問題を起こす原因は突き止められたものの…
(九月十五日)
楠木ホームにアイマスクを持っていく。相変わらず、もてあまされている状態のようだ。自己摘便に関しては、手袋をさせるようにしたが、スタッフを寄せ付けないようにして、途中で外してしまい、指を突っ込んで更にその指を便器の水で洗って、又突っ込む。それを注意しようとすると、手が付けられないほど大声で怒鳴るのだという。気が遠くなるのを感じてしまうほどのショックを受ける。
「後を追いかけて、触ったところを殺菌して回っていますが、限度がありますから。どうしましょうかねえ。感染症が流行ってもいけないし。ノロウイルスの問題もあるでしょう」というが、そう聞かされても一体私に何ができるというのか。
「でも、前のところで、入所者が利用するトイレに入ったことがありましたけど、カーテンが汚れていました。認知症の高齢者というものは仕方がないことじゃないですか」と言ってみた。
「もちろん、そういうことはあります。しかし、原因になるとはっきりしていることは絶っておかなくてはいけません」
暴言に介護拒否に不潔行為。同室の入所者への威圧的な態度。問題は山ほどあり、すぐにでも出てほしいと言わんばかり……。前の施設では、いつ行っても父の部屋は電気も暗くして、カーテンも閉めてあった。自己摘便の話も聞かなかった。目が行き届かず、見過ごしていたのか。それとも、承知の上で黙って世話してくれていたのか分からないけれど。先日電話で話した、このホームの男性相談員は、「迷惑をお掛けしているようですね」という私に、意外にも「いやー、別にそんなことないですよ」と問題ないかのように言った。それに比べ、元看護師というこのケアマネは厳しすぎるんじゃないのかと、内心反発を感じた。しかし、父への介護がなおざりになっても困るとも思う。そんな弱みを覚えながら、わざと言ってみる。
「こちらで個室は作れないものですか。もう、物置みたいなところでもいいですけど……」ケアマネは顔をしかめ「そんなわけにはいきません」と強くかぶりを振った。
部屋に行って、父にアイマスクを渡す。
「これ、前に私が作ってたの持ってきたよ」と言うと、嬉しそうな顔をした。部屋の電気は付いていない。介護スタッフといたちごっこで、付けたり消したりしているらしい。
「電気消したら、また怒られるよ」と言うと、「よか、よか」と言って、鼻で笑った。
しょうがないねと思っていると、父のほうから例のことを言い出した。
「あのな、尾篭な話やが、トイレでな、手で取りよったい。それが、手袋をつけろと言うんやが、そうしたら棒みたいに硬いやろ。外したら、うるさく言うったい」
「お父さん、そんなにまでしないでいいじゃない」
「いやあ、そうせんとスッキリせん」
「不潔でしょ! そんなことしていたら、病気になるよ! 私、もう帰る」
殊更に不機嫌な顔を見せて、そそくさと部屋を出た。娘が嫌がったと分かったら、反省してやめてくれないかなと少し期待しながら……。
家に帰ると、トイレに行って便座の蓋を開けてみた。便器の深い底にほんのわずかしか水が溜まらない様になっている。
(これじゃ、どう考えても無理だわ)
便座に座って手を突っ込んでその手を洗ってなど、とても出来そうにない。それに、うちの場合、ずっと昔から色付きの芳香消臭剤を使っているので、溜まった水は青緑色をしている。
(習慣だなんて、失礼しちゃうわ!)と、ほっと一安心した。
母が世話になっている地域の包括センターの人にも事情を話し、父が楠木ホームにいられなくなるかも知れず、個室のあるホームを紹介してほしいと依頼した。やっと二ヶ月前に落ち着いたばかりなのに。近くなって、洗濯もしなくて済むようになって、施設費も少し安くなって、松川園と比べ本当に楽になって……。心身ともに限界に来ていた私にとって、天の助けかとまで思っていたのに。ただただ、ため息が出てしまう。
(九月二十日)
楠木ホームから電話あり。
定期健診で父の採血をしたところ、かなり貧血がひどいので、病院に入院したほうがよいらしいという。詳しくは嘱託医に聞いてくれというので電話すると、ヘモグロビン値が異常に低いので検査が必要、また癌の数値が高いようだともいう。
(九月二十一日)
午前十一時半、ホームから嘱託医の浅田病院に入院。
私もその時間に病院に行く。入院手続きをし、過去の病歴などを話し、尊厳死の宣言書も提示した。父は私の顔を見るなり、「迷惑かけたね。金は大丈夫か?」と、部屋の外にも聞こえるほどの大きな声で言う。
お昼の時間になって、父はホールに車椅子で移動。
「貧血らしいからね。うんと、食べんといかんて」と言いながら、まるで飢えた人のようにもりもり食べている。
手続きが終わり、医師からは「検査で一週間くらいの入院と考えています」との話だった。帰り際、父のところに行ってみると、全皿きれいに食べつくすところだった。肩をたたいて、「また、来るね」と言った。
(九月二十二日)
浅田病院より電話。
夜間、睡眠薬を投与していたにもかかわらず、三度ほど起き、トイレに誘導しての排尿の際、ひどい機嫌の悪さで大声を出し暴れたという。
「暴力を振るったのですか」と恐る恐る聞くと、言いにくそうにだが、はっきりと「そうです」と答えた。
そこで、脳のCTを撮ったところ、血腫が発見されたのだ。
「入院して手術をしなければいけません。以前入院したことがあると聞いていた日赤に問い合わせてみましたが、その当時には血腫はなかったそうです。頭を打たれたということはありませんか」
「えっ? いえー。膝折れしたとか、尻餅をついたとかは聞いたことがありましたけど、頭を打った話は聞いたことはないです。高齢な父なのに、どうしても、手術が必要なのでしょうか」と聞くと、女医は言った。
「手術しないと後悔することになりますよ」
日赤ではすぐにでもという緊急性はなさそうだということで、二日後に外来に来てもらえればという話なのだが、それまで当病院で面倒が見られるかどうかと、口ごもりながらも執拗にその女医は訴えた。夜間の父の有様が思いやられた。やむを得ず、「それならば他の病院で受け入れてくれるところはないでしょうか」と聞くと、女医はほっとしたように嬉しそうな声で、「当たってみます」と電話を切った。
南中央病院なら救急で受け入れるとの連絡。私も駆けつける。父は早速、様々な検査を受けていた。今までの状態、既往症を聞かれる。途中、普通は立ち入れない救急の病室の中に引き入れられ、そばに居てくださいと言われた。父を落ち着かせるためらしい。
「病院が嫌いなようですね」と、その看護師は困ったような顔をして言った。
目を瞑り、顔をしかめていた父に呼びかけると、「ああ、綾子か。迷惑かけるね」と言う。私の手作りのアイマスクをしっかり着けて、それを額にずり上げたままだ。
「お父さん、いろいろ検査してくれてるんだから、怒鳴ったりせんとよ」というと、「なーも、怒鳴ったりしよらんよ」と優しげな声で答えた。しかし、それもつかの間、次の検査に連れ出されるときには「ああー、何ね!」と看護師に不機嫌な声を出していた。
検査が終わるまで、冷房の効きすぎる待合室でただ一人、スイッチがどこかにないものかと目で探しながら長いこと待たされた。壁の時計を見ると、五時過ぎている。家に電話して、母に状況を知らせ、遅くなるかもしれないと告げる。
去年の六月、父が脳梗塞の発作で倒れたとき、電話して兄夫婦に来てもらった。検査が終わってICUに移されるまで、待合室で三人一緒に待った。今日はただ一人。父の面倒は意地でも一人で見てやるんだと決意している。
七時も回った頃、やっと終わって、父はICUに運ばれた。ここのICUは全くの出入り禁止だ。小さな会議室みたいな部屋に通され、入院手続きの用紙を書かされた。詳しい既往症を聞かれ、また、パソコンの場面から今の状態の説明を受ける。頭の片側半面に大きな袋状のものが見られた。これが硬膜下血腫だ。去年の脳梗塞の後遺症としての脳の萎縮はあるものの、最近の暴言や奇行はこれが原因だろうという。随分昔から高血圧、動脈硬化があったので、ワーファリンを飲み続けていたが、それが効きすぎていて血腫が大きくなってしまったらしい。これ以上大きくなると危険なので、ワーファリンは止める。血液をサラサラにする注射に変える。いずれ手術が必要となるが、その前に貧血がひどい原因を突き止めなくてはならない。胃の断面では分からなかったので、まだこれから、どこから出血しているのかの詳しい検査が必要だ。貧血が更にひどくなれば輸血が必要になると思われるので、その同意書を書いてほしいと言われた。
父の高齢、慢性心不全、脳梗塞の後遺症、その他いろいろのことを考え合わせて、手術や輸血をすべきなのかどうか。父はもう九十四歳。もう痛い思いをさせなくてもいいんじゃないのか。尊厳死の宣言書はもちろんここでも提出した。
研修中みたいな若い女医が渋面を見せながら、粘り強く書類のサインを迫った。
「うーん。そうですねー。輸血はこれこれの理由で必要です。リスクはあるのはあります。リスクはこれこれです。しかし、手術をするときにも輸血の必要が生じますし、サインはしておいてほしいんですが」
彼女は宣言書のコピーを見ながら、これは宗教的なことですかと聞いた。今の私に宗教は関係ない。ある信仰にすべてを投げ打って命をかけていたのは、もう遠い昔のことだった。ただ、医療の技術や薬の効果しか追いかけていない今の医学に疑念を抱いているのは、信仰からではなく、人の命に対する信念とでもいうものか。私はしかし、説明するのも面倒くさく、そうですと答えた。書類を前に押し黙っている私に、彼女は言った。
「輸血しないと命にかかわりますよ」
更に、言う。
「何もしないということになると、ここに入院している意味もなくなるので、出てもらうことになります」
これではまるで、強迫だ。私は仕方なく、同意書にサインした。自分自身のことならば、はっきり言える。
(私は絶対手術はしません。輸血も受けません)
差し迫った状態になったとき、私はそれを自然のことと受け止めるだろう。近代医学なるものを私は信用していない。しかし、肉親とはいえ、父は別の人間。どんなに年取っていようと、どんなに病状が悪化していようと、どんなことをしてでも生きたいと父自身は思うかもしれない。父の寿命を娘が勝手に決めるわけにもいくまい。
夜の八時も随分過ぎて、やっと家に帰れた。心配して待っていたであろう母と、とりあえず買ってきたお弁当を食べながら、母の気持ちを聞いてみた。母は「もうあの年で手術やらせんでよかろうもん。輸血も何もせんでいいやろう」と、嘆くように言った。
(九月二十四日)
南中央病院に足りないものを持っていくが、ICUには入れず、受付に預ける。遺言書を作るときに世話になり、またホームに入るときに身元引受人になってくれた高崎氏にまた連帯保証人になってもらった。兄に頼みごとをするなんて、金輪際嫌なのだ。兄が居なくても、親の面倒は私が見る。高崎氏に心から感謝!
浅田病院で退院手続き。その後、当座必要なパジャマや下着などを取りに楠木ホームに行く。
山に近いホームの周りは、里よりも早く金木犀が咲きほころび、芳しい香りに包まれていた。ケアマネが驚きの顔で迎えた。あれよあれよという間に連れて行かれて、私たちもビックリするばかりでしたと言った。いつも押し出しの強い彼女が「悪いことを言ってしまった気がして……」と少し反省した風でもあった。この人にせっつかれてではあったけれど、父に私自身も言いたくないことを言ってきたことに胸が押しつぶされそうな後悔を覚える。親を預けている家族としての引け目から、彼らにクレームは出せなかった。本当は父の味方になって、父と一緒に不平不満をぶつけてやりたいくらいだったのに。
(九月二十五日)
南中央病院の女医から電話があり、父の胃カメラの検査をしたいのだがと言ってきた。
「本人に聞いてください。本人がいいと言えば、してください。私のほうはすでに同意書を書いてるんですから」
そう言って電話を切った。肩の荷が下りた気がした。数日散々悩んだ挙句、決めた。もう、父に任せよう。手術をするにしても、輸血をするにしても、本人に任せよう。どちらにせよ、今まで自分が決めたことは人が何と言おうと頑としてやってきた父なのだ。どんなに本人のために良かれと思って言っても、自分が納得しないことに対しては一切聞く耳を持たない人だった。
今までの暮らしの中で、父の頑固さに手を焼いたことも多かった。例えば、朝食はパンだったが、マーガリンをこれでもかとばかり二度も三度も塗りつけては焼き、塗りつけては焼いて食べていた父。塩辛いのは身体に良くないよと言っても聞かず、醤油をザブザブかけていた父。薄味にすると機嫌が悪い父。もう知らない。病気になったら自業自得だ、と腹を立てたことが何度あったろう。人の忠告を聞かないから、案の定、脳梗塞で倒れてしまったではないか。
今回も、父に一番いいのはどうすることだろうと悩んできたが、本人に決めさせればいいんだという結論に達したとき、一人で抱えていた荷物を降ろすことができた。
(九月二十七日)
病院に呼ばれ、父の担当になったという内科医の、やや年配の男性医師から父が胃がんであることを聞く。すでに手遅れとのこと。パソコンの画像を見せられる。胃壁は真っ黒だった。そこに何本かの赤い傷が走っている。ここから、血液がザァーザァーと流れ出していたのがひどい貧血の原因だったのだと。他にも転移があるかもしれないが、胃がん自体末期でもあり、高齢でもあるので、これ以上の検査はできない。そのうち痛みが出てきて、食事が通らなくなるだろうという。
本人に告知するかどうかと聞かれても、どうすればいいか判断できない。母に相談しても、たぶん無理だろう。他に兄弟はと聞かれたが、事情があって絶縁していると答えた。余命ははっきりと断言できないと医師は言った。緩和ケアの病棟はここにはなく、相談員と話し合って探してもらうことになる。数日後にもう一度脳のCTを撮るので、その結果しだいで手術をしてからの転院となるかもしれないとのことだった。
その後相談員との話で何箇所かの候補を挙げ、来月からその見学と面談に行くことになった。去年、佐野病院から施設探しであちこち駆け回った、そんな日々がまた繰り返されるわけだ。ホームに落ち着いて、まだ二ヶ月を過ぎたばかりだというのに。何とか、父が痛みを覚えず、穏やかに余生を過ごしてくれればと願う。しかし、もし手術をしないままで更に暴言や奇行が激しくなったら、緩和ケアの病院に転院できても、また追い出されるのではないかと不安が募る。
それにしても、浅田病院やここの救急で、「手術しなければ後で後悔することになりますよ」、「輸血しなければ命にかかわりますよ」などと脅かされてきたことは一体何だったのだろう。結局、今の医学は何も出来ないんじゃないか。手遅れと分かったら、さっさと見捨てて退院させようとするくせに、あの脅しは一体何だったんだと、心の中に黒いものが渦巻く。
帰って、母にすべてを話す。母は「お父さんも、もう年なんやけん、なあーもせんでいいよー」とただただ繰り返す。
楠木ホームのケアマネに父が癌だったことを電話で伝える。これから緩和ケアの病院を探すことになると言うと「では、退所ということになりますね。癌の告知については、どうされますか」と聞かれたので、まだ思案中だと答えた。すると、彼女はこんな話をした。癌の告知推進派のある偉い医師の話で、医師自身が癌になったとき、周りは躊躇なく告知した。その途端、たちまち寝たきりになってしまった。告知も考え物だと。
(九月二十八日)
ネットで緩和ケアの病院を調べる。相談員が一番に名前を挙げていたA病院はキリスト教系の病院らしい。少し遠いが、ここなら安心して父を任せそうな気がする。四、五件も行くところを挙げていて、面談の日が次々に決まっていくが、気持ちは大きくこのA病院に傾いている。
しかし、その前に、受け入れ先が決まるまで一ヶ月以上掛かり、その間南中央病院には居られないかもしれないらしく、相談員はホームには戻れませんかと聞く。それがだめなら、他の病院にワンクッション置くしかないともいう。
期待もしなかったが、一応楠木ホームに電話してみた。緩和ケアの病院が決まるまで、一時的に戻れないかと聞いてみたが、もうすでに、次に入る人が決まったのだという。私には特別の執着もない。来週、退所手続きに行くと言って電話を切った。
(十月一日)
脳の検査の結果を聞きに行く。脳外科の、これまた坊やみたいな若い医師がパソコンの画面を見せながら説明する。すぐにでも手術の必要があるわけではない。しかし、簡単な手術だし、しておいたほうがいいのではという。頭蓋骨に小さな穴を開け、血を抜けばいいのだそうだ。私は押し黙る。
(頭蓋骨に穴?)
若い医師は「手術をしないと、そのうち、左手が動かなくなりますよ」と言いながら、自分の左手を上下に動かした。
「しかし、手術をしても、これはまた再発します。尊厳死の宣言書を見ましたが、あれはどういうところまでのことなんでしょうかね」と言いながら、パソコンのページを繰って宣言書のコピーを出そうとする。
(えっ、再発する?)
私は後ろに立って控えていた担当の医師を振り返った。
「でも、胃がんで手遅れなんでしょう。手の施しようがないんでしょ」
担当の医師は痛ましげな顔をして、頷いて言った。
「もう少し、検討されますか」
「いえ、再発するのなら、もう手術はしません。」
私はきっぱりと言った。手の施しようがない末期の癌に侵されているというのに、再発すると決まった手術を、何で痛い思いをして頭に穴を開けるなんてことを何度もしなくてはならないのだ。左手一本が動かなくなるかもしれないことなんて、癌の苦しみと比べてどれほどのことがあるのというのか。こんな学校出たてみたいな若い医師に何が分かる! 人間は部品の集まりじゃないぞと叫びたい。手遅れの癌と見放した一人の人間の、脳の一部分だけは一時的だが治せるというのか。高齢だろうと、リスクがあろうと、全身に転移しているかもしれない末期の癌があろうと、再発するとはっきりしている脳の一部の手術を繰り返ししようとする、その考え方が私の理解の範疇を超えていた。
まだ何か言い足りないような残念そうな様子で、パソコンに顔を向けたままの若い医師を残して、私は席を立った。担当医が隅にある椅子にいざなった。
「それで、ワーファリンのことなんですが、飲み続ければ血腫も大きくなり手術をしなければ危険になりますし、胃からの出血も止まりませんので、これ以上の貧血になればそれも危険ですし……。どうされますか?」
「血液は注射でサラサラにしていると聞いてましたが」というと、「あれは一時的なものだったので……。ワーファリンを止めれば、血管が詰まる恐れがあるのはあるのですが……」。
もう、どっちに転んでも仕方がないわけだ。自然に任せるしかないだろうと私は思った。人間の命を無限かと思うほどに延ばしてきた近代医学でも手の施しようがない状態ならば、せめて、痛みのないよう、残りの命を安らかに過ごさせてやりたい。
「ワーファリンは止めてください。それから、告知も緩和ケアに落ち着いてからにします」
来週一週間、学会か何かで留守するので、代わりに担当するという医師を紹介し、去ろうとした担当医に私は縋るようにして聞いた。
「父の余命はどのくらいなんでしょうか? 転移しているんでしょうが、もし胃だけと仮定して、どのくらいでしょうか?」
余命いくばくもないとしても、私には心構えが必要なのだ。すでにそれはあるけれども、覚悟の上の覚悟が。
「いや、何とも……」
言いにくそうに言葉を濁したまま、医師は答えてくれなかった。
私はその日、医師に会う前に父の病室に顔を出していた。
「わしは頭を打ったのやろうか?」と、癌のこと以外は聞いているらしく、父は首を傾げながら言った。少し考えて、聞いてみた。
「もし、手術をしたほうがいいと言われたら、お父さん、どうする?」
「そうやねえ。手術しようかねえ」と意外にも、驚くほど明るい声で父は答えた。
もう、手術はしないことになったよと言いに行こうかとも思ったが、足が病室には向かわなかった。廊下の隅でぼんやりと立っていた。父の顔を見る勇気は出ない。何を言ったらいいのかも分からない。そっと踵を返し、エレベーターのほうに向かった。




