父の背、士の背
夜も更けたころ、母と弟とは別れ西堂丸と松千代丸は城下の屋敷に下りて行った。
「なんだか、普通じゃなさそうだな。」
「兄上。父上の顔..、俺にはなんだか焦っているように見えた。」
「...大名の覚悟、か...。」
西堂丸は呟いた。
「…兄上?」
「なあ、松千代。武将っていうのはさ、ただ戦うだけじゃなくていろんなものが渦巻いてるんだって誰かが言ってたんだよ。」
「いろんなもの...うん、それは俺も知ってる。目の当たりにしてきた。」
「ああ...人情とか、家臣とか、一族とか。そういうものを背負ってる。父上はそれも含めて戦ってるって考えたら...」
西堂丸は、少し俯いていた顔を上げ少し口角を吊り上げた。
「もう5年もしたら、俺たちも立派な侍だ。父上みたいになれる時もだんだん近づいてきてるんだ!もう子供じゃない、武士の道をもっと駆けていける、大地を、天を駆け抜ける獅子のように!…どうだ?魂が高ぶっては来ないか?」
思っていたこととは違う返答に松千代丸はやや困惑したが、力強い兄の言葉に先ほどまでの気まずい雰囲気がかき消され、灯したままの瞳の炎と大志が再び猛ってきた。
「うん!そうだ、兄上!一緒に駆けましょう!果てしない乱世を!」
えい、えい、おー
えい、えい、おー
えい、えい、おー…
北条家に迫る強大な敵。父がいかに厳しい戦いを繰り広げ、のちに歴史に名を遺すすばらしい勝利を収めるのか彼らはまだ知る由もない。まして、この危機がいかほど北条家を追い詰めているのかすら、少年たちは知らない。だが去り際の父の姿はいつもの戦いとは違って見えたし、氏康が様々なことに思案を巡らせ戦に打って出る。その大名としての威厳ある姿が確かに兄弟の清く澄んだ瞼に強く刻まれたことは紛れもない事実であり、母の強い言葉も北条家の未来を担う若人たちには響くところであった。
兄弟が屋敷に戻ったころ、氏康はある男を呼び寄せ密かに話をしていた。
「孫九郎...すまない、儂がもっと根回しをしておけば…。」
「へっ、兄者。そんな泣き言は聞きたくないな。過ぎてしまったことはもうどうしようもないってわかってるんだろう?今は後悔じゃなくて、腐れ古河公方や両上杉、今川の野郎を叩くっていう気迫が欲しいもんだな。」
北条孫九郎綱成。今川氏に仕えた福島正成(櫛間九郎とも)の子で、父の死後氏康の父、氏綱に仕え氏綱の娘の大頂院を娶ったとされ、氏康の義弟にあたる人物である。
「ああ、そうだな...すまない。そうであった。」
氏康は一呼吸おいて綱成を見つめ言った。
「二方面。まず河東に駿河の今川義元が攻め込んで参った。両上杉...上杉憲政と上杉朝定、そして足利晴氏は奴に唆されたのだろう。」
「晴氏めは氏綱様の娘婿であろう...!やはり代替わりを好機に...!」
綱成は拳を握り締め歯をきりきり言わせた。
「ああ...到底看過できぬ。もう一方面は、それがどうやら5、6万ほどの連合を成して河越城に迫っているそうだ。斥候の報告である。」
それを聞いた綱成は驚愕し、飛び掛かりそうになりながら言った。
「なんだよその数!兄者...まさかとは言わんがそれを引き受けろって魂胆じゃねぇだろうな...?」
氏康は黙って綱成の目を見つめた。
「俺に死ねと言っているようなもんじゃねぇか…酷いぜ兄者。」
氏康は深くまた頭を下げた。
「勝たなくてよい…ただ儂が来るまで守ってくれ…儂の失態を…相すまぬ真似をした…」
氏康が謝るのに肩を震わせながら静かに笑みを浮かべた。
「ふ…ふふ、良いだろう、兄者。この地黄八幡が河越を守ってやろうじゃないか。武人として腕が鳴る!良いだろう!兄者その大任、引き受けてやるさ!誉れよ!勝ちは頂こう!その代わり…戻ったらここで俺の文句をたっぷり聞いてくれよ?」
力強いその言葉に、氏康はそれに呼応し大きくうなずいた。
「儂は河東へ向かう、勝つ術は心得ている。片を付け次第すぐに河越へ向かう。それまで存分に剣を振るえ!死ぬでないぞ!」
「ああ、甘く見てもらっちゃあ困る。兄者も死ぬなよ、民も家族も、必要としているんだから。」
二人は視線を交わし部屋を出、夜はまた更けていった。
翌暁七つ寅の刻、7月上旬。小田原城の門が開き人馬が路を踏みしめる音が静かな城下に鳴り渡る。
「おい松千代、見てみろよ。」
屋敷から西堂丸が指さした先には、三つ鱗の紋の刻まれた旗を掲げ進む部隊が遠くにうっすら見えた。
「うーん...父上は見えぬぅ。」
「はは、遠いからよくわからないな...いつもの出陣と同じ筈だけど、なんか特別に見えるな。」
侍の背中は遠いながらも、大きく見えた。




