:第三話 分厚い殻と柔らかい棘
4月19日。
さすがに四月も下旬になると、道民も春の訪れを実感できるようになってきた。
空は快晴。
頬を撫でる風は穏やかで、気温も日に日に上昇している。
本州の方と比べると遅いが、桜の木もようやく蕾をつけ始めた。
来月には、夏に向けての企画も順次始動していく。
きっと忙しさにかまける内に、茹だるような暑さがお出ましになるんだろう。
悲しいかな、冬の冷え込みが過ぎるせいで、冬見の春はとても短く、儚いのだ。
「(こっちの冬も、一緒に春になってくれりゃあいいのになぁ)」
俺の中だけで話題になっている相良楓くんの様子はというと、相変わらず。
往なされたり避けられたり、虚しい攻防が続いている。
押して駄目なら引いてみるかで、試しに俺から絡みに行くのをやめたこともあった。
そうしたら、寂しがってくれるどころか、ちょっと嬉しそうにしていやがった。
"鬱陶しいストーカー野郎を振り切ってやったぜ"。
とでも言わんばかりの顔は、まるで憑き物がとれたように清々しかった。
思うんだが、あいつは俺が年上ってことを忘れているんじゃなかろうか。
「(せめてもうひとつでも、取っ掛かりがあれば。
ただ待つのも、苦じゃないんだけどなぁ)」
俺のやり方が間違っているのか。
変化を望むのが性急すぎるのか。
待っていればいいと、葵くんは言った。
あれから、まだ二日しか経っていない。
単に俺の堪え性がないということなら、いくらでも我慢するんだけど。
機が熟すまでとは名ばかりに、時間を無駄にしているだけな気がして、不安だ。
**
「───古賀先生、酒井先生。お先に失礼します」
「はーい、お疲れ様でーす」
放課後。午後6時34分。
残業組の古賀先生、酒井先生に別れを告げ、一足先に帰路に就かせてもらうことに。
「そーだ、カナエせんせ。
小田中との練習試合ね、あれ土曜じゃなくて、日曜になったから」
「そうですか。
俺はどっちでも構いませんけど、なにか不都合でも?」
「いやいや、あちらさんの別件と被っちゃっただけ。
時間と場所は同じだから、よろしく頼むね」
「分かりました。お疲れ様です」
「アーイ、お疲れやま~」
三学年の生活指導兼、社会科を受け持つ古賀先生とは、すっかり仲良しだ。
なにせ彼は男子バスケットボール部顧問で、俺も中高とバスケをやっていた身。
同じスポーツを愛する同士、意気投合するのは自然なことだった。
今では、非正規ながら男バスのコーチも任されている。
葛西先生といい古賀先生といい、優しい同僚に囲まれて、たいへんに恵まれた職場環境である。
「先生さよなら~」
「はい、さよなら。
できるだけ人通り多いとこ選んで帰るんだよ」
「はーい」
それにしても、以前の学校に続いて、母校でもコーチを頼まれるとは。
こんな風に努力が報われる日が来るなんて、当時は想像もしなかった。
相良にも何か、バスケに関わる何かがあれば、接点を増やせたかもしれないのに。
あいつ帰宅部だから、結局は俺が能動的に動くしかないんだよな。
「───あ、カナエせんせー!これから帰りー?」
「おう、お疲れさん。
今日は皆より先に上がらせてもらうわ」
「いいなー。
うちら、これから校内ランニングだよ~?」
「試合の後にランニングとか、マジ鬼だよね~」
校舎を出て駐車場へ向かうと、女子テニス部の子たちに遭遇した。
俺を見付けるなり駆け寄って来てくれた三人は、全員3年1組の生徒だ。
彼女ら曰く、帰りのミーティング前に校内ランニングを行うことになったと。
うんざりと肩を竦める姿は、既に疲労感でいっぱいだ。
「はっはっは。
昔の俺と似たようなこと言ってる」
「先生も部活、しんどかったんですか?」
「バスケだっけ?」
「そうそう。
昔は今以上に、モラルもクソもなかったからな。
毎日扱きに扱かれて、ヘロヘロになりながら帰ったもんだよ」
「へー!」
「先生でもそんなになったりするんですね~」
地味な筋トレや体力作りは、目に見えて効果が表れるものではない。
億劫になってしまう気持ちは、よく分かる。
しかし、いざ正念場を迎えて、痛感するのだ。
日々の積み重ねがいかに大事か、己の甘さこそが最大の敵だったと。
理不尽を強いられない範囲でなら、辛くても頑張ってほしい。
「まぁ、無理がない程度に、頑張れ。
帰りは車と不審者に気を付けるんだぞ」
「はーい!また明日~」
「先生も不審者に気を付けるんだぞ〜!」
陽気に手を振りながら、彼女らは持ち場へ戻っていった。
俺は今度こそ駐車場へ向かい、上着のポケットからキーレスキーを取り出した。
「アッ」
自家用車のドアロックを解除した瞬間。
今の今まで失念していたあることが、急に頭に浮かび上がった。
「しまった。
なんも食うモンねーんだった」
ここ数日、帰りが遅かったせいもあって、自炊をできていないのだ。
買い出しもご無沙汰なので、冷蔵庫の中には最早、調味料と飲み物くらいしか残っていない。
久々に定時で上がらせてもらえるんだし、今日こそは自分で作ったメシを食おうと思っていたのに。
運転席に乗り込み、一息ついて思案する。
「(完全に出鼻くじかれたな)」
昨日はコンビニ、一昨日は牛丼屋で、三日前は弁当をテイクアウト。
故にこその自炊のつもりだったが、今から全工程を踏むのは面倒くさい。
迷いどころだが、今夜は自炊はやめておくか。
どこかで適当に外食して、そのついでにスーパーに寄ろう。
材料を用意しておけば、明日こそは家でゆっくり出来るはずだ。
そうと決まればさっそく、店探しだ。
昔馴染みを覗いてみるか、スマホで口コミを調べてみるか。
ふらっと誘われた先で新境地を、なんてのもいいな。
「(こういうノリってあんましないから、たまには良いかもな)」
窓を開け、車を発進させる。
涼しい夜風に当たりつつ、西嶺中学校校舎を後にする。
いざ往かん、まだ知らぬ何とかの飯屋。
目的地を定めずにドライブというのも、気分転換には悪くない。
**
出発から約30分。
ここでもない、ここも違うと、好みの飲食店探しに放浪した末、ようやく目星がついた。
道路沿いに建てられた、古民家風の定食屋。
立地はあまり良くないが、軒先に置かれた行灯看板と、黒一色の外壁が洒落たオーラを醸し出している。
一階が店舗で、二階は恐らく店主の住まいなのだろう。
向かいにある専用の駐車場も、時間帯の割には空きがある。
食事らしい食事をと考えていたし、定食を頂けるなら丁度いい。
ここにしよう。
駐車場に車を停め、"常葉亭"と綴られた暖簾を潜る。
表玄関の引き戸を開くと、和食の芳しい香りが漂ってきた。
「(お、当たりかも)」
格調高そうな外観とは裏腹に、内装は至って庶民的だった。
席数は、四人用の座敷席が八つ、一人用のカウンター席が七つ。
狭すぎず広すぎずな開放感があり、肩肘張らずに済む雰囲気だ。
ここに決めて正解だな。
玄関戸を閉めて店内に入ると、座敷客の注文を取っていた従業員が、ぱっとこちらに振り返った。
「いらっしゃ───、!」
従業員と目が合う。
俺は肩にかけていたショルダーバッグを、床に落としそうになった。
「おまえ、なんでここに……」
相良だ。相良がいる。
水色のバンダナで頭を包み、アメピンで前髪を分けた相良は、花柄のエプロンを身に纏っていた。
手には注文票とボールペンを持ち、顔には端正な営業スマイルを貼り付けている。
いや、貼り付けていた。
俺と目が合うなり崩れた営業スマイルは、みるみるうちに焦りから怒り、やがては苛立ちの表情へと変わっていった。
モノローグを添えるなら、"テメエこそなんでここに"、といったところか。
一体どうなっているんだ。
いや、答えは簡単だ。相良はここで、常葉亭で従業員として働いている。
だからエプロン姿だし、営業スマイルだったし、俺に"こんにちは"ではなく"いらっしゃいませ"と挨拶した。
問題なのは、なぜ相良が"ここにいる"かではなく、相良が"働いている"ということだ。
中学生でアルバイトが禁止なのは、本人も承知しているはず。
誰もが認める優等生の彼が、こうも大きな校則違反を犯すだなんて、意外を通り越して珍事だ。
「───どうした?楓。知り合いのお客さんか?」
二人で見つめ合っていると、店の奥から若い男性が現れた。
男性は相良に近付き、相良の肩に手を載せた。
「あ、───孝太郎さん」
相良のことを"楓"と呼んだ男性は、孝太郎さんというらしい。
暗い茶色の短髪に、涼しげな目元。
背丈は俺より少し低いほどで、体格は俺より遥かに細い。
そして最も印象的なのが、声だ。
若々しい見た目の割に、渋いテノールボイスをしていて、実年齢とのギャップを窺わせる。
相良と似たエプロンを着ているあたり、彼も常葉亭の従業員であるようだ。
相良にとっては同僚、もしくは上司に当たる人物か。
「えと、この人は……」
孝太郎さんに訳を聴かれ、珍しくしどろもどろになる相良。
校則違反の認識は、ちゃんとあるようだ。
「……いらっしゃいませ。
一名様でよろしいですか?」
埒が明かないと判断したか。
相良を庇うように、孝太郎さんが一歩前に出た。
「ぅえ?あ、はい。一名様で───」
「失礼ですが、お客様は彼とお知り合いなのでしょうか」
てっきり門前払いにでもされるかと思いきや。
普通に話し掛けてきた孝太郎さんに、俺の方が困惑してしまった。
ただし、先程のやり取りを無視するつもりもないらしい。
俺と相良はどういう関係なのかと、すかさず言及された。
孝太郎さんの背後では、相良がばつが悪そうに俯いている。
「えっと、───はじめまして。相良くんの学校で教師をしています、叶崎といいます。
ここに来たのは偶然で……。彼が働いているとは、知りませんでした。
事情は分かりませんが、うちの生徒がお世話になってるみたいで、なんか、すいません」
真面目な相良のことだ。
たとえ違反と分かっていても、已むに已まれぬ事情があって、アルバイトをしているのだろう。
だったら、頭ごなしに怒るわけにはいかない。
相良の立場が悪くならないよう、俺は慎重に言葉を選んだ。
すると孝太郎さんの背後で、相良が驚いた反応をした。
「わかりました。
他のお客様のご迷惑になりますので、とりあえず、お席にお通しして構いませんね?」
「へ?」
品定めをする目つきで俺の全身を確認してから、孝太郎さんは笑顔を取り繕った。
冷ややかな無表情からの完璧な笑顔は、却って怖い。
「彼も、うちの大切な戦力ですので。
お話があるのでしたら、もう少し時間を置いて頂けると、こちらとしては助かります」
孝太郎さんに促され、店内を改めて見渡してみる。
ホールで接客業務を行っている従業員は、確かに彼と相良の二人しかいなかった。
俺が駄々をこねれば、店にも先客にも迷惑になってしまう。
「もちろんです。私はなんでも構いません。
普通に客として、空いてる席に通してもらっていいですか?」
「ありがとうございます。
では、お座敷の方にご案内しますね」
孝太郎さんに連れられ、俺は座敷席に足を延ばした。
「すいませーん」
「あ……、はーい!」
片や相良は、先客に呼ばれて対応しに行った。
まだ後ろ髪引かれる様子ではありながらも、もう相良の視界に俺は映っていない。
「ご注文、決まりましたら、俺に声かけてくださいね」
「は、はい」
俺は相良の頑張りを肴に、相良のシフトが終わる時間まで、予定していた定食を頂くことにした。