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第32話 推し活のつもりが、世界一愛される妻になりました!

 あの大聖堂での伝説の結婚式から、数年後。


 私は現在、前世の社畜時代からは想像もつかないほど、たいへん満たされた日々を送っている。


 どのくらい満たされているかというと――朝、深い眠りから目が覚めた瞬間に、王国最強の顔面偏差値(最愛の推し)が、鼻先が触れるほどの至近距離にあるくらいには、致死量レベルで満たされている。


「……近いです」


 寝起き一番、私はシーツの波の中からそう呟いた。


 なぜなら、私の夫であるクロード様が、結婚して数年経つ今日も、当然のように私の体を分厚い腕の中へ完全に閉じ込めたまま眠っていたからである。


 いや、眠っていた、ではない。

 たぶん、絶対に起きている。

 この方は私が目を覚ます微かな気配や呼吸の変化に異常に敏感なので、高確率でもう意識はある。というか、さっきから私を見る気配を感じる。


「起きているなら、お返事をいただけますか」

「起きている」

「やはり」

「何だ」

「距離が近いです」

「今さらだろう」

「そうなのですが、毎朝毎朝、新鮮に心臓に悪いのです!」


 すると、私の頭上で、低く落ち着いた声がくくっ、と小さく息を吐いた。


 呆れているのではない。たぶん、私が照れているのが分かって少しだけ笑っている。

 何年経っても、この方はこういう意地悪なところがずるい。


 私は抗議を諦めて、むにゃっと夫の硬い胸元へ熱い頬を押しつけた。


 あたたかい。ひどく落ち着く。

 落ち着くのだけれど、相変わらず顔が良すぎて、私の限界オタク心は毎朝新鮮な刺激で物理的に殴られる。


 そう。

 結婚して何年経とうが、どれだけ甘やかされようが、私の推しは、やっぱり圧倒的に尊いのである。


 ◇ ◇ ◇


「ルシエラ様、本日もたいへんお美しゅうございます。女神のようです」

「ありがとうございます。皆様のおかげです」


 朝の支度を丁寧に整えていただきながら、私は大きな窓の外へ目を向ける。


 陽光に照らされてキラキラと輝く広大な中庭。

 専属の庭師によって完璧に手入れの行き届いた、季節の花壇。

 頬を撫でる穏やかな風。

 遠くから聞こえる、屋敷の使用人さんたちの和やかで楽しげな笑い声。


 平和だ。

 たいへん、圧倒的に平和である。


 前世のブラック企業で社畜だった時代、朝といえば「寝坊していないか」「始発の電車に乗れるか」「今日のプレゼン資料は完成していたか」「上司に理不尽に詰められる案件は何件あったか」を、胃を痛めながら絶望とともに確認する時間だった。

 今世の実家の屋根裏部屋でも、「朝から何個仕事を押しつけられるか」「妹の機嫌はどうか」「父に殴られずに済むか」が最重要事項だった。


 それが、今はどうだろう。


 起きたら推し(夫)の腕の中。

 朝食は一流シェフの温かい絶品料理。

 身に纏う服は最高級でやわらかい。

 寝具は雲のようにふかふか。

 誰も私を怒鳴らない。誰も私の魔力を搾取しない。

 しかも、私が少しでもぼんやりしていると、クロード様が即座に「どうした。疲れているのか。寝るか」と光の速さで飛んでくる。


 完璧である。もはや神の国だ。


「……完全にホワイトですねぇ」

「何がだ」


 ちょうど、出仕前の身支度を終えたクロード様が部屋へ入ってきて、当然のようにそう尋ねた。


「私の人生です」

「そうか」

「はい。前世の社畜時代や実家の労働環境からは想像もできない、至れり尽くせりの絶対的なホワイト環境です」

「ならいい」

「よくない意味でもなく、最高で完璧です」

「それなら、明日からはもっと良くする」

「まだこの上に天井があるんですか!?」

「当然だ。お前への環境整備に妥協などない」


 私は思わず、吹き出して笑ってしまった。


 何年経っても、この方は“今が十分幸せなら現状維持”という小市民的な発想を決してしない。

 “ルシエラをもっと幸せにするにはどうするか”を、国家予算レベルで本気で考える。

 しかも、それを冗談ではなく国宝級の真顔でやる。


 重い。愛の圧がたいへん重い。

 でも、その重さの全部が私への純粋な愛なのだから、どうしようもなく嬉しい。


 ◇ ◇ ◇


 朝食のあと、私は夫の執務室へ向かった。


 向かった、というより――。


「歩けます!」

「駄目だ」

「どうしてですか!? 朝からどこも悪くありませんよ!?」

「昨日、遅くまで街の診療所へ慰問に出ていただろう」

「でも一晩寝たので元気です!」

「元気でも、念のため抱く。お前の体力は信用ならん」

「理屈の力技が強すぎます!」


 そうして結局、私は本日もクロード様に当然のようにお姫様抱っこで運ばれ、執務室へ移動することになった。


 はい、通常運転です。屋敷の皆様も温かい目でスルーしています。


 執務室の最も日当たりの良い窓際には、もうすっかり『私専用』になった極上の長椅子と、温かいお茶と、一口サイズの軽食と、カシミアの膝掛けが完璧に準備されている。

 いや本当に、ここは王国最強の筆頭騎士団長の執務室だろうか。

 どう見ても“最愛の妻を快適に飼育・鑑賞するための最上級休憩区画”である。


「今日の予定は」

「午前は神殿が運営する診療所へ顔を出して、それから孤児院へ少しだけ寄ります」

「少しだけ?」

「少しだけです。本当です」

「何刻だ」

「一刻半くらいでしょうか」

「長い。一刻にしろ」

「交渉が厳しいです!」


 私が反論すると、クロード様はほんの少しだけ心配そうに眉を寄せた。


「無理はするな」

「していません。楽しいですから」

「顔色は」

「良好です」

「手を見せろ」

「えっ」

「お前の魔力の消耗は、まず指先の温度に出る」

「そこまで細かく管理・把握されているのですか!?」

「愛する妻の体調把握は、夫として当然だ」


 そう言って、私の手を当然の権利のように取る。


 大きくて、あたたかくて、剣ダコのある節くれ立った手。

 何年経っても、この無骨な手に大切に触れられるたび、胸の奥が少しだけ熱く、くすぐったくなる。


「……温かい。問題ないな」

「本日の診断終了ですか?」

「ああ」

「本当に便利ですねぇ、世界最強の専属お医者様兼騎士様は……」

「お前の夫だ。他の役職はどうでもいい」

「そこはしっかり主張なさるんですね」

「当然だ。俺の一番のアイデンティティだからな」


 今日も今日とて、推しの愛が海溝より深い。


 ◇ ◇ ◇


 王都の診療所へ行くと、いつものようにたくさんの人が私の訪問を待っていた。


 風邪気味でぐずる子ども。

 働きすぎで肩が上がらない平民のお父さん。

 腰を痛めたおばあさん。

 日々の生活に疲れて眠れないと困っている若いお母さん。


 私は、一人ひとりに優しく手を添えて、少しだけ癒やしのヒールの力を流していく。


「ありがとうございます、ルシエラ様!」

「嘘みたいに肩がすごく軽くなりました!」

「真聖女様に直接診ていただけるなんて……奇跡だわ……!」

「いえいえ、そんな、大したことは――」


 いつものように謙遜して、そこまで言いかけた瞬間。


「大したことだ。世界でルシエラにしかできない」


 背後から、絶対的な威圧感のある低い声が落ちた。


 振り返れば、もちろんそこにはクロード様がいる。

 今日も壁際に立って鋭い目を光らせながら、私が変な男に絡まれないか、無理をしていないか、私のすべてを監視(保護)していたらしい。

 いや、本当にこの方は、どこまで過保護に私を見ているのだろう。


「クロード様」

「何だ」

「患者さんたちの前です。皆さん怖がっていますよ」

「だからだ」

「どういう意味でしょうか」

「お前がまた自分を小さく言うから、事実を訂正した。お前の力は奇跡だ」

「教育的指導が効率的ですね……」

「事実だ」


 そして私は、やっぱり少しだけ照れくさく笑ってしまう。


 そうなのだ。

 私はいまだに、前世からの自己肯定感の低さが抜けきらず、自分のやっていることを「ただのちょっとした疲労回復マッサージです」と言いそうになる。

 でも、そのたびにこの人が、当然みたいに力強く修正してくれる。


 “お前はすごい”

 “お前が癒やした”

 “お前が、この国を救った”


 何度も何度も、愛する人にそう肯定されるうちに。

 ようやく少しずつ、自分でも「私はここにいて、役に立っていいんだ」と、ちゃんと自分の価値を信じられるようになってきた。


 だから私は、最後の患者さんへそっと光のヒールをかけながら、心の中で小さく呟いた。


(今日も推しが、限界突破して尊いです……)


 ええ、相変わらずです。

 妻になっても、私の限界オタクとしての推し活は終わっていないのである。


 むしろ、供給過多で悪化している。


 だって、遠くから隠れて見つめるだけで満足していた頃より。

 今は至近距離で、毎日、朝から晩まで、公式(本人)からの特大の供給があるのだ。

 こんなの、オタクとして正気を保って耐えられるはずがない。


 しかも本人は「何を見ている」とか言いながら、結局、私が見ることを絶対に止めない。

 むしろ最近は、私がじっと見つめて目が合うと、たまに少しだけ甘く口元を緩めたりするのだから、破壊力が狂っている。


 供給が強い。

 たいへんに、致死量レベルで強い。


 ◇ ◇ ◇


 その夜。


 一日の終わりに、私はいつものように、クロード様の大きな腕の中へすっぽりと収まっていた。


 結婚して数年経った今でも、私は毎晩必ずこうして眠る。

 最初は「距離が近いです!」「心臓が持ちません!」「無理です!」と大騒ぎして照れていたけれど、今はもう、この体温と匂いがないと安心して眠れない。


 人間、慣れるものだ。

 ……いや、慣れたというより、彼の重すぎる愛に骨の髄まで『幸せに溶かされた』と言うべきかもしれない。


「ルシエラ」

「はい?」

「今日はどうだった」

「とてもいい一日でした」

「そうか」

「はい。診療所のみなさんもとても元気そうでしたし、屋敷の庭のお花もきれいでしたし、お昼にいただいた料理長さんのお菓子も最高に美味しかったです」

「他は」

「他、ですか?」

「ああ。一番大事なことが抜けている」

「……今日の推しのお顔も、国宝級に尊かったです」

「それは俺のことか」

「今さらですか!?」

「確認だ」

「はい、そうです」

「そうか」


 返事は短いのに、私を抱きしめる腕にこもる力が、少しだけ満足げに強くなる。

 その素直な反応に、私はひっそりと彼の胸元で笑ってしまった。


 ああ、本当に。

 この方は今でも、私に“推し”と謎の単語で呼ばれ、熱烈な感情を向けられるのが嫌ではないのだ。

 むしろ、私が夢中になっているのが伝わって、ちょっと嬉しそうですらある。

 そんな不器用なところも、好きで好きでたまらない。


 私はそっと、クロード様の胸元へ額を寄せた。


「……私、今でもたまに不思議に思うんです」

「何をだ」

「最初はただの、一方的な『推し活』のつもりだったのになぁって」

「それは無理だな」

「即答ですね?」

「最初から無理だ。絶対に成立しない」

「どうしてです?」

「俺が、お前という光を『見つけて』しまったからだ」

「…………」

「見つけた以上、そしてその温かさに触れた以上、二度と俺の腕の中から離す気はなかった」

「重いです」

「知っている。一生背負え」

「でも」

「何だ」

「好きです」

「…………」

「その重さごと、全部。大好きです」


 しばしの沈黙。

 それから、私の額へ、そして唇へ、やわらかく深い口づけが落ちた。


「……俺もだ」

「…………」

「お前を愛している。お前が好きだ」

「……はい」

「世界中の誰よりも、何よりも」

「知っています。痛いほどに」

「俺の愛は、足りるか。俺の愛で満たされているか」

「足りません」

「そうか」

「もっと、たくさんください」

「いくらでもやる。俺の命のすべてをお前にやろう」


 ああ、もう。

 本当に、前世の社畜時代には想像もできない、幸せで、甘くて、ホワイトな人生だ。


 前世の、残業続きで死んだ私が見たら、たぶん嫉妬で泣く。

 今の私も、ちょっとだけ泣きそうになるくらいには、あまりにも幸せだった。


 ブラック企業で心を削られていた日々も。

 実家の屋根裏部屋で、家族に搾取されていた毎日も。

 今となっては、ここへ辿り着くための、ただの長い長い前振りのように思える。


 私はただの推し活のつもりで。

 ただこの人を癒やして、その尊い寝顔を眺めて、遠くからひっそりと彼の幸せを願っているだけでよかったはずなのに。


 気づけば、彼の隣で、世界一愛される妻になっていた。


 人生って、本当に何が起こるか分からない。

 でも、こんな甘すぎる予想外なら、大歓迎だった。


「……クロード様」

「何だ」

「社畜時代には想像もできないホワイトな人生、最高です」

「そうか」

「はい。文句のつけようがありません」

「なら、明日もそうしてやる」

「毎日、最高の記録が更新されるんですね」

「当然だ」


 私はくすっと心から笑って、静かに目を閉じた。


 私を守るあたたかい腕。

 耳元で聞こえる、落ち着く力強い鼓動。

 すぐそばにある、私の最愛の推し。


 もう私は、何も我慢しなくていい。

 ただこの重い愛を受け取って、彼と一緒に笑っていればいいのだ。


 これ以上ないくらい甘くて、あたたかくて、幸せな、私だけの結末だった。



最後までお読みいただきありがとうございます。


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