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身代わり

 葬儀の日、わたしは一度も泣かなかった。それを人は気丈と言ったが、どう思われてもかまわなかった。座布団にすべってこけた弟に面白かったからにっこりしたわたしに、周囲の視線は冷たかった。死者を棺におさめ、死者の部屋だったところに親類は座った。死者も、お坊様も、参列していた人も、みんな横目でわたしを見ている。見られている気がした。涙を待っているのかもしれない、プレッシャーはなかったが、わたしには泣く気はさらさらない。わたしは、かわいそうじゃないのだから。

 棺のなかに花をささげていく。わたしは、汚れた紙粘土の額に親指が触れてびくっとし手を引っ込めた。あまりの冷たさに一瞬、昼間が明るい暗闇になった。病室を思い出した。

 体の向きを変えようとして、声をかけた。でももう返事はない。布団をめくり右足を触ったとき、恐ろしくて声が出なかった。冷たかった。慌てて手に触れてみた。少し冷たかった。病室は寒くもなく、暑くもない。額をさわった。相変わらずのだるそうな微熱があった。わたしはもう、足をさすってあげなかった。


 捧げた花は、白い花だった。凍って霜がついたように、白く見えた。顔をのぞきこむように花を捧げた。わたしは黙読するかのように、黙ったまま、頭の中に声を鳴らしていた。

 さようなら、さようなら。さようなら、さようなら。お母さん、さようなら、さようなら。さようなら、さようなら。わたしのお母さん、さようなら。別れのあいさつは、さようなら。他に何も言う必要はない。何も望んではいけない。期待をしてはいけない。何も言うことはない。

 胸の上にあったドライアイスはなくなっていた。葬儀屋が持ってきたドライアイスを胸に置かれ、布団は盛り上がっていた。その上に小さな刀がのっていた。暑さに遺体が耐えるよう、用意されたドライアイス。もう、本当にいなくなったと思った瞬間。それを見て、すっかり夏ということも、暑さも全部忘れた瞬間。けれど、これは危機的に冷たい。もっと冷たいものがあるのだと、わたしはこわくて泣きそうになった。顔を見たらまた、泣きそうになった。でも違う。泣くのでは解決されない何かがあった。誰かに約束したように、誰かとの約束を固く守るように、泣いてはいけないと、奥歯を噛んだ。

 指を見たら無事だった。でも、わたしは死に触れてしまったから、わたしならここから壊死していくかもしれないと思った。


 火葬場でお骨を拾う。ほとんどやけて、骨らしいものは、ほとんどなかった。あっという間だった。お斎を食べている間に燃やされたのだから。わたしの手をさすった手を探したが、見つからなかった。骨の位置から見ても、すべてが小さく、小さくなっていた。

 わたしの手をさすってこんなこと言うの。「こんな荒れた手をして」って。

 好きでこうなったんじゃない、全部あんたのせいじゃんかって悔しかった。わたしは受けた大学全部おちて、予備校に通うことになった。わたしは行きたくなかった。わたしは死ななかったけど、心は死んでた。死んだも同じよ。家にいたくなかった。離れたかった、まとわりつくような、過去のすべてから。病院と家を往復する毎日。それももう終わった。わたしが本当に死なずにすんだのは、きっと交代したから。ずれていた、わたし達母娘の点。枠からはみ出してずれるのではない、接線を持って、擦れながらずれていた。世の中のバランスを保つため。失敗したわたしが焼かれた。過去のわたしが。わたしの、身代わりになったの?

 帰りのマイクロバスの中で、父は言った。

「不思議らなぁ、これが水になるがぁれや。墓に入って、時間をかけて水になるがぁれや。」

 わたしは死を知った指を見た。水になるなら、と恐怖は少し和らいだが、それもまた恐ろしく感じた。


 少し経ってから、まひろちゃんがおばあちゃんと一緒にお参りに来た。まひろちゃんのおばあちゃんは、生まれてから初めて人と話すような勢いでわたしにねぎらいの言葉をくれた。今はそんな風に思わない。うざったかったなんて思わない。まひろちゃんのおばあちゃんに、わたしは声をかけてあげられなかった。まひろちゃんのおばあちゃんは、こんな風にしてもらいたかっただろうにね。

 まひろちゃんは、笑ってわたしを見ている。わたしも微笑んだ。優しい顔になっていたかな。まひろちゃんのおばあちゃんの膝の上で食べている。それを見て、またわたしは笑いかけた。

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