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ホームに入所できて安心したのもつかの間、問題発生!

(七月十六日)

 母を連れて楠木ホームに。

 車で十五分も掛からない。ちゃんと母を連れて行っておかないと、母は父がどこでどうしているのか把握していないようなのだ。父の認知症は長谷川式の一八まで回復して、母の一七を追い越してしまっていた。逆に母はその一七より今は大分下がっているのではないかと思われる。最近は庭にさえ出ようとせず、週に一度のデイサービスに行く以外、一日中居間で横になってテレビを見ている。一月に嘔吐して寝込んで後は、不思議とそういう症状を起こすことは無くなった。その代わり、体力がめっきり弱ったようで、心臓の不安ばかりを口にし、ますます身体を動かそうともしない。

 ホームに父が入所してからは、洗濯も無くなり月々の費用も安くなったため、随分心に余裕が出来て、私もすっかり安堵してしまった。そうなると、ホームに行くのが億劫になってしまう。左腕はやっと楽に動くようになったが、まだ完全には元に戻っていない。一体、いつになったら完治するのだろう。首肩腰も相変わらずで月二回の整体を続けている。本当は毎週行ったほうがよいらしいが、保険も利かないのにそうそう行けるものではない。

 ホームに入所するときの身元引受人には高崎氏になってもらった。本当にありがたく思う。移った連絡は母の名で兄と優太に葉書を出しておいた。兄たちは松川園にはもう一ヶ月以上行っていないようだった。


(八月四日)

 父は楠木ホームに落ち着いているようだ。近所の夏祭りに連れて行ってもらったとかで、そこでもらったうちわを大事そうに私に見せる。そのうちわが一度無くなって、人がそれを持っていたので取り返してやったと言っている。父から取り上げられた人が何とも気の毒だと思う。松川園でもあったことだが、被害妄想があるように思われる。松川園では自分の電気かみそりを人が勝手に使っていると訴えた。ちゃんと名前も付けていて、スタッフが管理しているんだからと言ったが、納得しなかった。

 父は私をお嫁に出せばよかったという。

(一度は出たんだから、いいじゃない)と思いつつ、「いまさら、もらってくれる人なんかいないよ」と答える。父は自分の死んだ後のことが心配らしい。生活していけるかと問う。独りになれば働くからと答えると、「看護婦にだけは、なりなさんなね」という。その仕事の大変さは分かっているのかと思うとおかしくなる。


(八月十四日)

兄嫁から電話がある。

 いきなり、「お母さんに代わって」という。いつもは黙って母に代わるのだが、今日はそれが出来ない。

 この日、朝から母は調子が悪く、大便が出そうで出ないといって苦しみながらトイレを出たり入ったりしていた。前にもあったことだが、案の定トイレから出たところで倒れこんだ。そこは洗面所で立って顔を洗うスペースしかない。片面に洗面台、三方ドアではさまれた狭いところに倒れこまれては、どうしようもないのだ。年取って体重が軽くなっているとはいえ、大人がぐったりと倒れているのを、硬い板張りと高くなった敷居から力ずくで引っ張り出すわけにもいかず、狭いので抱え上げようにも到底無理だ。苦しい苦しいと手足をときどきばたつかせているが、救急車を呼ばなきゃいけないかなと思いつつ頭の下に座布団を押し込み、ひとまず母の部屋に布団を敷いた。

 すると、自力で這い出してきて、布団に横たわったが、まだ出ないという。何かがないかとしきりに言っているが、何のことだか分からない。たぶん、差し込み便器のことかと思うが、そんなものがあるのを聞いたこともない。仕方がないから、古くなって捨てようかと思っていた洗面器を用意する。浣腸も用意していたが、しばらくして自力で排便したらしい。何とかうまく洗面器にしてくれた。水のようなものと一緒に出ていた。昼食後だったので、その激しい臭いに吐きそうになった。トイレで始末した。差し込み便器を買うまでの間、この洗面器を使おうとトイレの奥に押し込んだ。

 排便した後はけろっと気分が良くはなったらしいが、そのまま布団の中で横になっている。貧血を起こすのか、体力が尽きて倒れこむのか分からないが、父がいた頃もしばしばあったらしい。私は三回目の経験だ。

そんなことがあったその日の電話である。

「今具合が悪くて休んでいる」と言ったが、どういう具合なのか、熱があるのかとしつこく聞く。私と兄とがどういう状況になっているのか分かっているくせにと思いながら、母の排便のことを言うのも嫌で黙っていた。

「明日、そちらに行くから」というので、「来てほしくない」と言った。しらばっくれてなぜかと聞くから、この際、はっきりしておこうと思った。

「そちらとは絶交してますから」

すると、「絶交してるって。そこはあなたの家じゃないでしょ」

(あなたの家じゃないって? 他所から来た人に言われたくないわ。娘が実家に戻って親の面倒見て、何が悪い)

「ここは私の実家です」と言うと、ちょっと言葉を呑み込んだ様子。

「親がまだ生きているのに、家を売ろうとする人たちに来てほしくないです」

「売るとは言ってないでしょ」

「折半しようと言いました」

「あのねえ、売り言葉に買い言葉ということがあるでしょう。あなたが先に……」

「言葉ではありません。暴力を振るわれそうになりました。本人に聞きなさい!」と言って、ガチャンと電話を切ってやった。

 心臓は早鐘のように打ち、身体は小刻みに震え、声も震えて上ずるのを必死で抑えながら、それでも最低限のことは言えただろうか。昨年二月のあの日以来、彼らがやってくるかもしれない休日が毎週怖かった。あれ以来、兄が直接電話してくることはなくなったが、兄嫁や未樹が知らぬ体で掛けてくる。そのたびに無言で母に代わることしか出来なかった。彼らが家にやって来るらしいと分かると自分の部屋の雨戸を閉め、ドアを開けられないようにして閉じこもった。まさか、母に乱暴することはないだろうから、私一人彼らが帰るまで息を潜めていた。あの捨てぜりふが耳に甦る。

「話し合いには応じろよ」

 今度は何を企んで言ってくるのか。ドアを叩いて引きずり出そうとでもすれば、私は一一〇番通報するつもりでいた。それが今日、これまでずっと言いたかった「来てほしくない」という言葉をやっと言えた。これで、彼らが厚かましく家に来ることはなくなるだろうか。毎週休みの日におびえて過ごすことはなくなるだろうか。

 しかし電話を切った後、ストレスが即効で身体に響くというのを思い知った。部屋に戻って座り込み、心臓の高鳴りが静まるのを待っていると、腰にびりびりと電気が走ったようになり、うずくまったまま動けない。このまま起き上がれなくなるのかと思った。最近、ようやく腰は回復したかなと思っていたのに。あの日のことが完全にトラウマになってしまっていて、思い出すたび、どれほど心が傷つき、身体が悲鳴を上げていたことか。もう、誰も来ないでくれ、放っておいてくれと叫びたい。

 しばらくすると、腰痛は引いたが、動悸はまだ治まらない。寝ている母の様子を覗いてみると、身を動かして、気分は良くなったという。何か、電話があっていたようだけどというので、聞いても大丈夫かと気にしつつ、大丈夫そうなので簡単に顛末を話す。

 母はあの日のことを全く覚えていない。今日は話せる状況にないが、いつかまた、一から話さなくてはならない。そのたびに私の心と体はダメージを受けるのだ。私だって、母のように全て忘れたい。忘れて、それで済むものならば。


(八月十五日)

昨晩はなかなか寝付けず、浅い眠りに入ったのは明け方の四時も過ぎたころだったろうか。あれから電話はなかったが、今日は日曜日だ。もしかしたら、彼らが来るかもしれないと思うと、憂鬱な気分になる。部屋に閉じこもる準備をあれこれ考える。

 幸い来ないまま、夕方電話のベルがなった。あちらからの電話に違いなく、母に出てもらう。やっぱりだ。母は昨日自分の具合が悪くなったことを覚えていないらしい。

「あら、そうやったかねえ。寝とったっちゃろうか。いやあ、知らんやったよ」

 何事もなかったかのような元気そうな声で受け答えしている。こんなふうだから、また私が故意に母を電話に出さなかったのではないかと向こうは邪推しているに違いない。

 しかし、最近は兄たちの所業を少し話せば思い出すようになった。やっと、脳の一細胞にしっかり記憶されたのだろうか。向こうの誘いに乗って連れて行かれたら、私はこれこのとおり体調も悪いから、迎えに行けないからね。向こうで入院ということになれば、きっと脳病院か、施設に入れられてしまうよと話すと、分かっていると頷く。そして母が昔、兄を関西の大学に行かせるためにどれだけ働いて仕送りしてやったことかと愚痴を繰り返すのだ。母は無口な父と違い、昔から愚痴や繰り言の多い人だった。あまりに繰り返されると、私も聞くのが嫌になる。

「親として当たり前だと向こうは思ってるでしょうよ」

 それでも、「どんだけ、してやったね」と言い募る。口を閉じてほしくて、つい言わでものことを言う。

「私だって、大学に行きたかったけどね。私は行かせてもらえなかったもんね」

「うん、あんたはね。何もしてやってないけどね」

 母は認めるのだ。たった一人の息子に自分たちの老後を見てもらうつもりだったのか。とにかく、大きな期待をし、頼りにしていたはずだ。

「あんたはしっかりしとったけん。ほっといてもよかったけん」と言い訳のように言う。

 私は高校を卒業後、商社に二年半勤めてお金を貯め、自分で勉強して短大に入学した。おかげで、誰にも頼らない自立心が養われたのかもしれない。

 心の中でつぶやく。

(投資する相手を間違えたね、お母さん)

 彼らはやってこなかった。とにもかくにも、電話だけで済ましたみたいで一安心。ドアのバリケードを取り外す。こんなことがあるたびに私の心身は削られていく。


(八月十九日)

 父のところに毎週行く必要がなくなって、楠木ホームに行くのが間遠になってしまった。しかし、洗濯物が無いということはこんなに楽なものか。それでも、放りっぱなしだと父が拗ねるので様子を見に行く。

 相当腰が悪いらしく、「百叩きじゃ」などと言いながら、腰を叩いてばかりいる。


(九月十日)

 楠木ホームから電話あり。

 父に問題が発生しているらしい。電話口では話したがらなかったが、何事かと思い、強いて聞きだしたところでは、最近父の機嫌が非常に悪く、大声を出し、介護スタッフを困らせているとのこと。詳しくは、来てもらってからというので、母を連れて行ってみた。私の言うことは聞かなくても母の言うことなら聞くかもしれないと思ったのだ。しかし、父の機嫌の悪さはそんな生易しいものではなかった。

 まずは、ケアマネージャーと面談。部屋の明かりをつけるのを嫌がり、先日台風が来たときも真っ暗な中、明かりをつけさせないという。元々、緑内障に白内障で、どうも光がまぶしいらしい。松川園でも父の部屋は四人部屋だったが、昼間も薄いカーテンを引き電気もつけず、常に他の部屋より暗くしてあった。ここ楠木ホームでは、昼間は明かりをつける決まりなのだという。それなのに父がスタッフと言い争いをしながら消してしまい、同室の老人が歯を磨くのに暗くて出来ない。それと、夜はスタッフが少ないのに、父が尿意を催し動き出すので駆けつけると、腰を百回叩くまで待たされるのでスタッフが困っている。更に、父が軍隊のことを持ち出して、同室の老人の階級が自分より下だといって押さえつけているのだという。おかげでその老人が最近は寝たきりになってしまっているのだとケアマネは言った。

「個室ならばいいのですが、ここには個室はないので、今のままでは個室のあるホームに移ってもらうことになります」

 背が高く体格もがっしりとしたそのケアマネは、豊富な経験と揺るぎない信念を持っていることを感じさせる野太い声で言った。

 更に、父はスタッフについての小言をあれこれ言い募るのだという。ずらっと並んで食べさせてもらうのを待っている入所者よりも先に、スタッフが食事をしている。見えるところで歯を磨いている。何もせず、ボーと突っ立って働いていないスタッフがいる。恥ずかしくないのかと。食事をしたり、歯を磨いたりしているのは夜勤明けのスタッフらしいのだが、そんなことは父に分かるはずもない。

 そういえば以前、松川園で父が私に話した事がある。

「あのな、みんなの食べ残しを集めてな。ぐちゃぐちゃにして他の人に食べさせようと。あれは餌じゃ。餌ばやりよったい。そしてな、なーも働かんでボーとしとうもんがおるとぞ。看護婦がな、人が見ようところで上半身脱いで裸になって着替えようとぞ。ふふふん」

 そのときは妙なことを言うと思いながらも、仕方がないことかと聞き流していた。ここでも同じようなことを聞かされた。それを実際スタッフに向かって非難しているらしい。しかし、あの盲目に近いような目で、ちゃんと見えて言っていることだろうかと思う。

「認知症で被害妄想的なところもあるみたいだし、どこまで分かって言っているのかと思うんですが……」

「いいえ、頭ははっきりしていらっしゃいますよ。私たちにも説教されます。お仕事で管理職をなさっていたのでしょう」

「えー? ああ、支店長代理でした。代理ですから、別に大したことでは」

「いいええ。軍隊でもねえ。あの部屋では序列があるようで、同室の方に命令なさっているようです」

「……」

 父のせいで同室の老人が寝たきりになったと言われれば、返す言葉は無い。

 そしてまた、もう一つ、驚くべきことを聞かされた。自己摘便をやっているのだという。

「えっ、何ですか? それ」と聞くと、トイレに行った際、自分で指をお尻に突っ込んで便を取り出すのだという。

 聞いていて、気分が悪くなった。

(何ということだ!)

「スタッフがやめさせようとすると激しく怒り出して、暴言を吐かれます。若いスタッフは怖がって手を引いてしまうんです。衛生上の問題もありますし、娘さんから注意してもらえませんか」

 前の施設からはそんな話は聞いていなかったがと思いつつ、「暴言だけですか? 暴力は振るっていないんですね」と確認すると、「暴力は今のところはありません。あれば即退所です」とはっきりとした口調で言われた。

 横で一緒に聞いている母はどれほどの理解をしているのだろう。

「まあ、迷惑をおかけしてすみませんねえ」とは言っているものの……。ケアマネは母には「仕方ないですよ。病気がさせているんですから」と言っている。

 重い気持ちで母を連れ部屋に行った。ケアマネが、「奥さんと娘さんが来られましたよ」と声を掛けたが、「ああー、何ね!」と完全に挑発的な返事で、ベッドに寝たまま振り向こうともしない。

 私たちに気付くと、早速不平不満を言い募る。

「あのなあ、まぶしいとに、電気はつけるったい。昼間はつけんでよかろうもん。明るうして眠れんとよ」

 確かに、薄いカーテンを閉めているが、部屋は明るい。背丈が百八十センチはあろうかと思うほどの堂々とした体格のケアマネがドアの入り口で腕組みをし、仁王立ちで「電気のことと、それから、カーテンも閉めないように言ってください」と、私が父に注意するのを待っている。

「お偉いさんが来てな。カーテン閉めろとかな、うるさく言うったい」

 ケアマネが「お偉いさんって、私のことでしょうかね」と私に聞く。私は首をすくめた。しばらくは父の不満を聞いてからと思っていたが、ケアマネが怖い顔で突っ立っているので仕方がない。

「お父さん、お世話してもらっている人たちを怒鳴ったら、いかんでしょ」と、少しきつめに言った。

「昼間は明るいものなんだから、無理して眠ろうとしないでいいんじゃない。今度アイマスクを持ってきてあげるから」などと、怒ったり、なだめたり、すかしたりしているとケアマネは満足したのか、居なくなった。しかし、父は不満を言い続け、母は椅子に座ったまま、一言もなく小さくなっている。

「ふん。こんなとこ、おん出てやる」と、父は悪ガキみたいな顔をして言った。

「お父さん、ここを追い出されたら、皆困るでしょ。お母さんもすぐに入院してしまうだろうし、私も死んでしまうわ」

 つい、言ってしまった。体力に自信がなくなってしまっている私は、もう受け止められない。三人ともに共倒れではないか。すると、「わしの方が先に死ぬわ!」と叫んで、父は布団に顔を埋めて、ふて腐れてしまった。

 私は深呼吸をして、言った。

「皆、死ぬときには死ぬよ。生きている間は助け合っていかんとねえ。ごめんね。私に体力があったら、世話してやれるんだけどね」

「あんたは母さんの面倒を見てやんなさい。わしは姥捨て山じゃ」

 父はちょっと考えさせてもらうと言って、それきり黙りこんでしまった。

 それでも、帰ろうとすると、腕時計が止まってしまったから直してとか、シェーバーが動かんから手で剃れるのを持ってきてなどと、首だけ持ち上げて頼みごとをする。いつものように、「また来るからね」と言って、部屋を出た。

「へそを曲げられてしまいました。自己摘便のことは言えませんでした」とケアマネにいうと、姿を消していた間に丁度回診日で来ていた嘱託医に相談したらしく、「前からの習慣だろうから、あまり厳しく言っても仕様がないだろう」と言われたという。

(習慣って?)

 私は、家でもそんなことをしていたのだろうかと首をひねった。

「今度、アイマスクを持ってきますので」とだけ言って帰った。


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