10話 テイル・シーナ
テイル・シーナ。
それが教官と呼ばれる者の名前である。
テイル一家には、もともと有名な家系が連なっていた。
大富豪然り宮廷魔術師然り、シーナの父母は王都の次に巨大な街『シンバル』のトップとその妻である。
幼少期、彼女には持病があることが判明した。その病気は今でも難病とされ、完全には治せないとされる代表的な心臓の病だった。
兄弟として、上には二人と下にも二人いた。上から順に、カスパル、リノク、シーナ、トゥイタ、エブルという名前を持つ。
持病持ちの体はあまりにも弱く、兄弟四人がすくすく育つ中、シーナだけはベットの上で一日中生活していた。
それでも、その生活はシーナにとってとても心地よかった。なぜなら、両親二人はいつも心配してくれて、そんなにかまってもらえることが嬉しかったからだ。
これがいつまでも続けばいいのにな、と、心の中だけでそう思っていた。
いつもは屋敷の使用人が看病してくれる。伝染る病とは言われておらず、定期的に来る医者も、このまま様子を見てくださいとしか言ってこなかった。
充分な人生を歩んでいた。たとえ動けなくとも、それ以上に相手からこちらへ動いてきてもらえる。父母にはかまってもらえるし、これ以上の幸福はいらなかった。
――それは、シーナが9歳の頃までしか続かなかった。
今でも覚えている。あの夜は、本当にはっきりと鮮明に、絶対に忘れることのない記憶として心に残っている。
今現在でも天災の象徴として有名な、『三大魔獣』の『腐亀』というものが、シーナたちの住むシンバルに接近してきたらしい。
戦いに出た衛兵たちも次々と全滅し、その強さと恐ろしさには誰しもが太刀打ちできなかった。
この街の一番だけあって、父は家来から一刻も早く逃げ出すように懇願されていた。しかし、それを父はもろともせず、自らも戦場に参戦すると言い出した。
いつも口癖のように言っていたが、部下に全部は任せられん、という言葉が父にとってのポリシーだったのだろう。こんなときに誰よりも怖じけず、そして自らを危険に晒させた。
長男はこの時15歳であり、つい数ヶ月前に見習い騎士として仕事を始めていた。父の血を継ぐだけあって、お父様が行かれるのなら、と、その長男までもが戦場に行くことになった。
残る子供三人と母は、この街から一時避難することを決意した。シーナは、体があまり動かせないため逆にここにいたほうがいいと、一人のいつもの使用人とともに留まることを選択した。
それぞれがすぐに行動を起こした。
父と長男は街の外へ、シーナ以外の残りの家族は地下を通って隣の街へ、それぞれがそれぞれのために動き始めた。
隣の街への地下通路は、この屋敷の地下を初めとして遠く長く繋がっている。門の外からはこの街の住民が集まっているため、ありえないほどの騒がしさだった。
窓から外を見ると、遠く暗くよくわからないが、なにが巨大なシルエットがすぐ近くまで迫っていた。屋敷の庭を見ると、そこにはこの街の住民大半が集まってきているようで、それはそれは人がごった返していた。
お父様とお兄様は大丈夫でしょうか。
使用人に問うも、決まって答えは願ってくださいだった。
別に、父親たちが弱いというわけではない。その逆で、この街の指折り戦力とも同等の力は持っていた。
上に立つ者が下の者より弱くては情けないということで、仕事の合間を縫っては稽古、休みの日には外に出て実践という、なんとも街のトップとは思えないほどの生活を繰り広げていたためだ。
――それから、どのくらいの時間がたったのだろう。
シーナと使用人はいつのまにか寝ているようだった。顔を上げると、時計の針がだいぶ進んでいる。
使用人を起こし、あれからどうなったのかを聞き出そうとして違和感を感じる。
あまりにも、静かすぎますね。
そう言うと、使用人もそれに気づいたようだ。見てきます、とだけ伝え、地下の避難経路へと向かっていった。
外を見ると、太陽が登ってきているようだった。
あの巨大なシルエットもなくなっており、大丈夫だったのだろうと安心した。
――それもつかの間、屋敷の下から悲鳴が聞こえた。
何事か、と体を起こそうとするも、体の弱さゆえに立ち上がることができなかった。
動けることのできない以上、そこから動くことも許されない。使用人が登ってくるのを、恐怖とともに待ち続けた。
――紛れもなく、あの悲鳴は使用人の声によるものだった。
何があったのだろうか。そう考えれば考えるほど、恐怖に体が動かなくなる。勝手に手先が震えだし、無意識のうちに歯と歯がこすり合わされる。静寂の一人がこんなにも恐ろしいのだと、この時初めて思い知った。
ドタバタと足音が聞こえ激しく扉が開かれるとともに、そこには真っ青な顔をした使用人が今にも吐き出しそうな状態で立ちすくんでいた。
何があったのですか。
問うも、いっこうに返事は返ってこない。無事を喜ぶよりも、なにがあったのかが気になった。
近くに置いてある車椅子を用意させ、自力で向かうことを選択する。使用人もそれくらいはできるようで、あまりにものろのろとした足取りとともに、シーナの体を車椅子に乗せてくれた。
行かないほうがよろしいかもしれません。
その声はあまりにも情けなく、車椅子まで準備したあとで言われても、行かないとは言うわけがなかった。
車椅子は自分の意思で進むことができる、唯一の道具だった。屋敷にもスロープが完全設備され、どこに向かうことも可能となっている。
地下通路、使用人はそこで何かを見てしまったらしい。
シーナの部屋は最上階の5階のため、スロープを使ってゆっくりゆっくり降りていく。
――階が下がるにつれ、周囲の空気がおかしく感じられた。
わけのわからない感覚だった。空気がおかしいとは何なのだろうか。
鼻で口で息することへ体が無意識に拒絶反応を示し、空気の重さに頭がおかしくなりそうだった。
一階へたどり着くと、この不可思議な現象が手に取るようにわかった。先程までは嗅覚や触覚を蝕んでいたものが、視覚によってわかりやすく表されていた。
――床、壁を伝うように、何色とも言い表せない腐敗物があたりに染み込んでいた。
言葉を失うとはこのことを表すのだろう。あまりの気持ち悪さに、意識が自然とシャットダウンしていく感覚に溺れ始める。
己の心に叱咤し、ついにその地下へと車椅子を進ませる。
――耐えきれず、誤って自らの太ももへと嘔吐してしまった。
惨状が広がっていた。
腐敗物で変色した地下通路。明かりはついているものの、今回の場合は消えていてほしかったと心から願う。
――地下通路を進む街の住民が、幾束も重なるようにして死に倒れていた。
異臭が立ち込め、嘔吐のかかった脚などどうでもよく感じてしまう。
頭から血がなくなっていき、あまりにも真っ白な頭が出来上がってしまっていた。
心はついに粉々に破壊され、力の入らない手では、到底部屋に戻ることも許されない。
――あまりにも、この空間だけが現実離れしていた。
誰がやったのか、誰が殺したのかという問いには、あの魔獣のシルエットしか思い浮かばない。
あの魔獣は、この街すべての人間を殺してしまった。例外なく、まさに天災と呼ばれるように、あの魔獣はこの街を一夜のうちに滅ぼしてしまったのだ。
不思議と怒りは湧いてこなかった。それどころか、シーナの感情というものはこの時に全て抜け落ちたようだった。
それからのことはよくわかっていない。
気がついたときにはベットに寝かされており、誰か話しかけてきたと思っても、何故か脳は働いてくれなかった。
家族は全員死んでしまったらしい。何も考えられない脳でも、その言葉だけははっきりと理解できてしまった。
あの笑顔が、もう二度と見れないのだ。
あの優しさは、もう二度と帰ってこないのだ。
シーナの記憶は、その時を境として、なにも覚えていない。
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次に気付いたとき、目の前にはシワの増えた使用人がいて、壁にもたれるように眠っていた。
よくわからずぼーっとしていると、丁度医者の格好をしたおじいさんが、驚きの顔とともに入ってきた。
気がついたようだね。
おじいさんはそう言うと、シーナからして使用人と反対側へと腰掛けた。
少々動かないでくれ。急に動くと、心臓の傷が開いてしまう。
何をしてよいかわからず立ち上がろうとすると、おじいさんはそう言った。
その言葉に自分の体を見ると、なにやら施術されたあとのように無数の管が繋がれていた。
記憶はない。それこそ、あの日以降のことが全く思い出せない。
あれから何年立ったか、わかるかな。
おじいさんは、私に背を向けて話しだした。
右を向くと使用人がいる。今気付いたが、右手は彼女によって温かく包まれていた。
10年だよ。君は、10年の間ずっと半仮眠状態だった。
最初、何を言っているのかがわからなかった。おじいさんが、それこそ歳のせいでボケてしまっているのではないか、そういう考えが脳裏をよぎった。
信じられないようなら、自分の体を見てみるといい。それが一番わかりやすい。
おじいさんはそう言うと、立ち上がってシーナの毛布を取ってくれた。
見れば、確かに足の先が記憶の数十センチ先に見えている。先程見た胸部も、全く気が付かなかったが、ふくよかなラインがはっきりと見えていた。
鏡も用意してくれたようで見てみると、明らかに成長した自分の顔が見て取れる。
つまり、そういうことなのだ。
話せば長くなるんだがね、
おじいさんは、毛布を再び戻しながらそう切り出した。
心臓の持病、それとあの事件の影響で、君の体は保たなかった。自らを封鎖することで、生き延びようとしていた。
語りだした口からは、それこそ苦虫でも噛んだかのようで。
それでも病気は進行したよ。調べていくうちに、君の寿命があと僅かだと出てしまった。
顔をしかめる。当時のことでも思い出しているのだろう。
こちらに背を向けて、窓の外をじっと見ていた。
どうにかして助けたい。その考えはみんなおんなじだった。でも、方法がなかった。
隣で寝る使用人が二人の言葉で過去を思い出したかのように、眉間にしわが寄っている。
その時だよ。その使用人が、唯一誰も言わなかった禁断の方法を取ろうと言い出した。
――禁断の方法。
それは知る人ぞ知る有名な話であり、シーナもそれをよく知っている。どんな願いでも叶うだろうと言われ、そのぶん死んでいった者も多くいたらしい。
彼女は凄いね。みんながやめとけと言う中で、誰にも知らせずに一人で向かっていったよ。
彼女を見るも、そんなふうにはとても思えなかった。長い時を一緒に過ごしたシーナにとって、そんなことをする人には見えなかったからだ。
一人で森に入り、一人で塔の中へと入っていったらしい。戦えるわけないのに、彼女は本当に無謀だね。
禁断の方法。それは、塔を登った先にいるという人物に、その願いを叶えてもらうというものだ。
塔の曰くには嘘が混じっている。表向きには金銀財宝という形になっているが、本当のものは、その人物がどんな願いも叶えてくれるというものにある。
なぜ嘘が流されているのか。その理由は、その塔へ向かう馬鹿げた一般人を防ぐためである。
金銀財宝でも、頭の悪い人物たちはよってたかって塔に登る。もちろん失敗して命を落としている。
しかし、どんな願いでも叶うとなれば、それこそ塔には無限の人間が押し寄せるだろう。
そんな人たちを守るため、塔の曰くは嘘が交じる。
本当のものを知るのは、それこそ地位が高い人物のみに限られており、医者もその例外ではない。誰かを助ける行為は重宝されているため、この世界の医者はとても地位が高いものとなっている。
どうやったんだろうね。彼女は両手に赤い結晶を持って、ボロボロの体で帰ってきた。
今隣にいることから、彼女の無事はわかっていた。しかし、その時の時間に居たとしたら、それはどれだけ心配したのかわからない。
わたしに言ってきたよ。この結晶を、シーナ様の心臓と取り替えてください、と。もちろん最初は断ったね。できる保証なんてそもそもないんだし。
心臓を触ると、そこからはなんの鼓動も聞こえない。止まってしまったかのように、『元』心臓のあった位置からはなにも感じられなかった。
それでも、彼女は大丈夫だと訴えた。塔の中でその人物に会ったんだって、そう言ってきたね。
右手が、ぎゅっと握られる感覚がある。
同じように握り返すと、しわの寄っていた眉間がみるみるうちに戻っていった。
保証はなかった。そんなことあるわけないって、わたしはそう言うしかなかった。およそ1200年間誰もなし得なかったものが、どうして急に彼女だけが成功したのだろう、ってね。
おじいさんがこちらをふり返る。
でも彼女は言った。責任は取るから、大丈夫だから、絶対に助けられるから、とね。
彼女を見て、おじいさんはふっと笑う。
そこまで言われちゃやるしかなかったよ。その結晶を譲り受け、君を一生懸命手術した。
手術の結果は、今生きていることから全て分かる。
成功したのだ。
あれは凄いね。君の心臓を摘出すると同時、勝手に結晶が光って君の心臓部分へワープした。もともとそこにいたかのように、堂々と心臓の役割を引き受けてくれたんだ。
確かに、心臓の動きはないが違和感もない。
ここに結晶があると言われても、まったくもって分からない。
取り出した心臓は、塔の中で保存すると言われたらしい。彼女が持ってきた結晶と入れ替わるように、君の心臓は今あの塔の中にある。彼女が持っていってくれた。
心臓の在り処、そんなものを聞いてもよくわからない。たとえ塔の中にあるといっても、今こうして生きているのだから問題はない。
ただ、その心臓はずっと君の結晶と繋がっているらしい。結晶が壊れれば心臓が、心臓が壊れれば結晶も壊れてしまう。
そこだけが問題点なんだけど、とおじいさんは言うも、その問題も大丈夫なようで。
心臓の方は、きちんと塔の者が管理してくれるらしい。その者から言われたと、帰ってきた彼女は言っていた。
右を見ると、未だに眠り続ける彼女がいる。
彼女は凄いね。
再び、おじいさんは同じ言葉を口にした。
起きたとき、きちんとお礼を言ってあげなさい。それが一番大事だから。
おじいさんはそう言うと、この部屋から出ていってしまう。
残されたのは、シーナと使用人の二人きりだった。
ほら、起きてください。
彼女を揺すると、少しずつゆっくりと意識が覚醒していった。
目が開いたとき、驚きの顔を見せるよりも早く、彼女はシーナへ飛びついた。
や、やめてください。そんな赤ん坊みたいな甘え方して。
それでも彼女は離れなかった。
涙を流し嗚咽を漏らし、到底40間近の行動にはとても思えなかった。
ごめんなさいごめんなさいと、彼女は何度も謝ってくる。
何をそんなに謝るんですか。ほら、私は元気ですよ。
そう言うも、彼女は何度も誤り続けた。
なんでも、シーナを止められなかったことを相当悔やんでいるらしい。自分のことで精一杯になり、シーナを地下に行かせてしまったこと。そのせいでシーナが壊れてしまったこと。
そんなことで謝らないでください。あれは自分の判断で行ったことなんですから。
顔を上げさせ、目と目が合う。
涙で溢れるその瞳は、とても綺麗で鮮やかだった。
私もあなたに言いたいことがあるんです。
もらい泣き、とでも言い訳しよう。
シーナの目にも、無数の雫が溢れ始めていた。
どんなに心配かけたか、どんなに危険な目に合わせたか、それは私もわかりません。ずっと記憶がなくなって、今の今までずっと眠り続けていました。
ただ、と続ける。その言葉を言うと同時に、シーナの涙が溢れ出した。
こんな私を助けてくれて、本当にありがとう。
抱擁を交わし、肌と肌の温もりを感じる。
生きている。その実感が、彼女の涙から伝わってくる。
あなたがご無事で何よりです。これからも、よろしくお願いします。
二人の逢瀬は、誰も部屋に入れないというおじいさんの粋なはからいによって、その後三時間も続いていた。
十年という長い年月は、彼女たちの昔話が山のようにあったのだろう。使用人が話し、シーナは笑う。そんな幸せな時間が、その部屋には流れていた。
――使用人が殺されたのは、それはまた別のお話。




