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獅子の子  作者: 物部づづ
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駆け出し

北条氏政(ほうじょううじまさ)天文7年(1538)、相模国小田原城、夕暮れ頃。後の三代目当主、北条氏康(ほうじょううじやす)とその正室、瑞渓院殿(ずいけいいんでん)は新しく産まれた赤子を眺めていた。

「氏康様。二人目の子にございますよ。」

瑞渓院は抱えた赤ん坊を穏やかな目で見つめていた。

「めでたい。この赤子も、立派に育つとよいな。」

「ええ。ところで、名は何と名付けられるのですか?」

瑞渓院が尋ねると、氏康は少し間をおいて、はっきりと言った。

「名は…松千代丸(まつちよまる)である。」

「松千代丸...にございますか?」

「左様。松という字...変わらぬ安寧と、我ら北条の通名である千代丸を合わせた名ぞ。」

「ふふ...願っているのですね。」

「我が志は民の安寧だけではない、次代の我が子たちも...」

夜は更けていき、赤子は時折腕の中で(うごめ)いたり、喚いたりした。そんな日から早8年がたった。




松千代丸はすくすくと成長し、朗らかな日々を過ごしていた。しかしこの頃、関東を取り巻く情勢は急速に変化し北条家は未曽有の危機に陥っていた。天文15年(1546)のことである。


後北条氏本城、小田原城の一角。木刀の弾きあう音がカンッ、カンッとこだまする。そこにいる...

「やっ!たぁっ!」

「うぐっ...!はぁ、はぁ、やっぱり兄上には勝てないなぁ…。」

「ふふ、お前も真面目に鍛錬すればすぐに強くなるさ!」

「いつか、いつか兄上より強くなって!俺も父上のような武士になってやるんだ!」

二人の少年。汗だくになって荒い息を吐き地面にへ垂れ込む少し小柄な少年。彼こそが後の北条新九郎氏政、松千代丸である。そしてそんな松千代丸を見下ろす少年が彼の兄で一つ上の長男、西堂丸(せいどうまる)だ。

「はは、お前が父上みたいにだって?そいつは随分と時間がかかりそうだな...!」

「ぜぇ...ぜぇ、兄上だって...!俺の方が先になってみせるさ!うーん…相模の虎とか!強者として天下に松千代様の名を示すんじゃ!」

松千代丸が絞り出すように言葉を発すると、西堂丸はしばらくそれを見つめた後、堪えきれないように噴出した。

「...ぷははっ!虎だって?お前には...そうだな、猫ぐらいが丁度いいんじゃないのか?」

「ね…猫だって!?いわせておけば…」

松千代丸が突っかかると、そこへまだ幼い子供を連れた瑞渓院殿が廊下を通りかかった。先に反応したのは西堂丸の方だった。

「母上...それに、藤菊丸ではないか。」

藤菊丸。氏政たちの弟で、今は4歳。この稚児こそが後に氏政の最大の理解者であり側近となる北条源三氏照その人である。西堂丸が母と弟の方に振り向いているとき、松千代丸は未だ肩で息を吸ったり吐いたりしていた。

「そこまでですよ。また剣の稽古ですか?」

「は、はい!兄上と、ほぼ互角の勝負をしておりました!」

「おいっ!馬鹿言うな、10勝と0勝だろ!」

瑞渓院はふふっ、と微笑み息を漏らした。藤菊丸(ふじきくまる)はぼんやりと口を開けて爽やかな兄と疲労困憊の兄をきょろきょろと見比べている。少し兄弟を見つめていたところで、瑞渓院は再び口を開いた。

「ところで、お前たち。これから少しすると、当家に仕える皆様と父上による評定が行われます。ですからこちらへお出でなさい。参りましょう。」

松千代丸はようやく立ち上がり、兄と顔を見合わせた。

「父上が参るのですか、兄上?」

評定(ひょうじょう)だ。お前も何度か見たことあるだろ、一つしか違わないんだから...」

「あ、そっか。じゃあいつも通り話し合いをされるのか…!」

納得したらしい松千代丸はうんうんと頷き、母親に着いていく。廊下の板を踏む固い音だけが響いていたが、ある時遠くから慌ただしい足音や衣が擦れる音、そして男たちの話し声が聞こえてきた。西堂丸と松千代丸はそんな声に耳を傾けてみることにした。


「北条家は未曽有の危機ぞ...どうやら今川が動いたらしい。」

「今川だけではない、山内、扇谷両上杉まで通じているようだぞ。」

「囲まれておるではないか!よもや武田まで向こうに回っているのではあるまいか!」


兄弟は顔を見交わせた。二人とも、いつもとは様子が違うということをなんとなく子供ながらに察した。

そうこうしているうちに、奥まったところにある一室にたどり着いた。

瑞渓院は襖をあけ、ここで待っているよう告げた。兄弟は少しそわそわした様子だったが、4人は黙ってそこに佇むだけだった。


日が落ちてきた。兄弟が退屈そうに眼を閉じていると、ガラッと襖があく音がして一人の威厳ある男がやってきた。

「父上...!」

二人が声を合わせて発した刹那、

「儂は明日より小田原を発つ、お前たちは母上と弟を頼むぞ。」

そういうとすぐに戸を閉めて出て行ってしまった。その表情には緊張感が漂っており、非常事態であることをまじまじと語っていた。額に刻まれた傷も、どこかいつもより深く大きくみえた。

「...氏康様は北条のお家を背負って戦いに出るのです。」

「北条の...お家を背負う。」

瑞渓院はゆっくりと言い聞かせた。


「良いですか。此度は北条の家が滅びるか滅びないかの瀬戸際。見たでしょう。あの方のお顔を。大名というのは、当主というのは、民を、臣を束ねその命を背負っているものです。それが武士の覚悟であり、求められる志であります。お前たちは北条の次代を担う。西堂丸、そなたは特に次の当主となることでしょうから、よく見ておきなさい。」

「はい!母上!」

「それから松千代丸。」

「は、はい。」


「そなたは兄を支える存在。大名となることはない、と思っておいてよいでしょうが...この戦乱の世を駆け抜ける獅子となりたいならば、父のようになりたいなら、その背中を追い続けなさい。武士の覚悟と勇気をようく見ておくのです。お前ならいつか必ず、強く逞しい侍となれるはずよ。」


松千代丸は大きくうなずき、はい、と返事をした。兄弟の目には光と大志が宿っていた。

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