後のことばかり心配していた父、脳梗塞を再発
(十月三日)
代理の医師から電話あり。
父が脳梗塞を起こした。去年倒れたときには三時間以内なら可能という薬を使用し、そのお陰というべきか、その後の回復があった。今回はそれを使えないのだという。
「では、どうしたらいいのですか」
「そのことを話したいからすぐ来てほしいんです」
のっぴきならないものを感じて、母を連れて駆けつけた。
病室に入るなり、父の異常な状態に足がすくんだ。
「お父さん!」と呼びかけると、口だけを動かして必死に何か言おうとしているようだが言葉にならず、もがくように「あふっあふっ」と大きく息を吐き出す。すでに、目は泳いで焦点も合わない。右手を動かそうとしているらしく、掛布が少し持ち上がっているが、仰向けに横たわったまま身体はぴくとも動かない。去年倒れて救急搬送したときの父の様子を見ているから、ああまたかと胸がつぶれる。覚悟はしていたが、こんなに早くとは。しかも、もう回復の望みはないのだ。
母が父の顔を撫でながら泣いている。
「お父さん、お父さん。きつかったねえ、お父さん」
父はただ「あふっあふっ」というばかり。しばらく母のなすがままにさせていた。優しそうな年若い看護師が悲しそうに言った。
「昼食をきれいに完食されまして。その後、味が薄い! と大声で怒鳴られたんです。それから三十分して薬の服用のために来てみると……。あの怒鳴られたのがいけなかったのでしょうか」
完食して、怒鳴って……。父らしいと思った。
実は、前に聞いていたのだ。ここの食事は味が薄いとの不満を。そのとき、胡麻塩を作ってきてくれと頼まれた。塩辛いのは駄目というと、市販の胡麻塩を買ってきてくれという。駄目と更に言うと、それなら自分で作ろうかねという。やれやれと思ったものだが、こんなことなら少しでも作ってやればよかったと思った。
(ごめんね、お父さん)
そのうち、母も気が済んだのか、もう帰ろうと立ち上がった。私は父の耳元で言った。
「お父さん、後のことは心配ないからね。大丈夫だからね」
いろんな意味を込めて、言った。「あふっあふっ」と悶え苦しんでいた父は瞬間、口をつぐみ、目を閉じて静かになった。分かってくれた気がした。
医師は今晩ということもあるし、このまま、長く生きる人もいますと言った。あらためて、心臓マッサージや人工呼吸器などの必要はないこと。安らかに逝かせてやりたいと告げた。
家に帰って、母に兄のところに電話をするように言った。なかなか腰を上げない母に、今電話をすればその気があれば駆けつけられるからと、ホワイトボードに言うべきことを書いて父のことを連絡させた。母はまるで棒読みのように書いた文章を読み上げていた。
(十月四日)
一人で父のところへ。昨日とは全然違って、魂が抜けたむくろのようになっていた。あの訴えかけるような「あふっあふっ」もない。点滴だけで命をつないでいる様子。昨日のうちに、母を連れてきておいて良かったと思う。緩和ケアの病院探しを支援してくれていた相談員に来てもらう。言うまでもなく、面談の予約はすべて取り消されることになる。私は不安そうに聞いた。
「このまま、ここにおらせてもらえるのでしょうか?」
彼女は痛ましそうな顔をして、「もちろんです」と答えた。
夜、兄嫁から電話があった。すぐ母に代わる。兄と仕事が済んでから病院に行ったらしい。呼びかけても何の反応もない、父のあまりの変わりように驚いた様子だった。昨日、駆けつけておけば、まだしもだったのにと思う。ホームにも一ヶ月以上行っていなかったのだから、最近のことは何も知らずにいたのだ。それでも昨日は休みだったし、母の電話にすぐにでも行けるはずだっただろうに。父と最後の会話を交わし、脳梗塞再発後もかろうじて心通わすことができたのは私だけだったと思った。
南中央病院に入院してのことだった。父は私に何か欲しいものを買わんかと言った。
「時計かネックレスか何か。しかし、あんたは貴金属とか好かんもんなあ」
「ああ、時計ならいいねえ。丁度壊れてるし。でも、来年の一月でいいよ。私の誕生日に」
「そうか、それなら、来年ね。お金持ってきてね」
来年まで父は持つだろうか、と心秘かに思いながら、話を合わせて帰った。
脳梗塞が再発した前々日、十月一日のことだ。父はにこやかに「時計買おうよ」と言った。忘れずに、楽しみにしてくれているらしい。
「うん、来年ね」
そう言うと、父はこんなことを言い出した。
「ひ孫たちにお金を包んでやろう。お金持ってきて。何人おるかね」
「うん、正月でいいでしょ。お年玉で」
兄の子ども三人のそれぞれの子ども。双子も含め、八人になるだろうか。でも、向こうサイドの話はあまりしたくなく、話を逸らそうとすると、父はなおも言い続けるので、つい「向こうのことは私、知らんよ」と言うと父は急に不安そうに声を強めて言った。
「そうしとかんと、また京次が何か言ってくるやろうが!」
私は内心驚いた。四月一日に遺言書を書くために一時帰宅して以来、その話を二度とはしなかった。父は今もちゃんと覚えているのだ。兄が家を売ろうとしてきたことを。子供たちに小遣いを配るくらいで済む話ではないだろうが。父は父なりにこの半年間、忘れずに一人心配していたのだろうか。
(病気の父にこんな思いをさせて。兄たちを許せない!)そう、強く思った。
(十月五日)
楠木ホームに支払いに行く。
会議室に通され、退所の手続きを取る。二ヶ月ちょっとのことだったが、大変な迷惑とお世話になったことに感謝の意を伝えた。ケアマネが「ホーム受け入れがそもそも間違っていたんじゃないのと言っているんですよ」と男性の相談員を横目で見ながら言った。私には電話で別に迷惑なことはないですよと言ってくれていた相談員だ。
私は「それでも、感謝しているんです。遠くて洗濯物が大変だった施設からこのホームに入れて、ほんとに助かりましたから。たった二ヶ月でこんなことになるとは思いませんでしたけど」と言った。
父の荷物の残りをすべて持って帰る。大きな段ボール箱を相談員が車まで運んでくれた。車の後ろの窓にいつまでも立って見送っている彼の姿があった。
(十月六日)
看護師に頼まれた前開きの下着のシャツと、はくタイプではないおむつを買って持って行った。おむつとはいえ、すでに排尿も管を通してある。
屍みたいな父の姿に心が凍りそうになる。
「お父さん」
そっと呼びかけてみるが、微動だにせず、薄目すら開けない。入れ歯をしていない口は半開きで、あごが落ち込んでいる。身体も棒のように横たわったまま。
やってきた若い看護師に「もう、何の反応もないですね。これじゃあ、生きているとは言えないですね」と、言っても仕様がないのに、つい言ってしまった。彼女は悲しげな顔をして、「体の向きを変えるときに少し目を開けられるんですけど」と言い訳のように言った。
そのとき、「部屋を移ります」と、どたどたと看護師数人が入ってきた。私は部屋から追い出され、廊下で様子を見守るしかなかった。個室から四人部屋へとベッドごと荷物のように運ばれた父は、もちろん何も分からず、ものも言わず、ただ静かに横たわっている。逆に四人部屋から個室に移るという患者の移動に看護師たちが大わらわで、父はその後に移されるまで部屋の片隅にほったらかしなのだ。父のそばに座る椅子もなく私は一人突っ立ったまま、無性に悲しく、情けなく、ぴくりとも動かない父を見ているのに忍びず、声をかける気にもなれず、忙しそうに右往左往する看護師たちに背を向けて部屋を出て行った。
(十月七日)
早朝、父は息を引き取った。
最後は安らかだったらしく、医師の死亡診断書には、病死および自然死とあった。兄には看護師が私への電話の前に連絡したという。もちろん距離的に私より先に着くわけはない。会員になっている葬儀社に電話を入れた。看護師から父の遺体を清めた上で霊安室に移すのでそちらへと言われたが、兄と一緒になるのは恐ろしいので、誰も居ない食堂で一人待った。看護師から「歯は入れますか?」と聞かれ、「ああ、入れてください」と答えた。あごが落ち込んだ顔をきれいに整えてほしかった。これから、いろんな人に死に顔を見られるのだろう。せめて、見た目は穏やかであってほしい。
兄嫁と姪の未樹がその食堂にやってきた。兄嫁がしくしくと泣きながら、「何もかもさせてごめんね」と言った。しかし、その後ろに突っ立ったままの未樹の非難めいたまなざしを私は感じていた。彼女は父が松川園に入所したときから、兄嫁を代弁しているかのようなことを言っていたので、私に対して反発心を抱いているのは明らかだった。
私が動こうとしないもので、兄嫁と未樹は私を残して霊安室へと向かい、その間に私は父の荷物を車に運び入れた。
葬儀社が来たと、看護師から霊安室に案内された。霊安室には線香が焚かれ、兄たちがその前に座っていた。父は棺に納められ寝台車で葬儀場へ運ばれていった。兄たちはその後をついていった。兄とは目も合わせないまま、私は一人、母の待つ家に戻った。
母は意外と冷静に受け止めたように見えた。思えば、去年の六月に倒れてからの一年と数ヶ月は、常に覚悟の日々だった。母も体調を悪くして、父と顔を合わせたのは数えるくらいではなかったか。父の世話は一切私がやってきたし、最近は父のいない生活に慣れてしまっていたのかもしれない。
通夜は午後六時で、葬儀は明日の午前十一時と兄嫁が連絡してきた。今、葬儀社と打ち合わせをしているのだが、かなりな金額を追加要求されているのだと訴え、「こっちに来てくれないかなあ」と言う。私は少なからずうんざりした。
「葬儀社には前もって最低限でお願いしているから。差し引き足りなかったら、私が出せばいいんでしょ。」
兄嫁は一瞬黙り、そして言った。
「葬儀社の支払いは一週間後そちらに集金に行くということだけど、お坊さんには明日払わないといけないそうだから、○十万用意しておいて」
写真が要るというので、午後になって優太と未樹が家にやってきた。アルバムから良さそうな写真を数枚用意した。ここ数日の父の目まぐるしかった状況を話していると、押し黙っていた未樹が私を睨むようにして突然口を開いた。
「すぐに知らせてくれればよかったのに。おばあちゃんが電話をくれて、やっと分かったのよねえ」
母には「ねえ」と猫なで声で肩をさすりながら言う。母もにこやかに未樹に笑顔を向ける。私はムカッとした。
「親がまだ生きてるうちに、家を売るなんて言う人に私から連絡はしないよ」
「売るとは言っていないでしょ」
「折半しようって言ったの!」
全く、兄嫁と同じことを言う。売らずにどうやって折半するというのだ。のこぎりでも持ってきて、家を二つに割ろうというのか。これは詭弁というしかない。
優太が横から取り成すように言った。「前から、そういう話はあったんよ」
それこそ、昔から親の存在を無視して、自分たちだけで勝手なことを相談していたということが証明される話じゃないか。そういう話をすること自体、おかしいだろうと思った。私は未樹に向かって言った。
「私に、おまえはお墓に入れんぞとも言ったわ。もし、あなたが離婚して家に戻ったとして、お前はお墓に入れんぞと言われたら、どういう気持ちがする?」
「そんなこと……」と、未樹は小ばかにしたような顔で首を振る。
「私はいいんだけどね。お寺で永代供養してもらうから」
「大体、お父さんは親切で、叔母さんのためにと思って洗濯物を持ってきたんだから。それなのに、何で持ってくるのかと顔を見るなり、そちらが先に怒鳴ったんでしょ」と言う。
(ああ、分かった)と私は思った。兄嫁が電話で言おうとした「あなたが先に……」の続きの言葉がこれだったのだ。
「あーあ、それでね。それで売り言葉に買い言葉ってことになってるわけね。私は怒鳴ってなんかいないよ。こちらは暴力振るわれそうになったんだから」
「暴力なんか振るってないでしょ」と眉を顰め、憎々しげに彼女は言う。
「お母さんが泣きながら止めてくれたのよ。ねえ、お母さん」
「うん。泣いたことだけ覚えとう」
黙って聞いていた優太が横から辛そうな顔で言った。
「おやじの性格は知っているでしょ」
「えっ、性格って?」
「カーとなるとよ」
「えっ、殴られるの?」
優太は首を振ったが、子どもの頃はよく殴られたという。私は驚いた。私は父親から暴言や暴力を受けたことがない。父はおとなしい穏やかな人だった。昨年からのことは脳梗塞で倒れた後遺症ゆえだ。だから尚更、信じられない思いで苦しんできた。ところが、兄は昔からカーと逆上して子どもを殴っていただなんて、初めて聞いた。
そういえば、優太は人から勧められても全くお酒を飲まなかった。兄は若いころから酒飲みで、休みには昼間、いや朝っぱらから飲んでいたものだ。もしかしたら、反面教師だったのかもしれない。兄はお酒の飲みすぎで性格が変わったのか。もしかしたら、脳の組織がやられているのかもしれない。少なくとも、結婚前までは兄があんなに激昂するところを見たことはなかった。
父が松川園から楠木ホームに移った後に、兄が知らずに松川園に行ってそれが分かったとき、激怒したのだという。その後で、私が出した葉書が届いたらしい。その葉書は、自らは電話をしようとしない母に代わって母の名前で出したものだ。急に決まった話でもあったが、私はわざとギリギリに葉書を投函した。昨年、S市の施設に入れようかと思うとも言っていた兄だから、そんな兄たちに横槍を入れられたくなかったのだ。
未樹が険のある顔で更に責め立てた。
「すぐ知らせてくれてたら、よかったのに。ねえ。おばあちゃん」
「昔は仲の良い兄妹だったのにねえ」
「やめてよ。仲なんか良くなかったし。子どもの頃に一度おなかを殴られて、息が出来なくて死ぬかと思った事があったわ」
「そんな、子どもの頃のことなんて」と未樹が吐き捨てるように言う。
「ねーえ、おばあちゃん」
「うーん」
母が未樹の猫なで声に答えてにこにこ顔で頷いている、そんな姿を見るのも嫌だ。
今までも思う事があったが、親なら理不尽な兄を諌め、兄妹の間の仲裁をしてくれても良さそうなものではなかったか。まるで八方美人みたいに、彼らの甘言に遭うと、ころりと私を見捨てて向こうに擦り寄るのだ。とは、思ってみても詮無いことと分かっている。今の母には、判断力も思考力も理解力も何もない。すでに親と子の立場は精神的に逆転してしまっていた。人は老いると、かくも壊れてしまうものかと呆然となる。そうなるまで、自分は生きていたくない。つくづくそう思う。
(もう、耐えられない)
私はいたたまれなくなって、立ち上がった。
「私の悪口を言いに来たんなら、帰って」
そして、部屋に閉じこもった。優太が一緒だったので、つい気を許していた。それに、父が亡くなったその日に姪があんな口を叩くとは思いもしなかった。兄や兄嫁とそっくりそのまま同じことを言う。私に対して彼らと同じ悪感情を持ち、彼らの代弁をしているつもりだろう。それにしても、私はこれまで自分の叔父や叔母や目上の人に対して、あのような口を利いたことはなかったと思った。
しばらくして、優太が部屋をノックした。彼は分かってくれているようだ。すぐに関係修復は出来ないだろうが、自分たちは仲良くしてほしいと思っているという。優太だけが唯一理解を示し、「何かあったら、自分に電話して」と言ってくれたのだ。嬉しくて涙ぐんでしまった。しかし、驚くべきことも言った。
「おやじもそのうち、死ぬと思うよ」
どういう気持ちで言ったのだろう。この言葉だけは心のどこかに引っかかった。いくら、ひどい親だとしても子供として、私だったら口には出せないと思ったのだ。
「結婚前まではあんな人じゃなかったけどねえ」
つい、言ってしまった私の言葉を彼はどう受け取っただろう。言外に兄嫁にも責任があるように含まれたものと感じただろうか。
私は今まで、甥や姪に彼らの親の悪口を言ったことは一度もなかった。もちろん、甥や姪の悪口を兄たちに言ったこともない。そもそも人の悪口を言うのは嫌いだ。しかし、兄たちとのゴタゴタがあってから後というもの、私は意識を変えなければならなかった。世の中にははっきり言わなければ逃れようのない状況というものがあるのではないか。黙って引き下がってばかりでは潰されてしまう状況というものが。
二人は写真を持って葬儀場に戻っていった。
通夜では母の泣く姿は痛ましく、お焼香も人に抱えられてやっとのことで済ませるような状態だった。その後、隣の控え室に通夜ぶるまいが用意されていて、親族が集まった。とはいえ、兄の一族だ。甥一人姪二人の配偶者の分も含め十人分注文していたが、母はもちろん私も食欲なんて全くない。小さな子どもたちは数に入れていなかったが、母と私の分をまわしてくれと言い、ほんの一口手を付けただけで、遅れてきた親戚や近所の人などの通夜客をホールのソファーで接客した。母は誰彼となく、「いやー懐かしいねえ。外で会っても分からないよ」と言っている。
結局、甥姪の配偶者たちは一人も来なかった。控え室に戻ってみると、大人五人と二、三歳のひ孫たち二、三人で、所せましと並べられた大皿に山盛りに盛られた十人分の料理がきれいに平らげられていた。そうして、明日の用意もあるというので皆ぞろぞろと帰っていった。私も母もとても夜通しというわけにはいかない。葬儀社の担当者に後を任せ、母を連れて帰った。父は寂しいかも知れないがどうしようもない。