数枚ある紙には、たどたどしい単語が一行書かれているものが殆どだった。
それらからは文字が浮かび上がってこずエリカには読めなかったが、右上に書かれたこの国の文字でその単語が女性名だとわかった。
「聖女様達は読み書きのできない方が多く、書けてもご自分の名前だけという方々もいらっしゃいました」
「それがこちらの?」
「はい。読み書きが堪能だった聖女様は3名だけでしたが、それぞれの言葉が違うと仰って他の方の書かれたものは読めなかったと記録に残っております。が、エリカ様はどうでしょうか」
「私も読めません。私のいた世界ではたくさんの国があり言葉もそれぞれに違います」
「では、どのようにして言葉の違うの国と意思疎通をするのですか」
「通訳と言って相手国の言葉を理解して訳する職業の人がいました。私のいた世界では文字を訳してくれる道具があり、他国の言葉がわからなくてもそれを使って簡単な意思疎通はできていました」
この世界では1つの共通の言語を使っていて、他国の人間も同じ言葉を使うので通訳という概念がない。
それが聖女達が残した文字の解読ができなかった大きな原因であった。そして、3人の聖女達も「もう帰れないのですから」と、周りに自分の母国語を教えなかったと記録にあった。
「ジュダス王子にお話された魔法箱ですね」
「はい」
エリカはジュダスに元いた世界の話をした時に、パソコンやスマホの事を遠くの人と話ができたり手紙のやり取りをする道具として話をしていた。
ジュダスはどういう仕組みなのかと詳しく聞きたがったが、エリカは機械にそう詳しくない。パソコンもスマホも仕事道具で生活必需品だか、だからといってシステムに詳しいわけではないので、ジュダスには魔法の道具と説明して詳しい構造の説明は省いていたのだ。
こちらの世界に持ってきたスマホは電源ボタンを押しても動かなかったので、今もバックに入れたままにしている。
「こちらが聖女ミネルヴァ様の残された書付けです。もしかしたら日記かもしれません」
そう言って大司教が指し示したのは古い革表紙の薄い立派なノートだった。
エリカはそっとノートを開いた。
日記かもと言われたが、多分違う。日付もないし書きかけて途中でやめてしまったページもあるし、数枚とんで書き始めているページもある。
ー少しでも言葉を知っていると読めるのね。
ミネルヴァの使っていた言葉は古いドイツ語なんだと思った。エリカは父の母国の事を知りたくて少しドイツ語は齧った事があるからだ。
ミネルヴァは貴族令嬢だったのだろうか、文字は整った美しいブロック体で書かれている。
最初の方のページには「帰りたい」「悲しい」「なぜ私が呼ばれたのか」と恐ろしく古めかしい文体と詩的なというかわかりにくい表現で書かれていたが、最後の方は諦めの文章になり、ノートの半分は白紙であった。
「どうでしょうか」
ノートを閉じたエリカに、探るような目の大司教が優しく声をかける。
「いえ、読めるかと思って最後まで見ましたが、読めませんでした」
「では…こちらの聖女ジョルジャと聖女エリザベスのものもご覧ください」
大司教に指し示された2冊のノートをエリカは勧められるがまま手にとった。
ジョルジャのノートは多分イタリア語だ。エリカは全くイタリア語はわからないが丁寧に目を通す。やはり少しでもイタリア語が読めないと文字が浮かんでこないようで、文字は浮かんでこない。
聖女エリザベスのノートは英語で書かれていた。やはり美しい文字で書かれているが、古めかしい文体でミネルヴァと同じような嘆きの文章が並んでいた。
そしてエリカは彼女達の日記に共通の特徴があるのに気がついた。
3冊ともブロック体で書かれているのだ。
ー普通日記やメモなら筆記体で書くんじゃないかしら。お母さんもちょっとしたメモは筆記体で書いていたし…。
「やはり読めませんか?」
「あ、はい」
「3人の聖女様方の残された1つ1つの文字は同じ形のものなのですが、お互い読めないと言うことはあるのですか?」
「はい、同じ文字を使っても国により単語の読み方や意味が違い場合があります。また時代によって変化したりします」
「時代によっても? ふむ、どの国も同じ言葉ではないとは…、聖女様方の世界は難儀なことですね」
少し忌々しそうに大司教は呟く。
ー同じ言葉…。
エリカの頭に1つの仮説が浮かんだ。
「あの、この3人の聖女様方はいつ頃こちらに来られたのですか?」
「ミネルヴァ様は500年ほど前、ジョルジャ様は400年、エリザベス様は300年ほど前と記録されております」
「そうなんですね」
そう言ってエリカはノートを閉じた。
タペストリー イメージ
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