第六十二話 コカトリスは橙色の眼球をギョロリと動かし
闇に呑まれていた俺の意識が、おもむろに浮上し始めた。
きっかけは、すぐ近くで聞こえるけたたましい獣の声。……きっとコカトリスの声だろう。興奮したような調子の声だ。
その声に人の声が混じっている。
時折、何かが爆発するような音も聞こえてくる。
誰かがコカトリスと戦闘を行なっているのだろう……。
そう考えたところで、ハッとした俺の意識は完全に覚醒した。
そうだ。俺はコカトリスの毒をもろにくらって、気を失ったのだ。
人が死ぬほどの毒を浴びて、ピンピンしていることに些か疑念が湧くが、今はそれどころじゃない。
俺が気を失っている間に、何がどうなったかを把握する必要がある。
意識的に目を開けると、視界には霞がかかっていた。
ついで、誰かが顔を覗き込んできた。
後頭部には柔らかい肉と硬い骨のような感触……。
これは俗に言う膝枕というやつでは……と我知らず鼻の下を伸ばしたとき、にわかに嗄れた声が降ってきて俺の肝を無情にも潰した。
「おお、気がつかれましたか?」
俺は現実を直視すべく、まばたきを繰り返す。
嘘であってくれ、と思いながら懸命に瞼を閉じては開く。
そうすると、急に視界がクリアになり、村長の目の中に、絶望したように呆けた顔の自分を見出した。
「ぎぃやあああ」と叫んだ俺は身体を横に、ゴロゴロ丸太のように転がすと、即座に立ちあがって、自身がいた場所に目をやった。
そこには、正座している村長がいて、俺を膝枕していたことは火を見るよりも明らかだった。
後頭部から目に見えない何かを剥がすように、後頭部を激しく掻きむしると、村長は破顔し、顔中を一層皺だらけにした。
「お身体の具合はいかがですか?」
「二人は? コカトリスは?」
気が動転した俺は、村長の問いを無視して、咄嗟にメアとジェルサ、ひいてはコカトリスがどうなったかを、問うた。
と、俺の非礼に眉一つ顰めず、長老は笑みを消し、真剣な面持ちになって、俺の背後を指差した。
顧みると、背後では、柵の中、メアとジェルサがコカトリスと矛を交えていた。
コカトリスを太陽だとすると、公転する惑星のように、メアとジェルサは、忙しなく動いて、コカトリスの隙を窺っているように見受けられた。
威嚇するように翼を大きく広げるコカトリス。メアの両手のひらには煌々と輝く野球ボール台の火の玉があって、ジェルサの両手からは人狼を想起させる長く鋭い鉤爪が伸びており、それが陽光を照り返して黒光りしていた。
加勢しなければ、と思い立ち、俺は即座に、右手の五指のうち人差し指と親指以外を折り、人差し指をコカトリスへと向けた。
すると、コカトリスは橙色の眼球をギョロリと動かし、こちらを鋭く見据えてきた。
直後、コカトリスの口からはまたぞろ紫色の塊が飛び出し、それが俺めがけて一直線に肉薄してきた。
コカトリスに、俺に何か恨みでもあるのか? と問いただしたいところではあったが、代わりに、腹立ち紛れに一撃お見舞いしてやることに決めて、俺は大音声でこう言った。
「くらえ! ウォーターバレット!」
指先に魔法陣が展開され、青い魔力の塊が銃弾よろしく射出される。
ものすごい風切り音を立てて突き進む魔法の弾丸は、間もなくこちらに猛然と迫りくる一塊の毒とぶつかり合い、周囲に飛沫と爆発音とを撒き散らした。
さっきの二の舞を踏まなかったことに、安堵しかけたそのとき、コカトリスが嘴を大きく開く。
嘴の間隙、喉の奥には、外光に照らされた紫色の物体が見えている。
毒だ。またやるつもりか、しっこいやつめ、そう胸裏で独白し、眉を顰めたその刹那、コカトリスが口を閉ざして横転した。
何が起こったのかわからなかった俺は目を凝らして、なんの前触れもなく横臥したコカトリスを見やった。
そうしたところ、コカトリスの側面でジェルサが、クラウチングする陸上選手ような格好になっているのを見いだした。
ジェルサは、脚をばたつかせ、身をよじるコカトリスから、飛び立つ鳥のように跳躍すると、軽やかに空中でもんどりを打って、そのまま体操選手のように地面に着地する。
これが獣人か……と思い、あんぐり口を開けつつその光景を見守っていると、ジェルサの両手の爪から、血糊が滴っていることに気がついた。
そのことを踏まえて、きっとジェルサは、コカトリスの肉をその鋭い爪で抉り、おまけに力任せに押し倒したのだろう、と推察できた。
華奢な体躯にそぐわないジェルサのパワーに瞠目していると、今度は視界に赤い光がちらついた。
その光を認識したとき、コカトリスの身体が炎に包まれ、ごうごうと燃え始めた。
メアがコカトリスに火の玉をぶつけたのだろう。
その証拠に、無手になったメアは満足げにほくそ笑んでいる。
と、断末魔の叫びのような唸り声が耳朶を打った。
耳を押さえつつ、前方を見据えると、火だるまになったコカトリスがいつの間にか立ちあがり、こちらに向かって一目散に接近し始めていた。
柵を突き破ったコカトリスは、絶叫しながら、暴走機関車の如くこちらに迫ってくる。
急なできごとに、どうすべきか、と思い、とにかく、横に飛んで躱そう、と決意したそのとき、メアの叫び声を耳が拾った。
メアは、「撃って!」と叫んできた。
『撃って!』とは、つまり、メアは俺にコカトリスに向かってウォーターバレットを撃ち込め、と言っているのだと思った。
だから、躱わすのはやめにして、先ほどよろしく、人差し指と親指以外を咄嗟に折ったのだが、今度はジェルサの叫び声を耳が拾った。
ジェルサは、「跳べ!」と叫んできた。ジェルサは跳躍して、コカトリスの突進を避けるように言っているのだろう……。
俺は、ウォーターバレットで迎え撃つのをやめて、なんとなくメアではなくジェルサの言うとおりにしてみよう、と考えて、跳躍すべく腰を落とそうとした。
そうすると、今度は背後から叫び声がした。それは、「ひぃぃぃぃぃ! こっちに来るなあ‼︎」という情けない叫びだった。そして、背後に村長がいたことを、はたと思い出す。
つまり、横に移動することも、跳躍することもできない、ということになる。
だから、ここはウォーターバレットで、と考えていると、また叫び声が聞こえた。
(剣で迎え撃て‼︎)
それは聞き覚えのある声だった。耳でとらえた叫びではなく、頭の中で生じた命令口調のその叫び声は、邪竜と対峙したときに頭の中で聞こえた、俺の身体を乗っ取った男の声だった。
俺は思わず口火を切った。
「お前⁉︎ いったいなんなんだ⁉︎」
(いいから剣を取り出せ!)
「誰がお前の言うことなんか聞くか!」
俺は剣を取り出さず、人差し指をコカトリスに向けた。
そうして、ウォーターバレットと魔法名を叫ぼうとした。
ところが、俺の口は、瞬間接着剤で両唇を閉じ合わされたかの如く、開かなかった。
「何⁉︎」と口の中で言ったところで、男の声が脳裏で響く。
(言うとおりにしないのなら、こうだ? どうだ? 参ったか?)
「ふざけんな!」と俺が口腔に不満を反響させると、頭の中で、「がはは!」という磊落な哄笑が響き渡る。
男は、それから、信じられないことを言ってきた。「気づいていないと思うから、特別に教えておいてやる。ウォーターベールは封印させてもらった」と、そう言ったのである。
俺は「……は? ……だから、毒が直撃したのか? 元に戻せ!」と口を閉じたまま言った。
直後、男が言う。
(ふーん、それがものを頼む態度か?)
「いい加減にしろ!」と口の中で言い募ると、「危なああい‼︎」という声がして、俺が、はてな? と思ったその一瞬後、コカトリスの燃え盛る身体は、俺の一歩手前にまで迫っていた。




