第26話 槍の間合い
畑の端を荒らす獣の始末を頼まれた日、トージャの相棒はフーアンだった。
相手にフーアンを選んだのは、トージャの希望だった。カルドは試験の直前で、ナラは見習いの務めが始まっていた。何より、この仕事には槍の決め手と、森での静かな足が必要だった。その両方を持つのは、彼だった。
畑仕事の邪魔になる中型の獣が、ここ数日、出没していた。退治ではなく、追い払いと、できれば仕留めて食料にすること。守護戦士団の手が試験の準備で薄い今、若い二人で足りる仕事と判断されたのだった。
畑では、農家の老人が二人を迎えた。折れた柵、食い荒らされた根菜。被害は暮らしに直結していた。「若い衆で済まんが、頼む」。フーアンはいつもの軽口の代わりに、真面目な顔で頷いた。頼られる場面では、彼は決してふざけなかった。
森に入ると、フーアンの足取りが変わった。砦の中では気だるげに歩く彼が、森では音もなく進んだ。足場の選び方、枝の避け方、風の読み方。槍の腕だけでなく、この足も、彼の天賦だった。
追跡は、半日がかりだった。畑の端の食害の跡、獣道の深さ、糞の新しさ。トージャの読みでは、獣は群れからはぐれた若い雄で、夕方に水場へ寄ってから畑に出る癖があった。二人は水場と畑の間の獣道に、柴で漏斗を作り、浅い落とし穴と音の出る仕掛けを置いた。フーアンの持ち場は、斜面の下の最後の一点だった。
「お前の罠は、いつも静かだよな」とフーアンは言った。「追い込むのが、本当に上手い」
「決めるのは、そっちの槍だ」
連携の形は、昔から決まっていた。トージャが読み、フーアンが決める。
その途中で、フーアンがふと立ち止まった。「……今、鳥が一羽だけ、変な飛び方をした」。トージャには分からなかった変化を、彼は感じ取っていた。彼の感覚の鋭さは、森の住人のそれとも少し違う、野生に近いものだった。
一度目、二人は失敗した。風向きが変わり、獣に気配を察知されたのだ。逃げる獣を見て、トージャが追う構えを見せたとき、フーアンが静かに止めた。「待て。あいつは、こっちの匂いを覚えた。次は、水場の出口で受ける」。判断は速かった。集中しているときの彼の戦いの頭は、誰よりも冴えていた。
二度目の接触で、獣は、二人の想定より大きな個体だった。畑を荒らしていたのは、牙を持つ中型の獣で、巣穴の近くでは気が立っていた。
獣が漏斗に入ったとき、予想外の動きをした。正面ではなく、柴の壁の弱い側面を破ろうとしたのだ。その瞬間、フーアンが動いた。声もなく、足だけで位置を作り替える。間合いは腕ではなく足で作るという、彼の槍の真骨頂だった。獣の進路は、再び斜面の下へと向けられた。
仕掛けの主役は、トージャの読みと罠だった。だが、決め手はフーアンの槍になった。
逃げ道を塞がれた獣が、斜面の下から突進してきたとき、フーアンは逃げなかった。斜面に足を取り、槍を低く構えた。槍の家に伝わる、大型を受け止めるための型だった。獣の勢いを石突きと地形で殺し、穂先を喉元へ滑らせる。その一連の動きには、一切の迷いがなかった。
獣は倒れた。フーアンは、息一つ乱していなかった。
仕留めた直後、フーアンはまず槍の穂先を丁寧に拭い、曲がりがないか確かめた。調子の悪い日でも、この手入れだけは欠かさないのだという。槍への向き合い方の芯は、彼の天気の外にあった。
仕留めた後の処理も、二人の連携だった。血抜き、解体、運搬の支度。フーアンは文句を言いながらも、手際よく肉を分け、皮を傷つけないように剥いだ。狩りの腕は、仕留める場面だけのものではなかった。
帰り道、沢沿いの分かれ道で、フーアンが言った。「上流の方も、ついでに様子を見ていくか?」。岩棚のある方向だった。トージャは、平静を装って首を振った。「今日は荷が重い。……あっちは大型の縄張りの方だしな」。「だな」とフーアンはあっさり引き下がった。彼は、人の事情に踏み込まない男だった。その優しさに救われながら、トージャの胸には小さな棘が残った。
砦の門では、見張りの戦士が二人を迎えた。「おう、今日のフーアンは真面目だったらしいな」。消息は、畑の老人からもう届いていた。「うるせえ」。フーアンは笑って返したが、まんざらでもない顔だった。真面目な日の彼の仕事は、砦の評判として、確かに積み上がっていた。
持ち帰った素材の一部は、トージャの調合の材料にもなった。獣の脂と胆嚢。彼は長老の教えに従い、性質を見極めるための覚え書きを付けた。狩りの日々は、そのまま彼の学びの日々でもあった。
「……やっぱり、お前の槍はすごいな」
「まあな。今日の俺は、乗ってるからな」
彼が自分で言った通りだった。それが、問題でもあった。
彼の調子の波は、朝の姿にも表れていた。ある朝、トージャは夜明けの訓練場で、黙々と槍の型を繰り返すフーアンを見たことがあった。誰も見ていない場所で、彼は誠実に稽古ができる男だった。だが、それが毎日にはならなかった。
獲物は、被害のあった農家にも分けられた。その家の子どもたちが、フーアンを取り囲んだ。「槍の人、すごい」。彼は得意げに笑い、獣の牙の小さい方を削って、子どもの一人に下げ緒で渡した。人の懐に入る速さも、彼の才能の一つだった。
数日後、二人で訓練場にいた日のフーアンは、別人のように雑だった。
型の稽古の途中で、足運びが乱れる。集中が続かない。彼の師である叔父が、厳しい声を飛ばした。
「フーアン。お前の槍は、天気だ。晴れれば誰にも負けん。だが、曇れば、そこらの新兵にも劣る。……実戦は、お前の機嫌を選んじゃくれんぞ」
実際その日、彼は年下の若手との打ち合いで、一本を取られていた。天気が曇れば、若手にも遅れを取る。それほどの波だった。
フーアンは、槍を止めて、笑って誤魔化した。だが、その笑いの奥に、言い返せない自覚が見えた。
叔父は、稽古の終わりに自ら槍を取り、同じ型をゆっくりと繰り返して見せた。老いても型は崩れていなかった。「槍は、一日の気分で振るもんじゃない。積み重ねた日々が、振るもんだ」。フーアンは、その姿を黙って見ていた。槍への敬意だけは、彼の調子の波の外側に、確かに存在した。
叔父は、トージャにも小声で言った。「あいつは、決めるきっかけが要るだけなんだ。……才能のある奴ほど、選べる先が多くて、迷う」。大人の目は、彼の問題の所在を正確に見ていた。
トージャは知っていた。彼の不安定さは、腕の問題ではなかった。心の置きどころの問題だった。進路を決めかねていること。外の世界への憧れを持て余していること。その迷いが、そのまま槍の調子に出ていた。
その日の帰り、フーアンが言った。
「なあ、トージャ。兵団の人に言われたんだ。お前の足は斥候向きだ、ってさ。選抜のときの、巡回の報告を覚えてたんだと」
「……フーアンの足なら、確かに」
「カルドは試験、ナラは見習い。お前は調合師の道、真っ直ぐだ。……俺だけだな、立ち止まってるのは」
言い方は軽かった。だが、その目は笑っていなかった。
彼の進路の迷いには、外の世界の影もあった。隊商の日々、傭兵に言われた一言は、まだ彼の中で生きていた。「いつか傭兵でもやれる」。彼は笑って、その話を自分から切り上げた。だが、切り上げ方が、冗談のそれではなかったことを、トージャは見ていた。
彼は槍の穂先で、地面に小さな円を描いた。
「槍の間合いは、測れるんだよ。相手との距離も、獣との距離も。……自分の進む先との距離だけが、どうも測れねえ」
トージャは、しばらく考えてから言った。「……測れないのは、まだ測り方を知らないだけだろ。槍だって、最初から間合いが分かったわけじゃない」
フーアンは少し驚いた顔をして、それから笑った。「お前さ、たまに、いいこと言うよな」
「たまに、で悪かったな」
彼の進路は、彼自身のものだった。仲間にできるのは、隣を歩くことまでだった。だが、その隣で、彼の言葉を待つことならできた。
後日、フーアンはまた、見事な槍を見せた。
若手同士の組稽古で、彼は二人掛かりの相手を、間合い一つで捌き切った。稽古を見ていた戦士団の古参が、ぽつりと言った。「あの槍が安定すれば、砦の宝だ」
才能は、疑いようがなかった。足りないのは、才能に日々を委ねる覚悟だけだった。
調子のいい日の稽古の後、フーアンはトージャに槍の足運びの要訣を教えた。「間合いは、腕じゃなくて足で作る」。斜面での体の捌きは、斧を使う彼にも通じた。対人の型の見直しをしていたトージャにとって、それは実地の学びだった。教えるときのフーアンは、驚くほど丁寧で、的確だった。
兵団の斥候の一人も、彼のことを覚えていた。沢の巡回のときの彼の報告は、兵団の詰所でも話題に残っていたという。「あの足と目は、斥候のものだ」。進路の助言は、複数の大人から、静かに彼へ届き始めていた。
その夜、四人で集まった場で、カルドが言った。
カルドは、その夜、少し落ち着かない様子だった。試験を前にした緊張が、指先に出ていた。フーアンはそれを見て、何も言わずに話題を変えた。獲物の分け前の話、子どもの話。空気を軽くするのは、彼の役目であり、優しさの形だった。
「試験が終わったら、四人で狩りに行こうぜ」
「いいね」とナラが言った。「カルドの合格祝いも兼ねてね」。フーアンは笑って、自分の槍を掲げた。「任せとけ。……俺の機嫌のいい日に、な」と、フーアンが言った。
帰りの道で、トージャは考えていた。間合いを測ることは、彼自身の得意でもあった。獣との距離、薬の分量、人との距離。その彼にも、測れないものがあった。仲間の進路までの距離と、少女の秘密を明かせる日までの距離だった。
笑い声の中で、トージャは思った。フーアンとの距離は、いつも近かった。だが、彼にもカルドにも言えない秘密が、今はその距離の中に、小さな影を落としていた。それでも、間合いは、まだ近かった。失くすつもりは、なかったのだ。




