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第十話(最終話) VETO 拒否権こそ、最強の権力。

参議院本会議場。

高い天井から吊るされた豪奢なシャンデリアが、円弧を描いて並ぶ議員席を冷ややかに照らし出している。衆議院のそれとは異なる、静謐で、重厚な空間。

議場を包み込んでいるのは、熱気でも喧騒でもなく、絶対的な質量を持った「沈黙」だった。

有権者の負託を受けた二百四十八名の議員たちが、それぞれの議席で、自身の机上に設置された投票ボタンを見つめている。

賛成を示す『白』。反対を示す『青』。

議長席から発せられた採決を告げる声が、マイクを通じて議場全体に反響した。

天馬は、硬直した右手の指先を二つのボタンの間にホバリングさせたまま、小刻みに震わせていた。

(……私は、何のために政治家になったのか)

脳裏に浮かぶのは、自身の原点であるアニメ『ピュアラブ政治家』の主人公の姿。どんな権力にも屈せず、泥まみれになりながらも弱者のために声を上げる、眩しいほどの正義。あのアニメを見て、胸を熱くして涙を流した自分は、間違いなく嘘偽りのない本物だった。そして、不正を許さず、クリーンな政治を理想として掲げた自身のマニフェスト。

目の前に提示されている「政治資金規正法改正案」は、企業・団体献金の規制強化やパーティ券の公開基準引き下げを盛り込んだ、まさに彼女の理想を具現化したような法案だった。道理に従えば、当然『白』を押すべきである。

しかし、現実という名の冷酷な掟が、彼女の指先を逃れようのない力で『青』へと引き摺り込もうとしていた。

数日前、桂東や八村は、苦肉の策として「採決の棄権」を助言した。賛成も反対も示さず、本会議場から退出するという玉虫色の選択。

だが、天馬はその提案を即座に却下した。

地元・静岡の有権者から六年の負託を受け、胸に重い議員バッジを付けている以上、自身の意思を示さずに逃亡するなど、政治家としての自殺行為に他ならない。白か青か、どちらかのボタンを押さなければならないのだ。

それが、石橋裕雄という妖怪が構築した、絶対に逃げ道のないトロッコ問題だった。

天馬の脳内で、残酷な損得勘定が猛スピードで駆け巡っていく。

もしここで『白』を押せば、自身の清らかな理念は守られる。だが、それは同時に、党の金庫番である指宿や石橋から、自身の事務所への資金供給ラインを完全に切断されることを意味した。

煌びやかな理想だけでは、永田町で一日たりとも呼吸することはできない。秘書たちの人件費、地元・静岡県南熱海市に構える事務所の家賃と光熱費、有権者に配るリーフレットの印刷費、地元を走り回る車のリース代とガソリン代。若手で強固な地盤を持たない天馬の事務所は、ただでさえ火の車なのだ。資金がショートすれば、事務所は確実に崩壊する。地元の有権者との繋がりも、政治家としての命脈もすべて断たれる。それはただの敗北ではなく、「無能な理想主義者」としての惨めな退場を意味するのだ。

だが、それ以上に天馬を苦しめていたのは、もう一つの「懸念材料」だった。

自身が『白』を押そうが押すまいが、法案は参議院の圧倒的多数で否決され、衆議院に差し戻されて廃案になることがすでに確定している。

その上で、もし自分がここで石橋に楯突き、政治生命を絶たれてしまえば——戸頃を死に追いやった洗井前政権の暗部、茨城ルートの真相を暴く者は、この永田町から永遠に消え去ってしまう。

(……戸頃さんの無念を晴らすためには、私は、政治家として生き残らなければならない。そのためには……!)

自身の魂を悪魔に売り渡し、汚泥を啜ってでも、戦うための陣地を維持しなければならないのだ。

天馬の視界が、滲んだ涙で歪んだ。自分がひどくちっぽけで、浅はかな人間に思えた。

理想という名の無菌室から、泥と血に塗れた現実のシステムへと足を踏み入れる瞬間。それは、熱い理想に燃えていた若き政治家・天馬薫子が、自らの手で自身のイノセンスを殺害する儀式でもあった。

「……っ!」

天馬は奥歯が砕けるほど強く噛み締め、目を閉じ、右手の指を振り下ろした。ほんの数ミリのストローク。たったそれだけの動作が、今までの自分の人生のすべてを否定し、真っ黒な泥水の中へ自ら頭まで沈み込むような、底知れぬ恐怖と絶望を伴っていた。

カチリ、という冷たいプラスチックの稼働音が、彼女の耳には断頭台の刃が落ちる音のように響いた。指先から伝わるその感触は、確実に彼女の魂の一部を削り取った。

彼女の指は、『青』のボタンを押し込んでいた。

石橋の軍門に、完全に下ったのだ。

やがて、議長が感情の抜け落ちた声で結果を読み上げた。

「投票の結果を報告いたします。投票総数、二百四十八票。白色票なし……青色票、二百四十八。よって本案は、否決されました」

議長席の横、ひな壇には法案の提出者である総理の山屋と、所管官庁のトップである総務大臣の小鳥遊が並んで座っていた。

山屋の顔から、つい先ほどまで張り付いていた恍惚の笑みが剥がれ落ちた。信じられないものを見るように目を見開き、やがてその顔面は鬱血したようにどす黒い怒りへと染まっていく。自分が絶対的な権力者だと信じて疑わなかった男が、足元の床板をすべて抜かれた瞬間の、滑稽なほどの狼狽だった。

一方、そのすぐ隣に座る小鳥遊は、自身の管轄する法案が全会一致で否決されたという異常事態を前にしても、眉一つ動かさなかった。まるで他人の葬儀に義理で参列しているかのように、ただ淡々と、虚空を見据えている。彼は石橋という巨大なシステムに組み込まれた歯車の一つに過ぎず、この結末を最初から知らされていたからだ。

沸点を突破した山屋の「熱」と、絶対零度の小鳥遊の「冷たさ」。二人の間に横たわる残酷なコントラストは、この議場を支配している真の権力者が誰なのかを無言のうちに証明していた。

議場は、どよめきすら起きない異様な静寂に包まれた。

全会一致の否決。

与党のみならず、法案に賛成していたはずの野党第一党・正大党の議員すらも、裏で石橋の猛毒を喰らい、全員が反対票を投じたのだ。

二百四十二対ゼロ。

それは民主主義の帰結などではなく、石橋裕雄という一人の妖怪が、国権の最高機関、その出口を完全に掌握し、一つのバグも許さずにシステムを制御しきったという、恐怖の証明であった。

天馬は顔を上げることもできず、ただ自分の足元の絨毯を見つめたまま、全身を小刻みに震わせていた。完全な、そして決定的な敗北だった。


本会議終了後。

天馬は石橋に呼び出され、足取り重く院内の参議院幹事長室を訪れていた。

「やぁ、天馬ちゃん」

重厚なデスクの奥から、石橋はいつもと変わらぬ、温厚な好々爺の笑みを浮かべて彼女を迎えた。

「君も、ようやく“立派な政治家”になったね。若手議員の成長を見るのは、私にとってこれ以上ない喜びだよ」

その慈愛に満ちた声色は、天馬の全身の皮膚を粟立たせた。

石橋はデスクの引き出しから一枚の明細書を取り出し、テーブルの上を滑らせた。

「君の事務所の口座に、『組織活動費』の名目で振り込ませておいた。私からの、ささやかな“プレゼント”だ。……これからも、党のために尽力してくれたまえ」

天馬の視線が、紙片に印字された数字に落ちる。

『金 一億五千万円也』

その数字を見た瞬間、天馬の心臓が凍りついた。いや、心臓だけではない。指先から血液の温度が急激に失われ、立っていることすら困難なほどの悪寒が全身を駆け巡った。

一億五千万——それは奇しくも、洗井が自身の選挙区である茨城一区に撒いた実弾の金額であり、戸頃がスキャンダルの濡れ衣を着せられ、死に追いやられる原因となった金額と完全に一致していた。

偶然ではない。石橋は、天馬が戸頃の死の真相を追っていることを完全に把握した上で、あえてこの金額を提示してきたのだ。

『お前が追っている真実の値段はこれだ。この金を受け取り、すべてを忘れろ』——紙片から、そんな声なき恫喝が立ち上ってくる。

(こんな汚い金……!)

天馬の右手が、明細書を突き返そうとピクッと動いた。

だが、その手は空中でピタリと止まり、これ以上前へ進むことを拒絶した。

現実の重力が、彼女の腕を縛り付けていた。秘書の給与、事務所の維持費、活動資金。この一億五千万があれば、天馬の事務所は当分の間、資金難の恐怖から解放される。次の選挙戦すら、優位に戦えるかもしれない。人間の持つ生々しい生存本能が、突き返そうとする理性を背後から羽交い締めにしていた。

さらに残酷なのは、この金がアタッシュケースで手渡されるような非合法な「裏金」ではないということだ。

政治資金規正法に基づき、党の幹部から資金力の乏しい若手議員へ合法的に振り込まれた『寄付行為』。違法性の一切ない、完璧なまでに“真っ白な金”なのだ。

法的に突き返す理由が存在しない。受け取らなければ、ただ「理想にしがみつき、意固地になって事務所を潰した無能な経営者」という烙印を押されるだけ。巨大な権力を持つ男が、見下したように投げ与えた慈悲。それを拾い上げなければ生きていけないという、圧倒的なまでの力の差。

天馬は、突き出そうとした右手をゆっくりと引き戻し、力なく膝の上に落とした。

自分は、戸頃の命を奪ったのと同じ重さの金を、自らの保身と政治活動のために受け入れたのだ。

自分がたまらなく情けなく、醜く思えた。胸の奥底から、酸の混じったような後悔と自己嫌悪が込み上げてくる。これまで正義を語ってきた自分の口を、今すぐ縫い合わせてしまいたかった。

天馬は立ち尽くしたまま、ポロポロと大粒の涙を零した。声すら出ない。どれだけ強く奥歯を噛み締めても、目頭から溢れる熱い液体を止めることはできなかった。自分の無力さ、浅はかさ、そして何より、悪魔の施しにすがりつく己の醜悪さに、魂が削り取られるような激痛を感じていた。ただ、無言で号泣することしかできなかった。

そんな彼女を見下ろしながら、石橋は優しく、ひたすらに優しく声をかけた。

「天馬ちゃん、また一つ大人になったね。……これが政治だよ。若いうちから身をもって“政治の勉強”をするのは、決して悪いことじゃない」

強烈な嫌味と絶対的な支配を含んだ石橋の言葉は、今の天馬にとって、心臓を鋭利な刃物で生きたまま抉り取られるような激痛だった。

彼女は自分の足で立っていることすら限界に達し、その場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えていた。


法案は参議院での否決を受け、衆議院に差し戻された。

しかし、再可決に必要な三分の二の議席など存在しない。法案は石橋が描いたプラン通りに、完全に廃案となった。

怒りに震える山屋は、本会議場を後にすると、足早に首相官邸へと帰還した。

国民の圧倒的な支持を背に受け、自分が歴史的偉業を成し遂げようとしていたその足元を、党内の抵抗勢力が完全に切り崩したのだ。彼の脳内では、肥大化した自己愛と行き場のない怒りがショートし、危険な火花を散らしていた。

彼に残された武器は一つしかない。伝家の宝刀である『衆議院解散』

官邸のエントランスホール。到着した総理専用車から降り立った山屋を、無数のフラッシュが迎え撃った。彼の目は血走り、異常な興奮状態にあることは誰の目にも明らかだった。

「総理、否決されましたが、一言お願いします」

山屋は番記者の問いかけには答えず、ただ胸を張って執務室に向かい、歩き続けている。

「解散ですか、総理!」

山屋は歩を止めず、カメラの放つ閃光の束を真っ向から受け止めながら、力強く、そして無言で深く頷いた。

「おおーっ!!」

記者たちの間から、地鳴りのような驚愕のどよめきが沸き起こった。内閣総理大臣による、事実上の解散宣言。山屋は自分に注目し、ひれ伏すメディアの反応に満足すると、足早に執務室へと向かった。

(勝てる。今の七割超の内閣支持率なら、刺客を立てて党を完全に掌握できる……!)

だが、彼が解散を決定するための閣議を招集すべく、総理執務室のドアを勢いよく開けた瞬間。

そこに、招かれざる客が待っていた。

「ご苦労だったね、山屋くん」

来客用ソファに深々と腰を下ろしていたのは、内閣官房長官・石橋裕雄であった。

「石橋さん……。何の用ですか。私はこれから閣議を開き、解散の詔書に署名を——」

「座りたまえ」

石橋の低く、しかし逆らうことの許されない声が、山屋の言葉を物理的な圧力で遮った。

山屋は反射的に身体を強張らせたが、石橋の放つ異常な磁場に引き寄せられるように、向かいのソファに腰を下ろした。

石橋は、テーブルの上に置かれた冷めた紅茶のカップを一瞥すると、ゆっくりと顔を上げ、山屋の血走った目を真っ直ぐに見据えた。

「解散など、できないよ。……君の役目は、もう終わったんだ」

「なっ……! 何を言っている! 私は総理大臣だぞ! 国民の七割が私を支持している! あんたのような古い政治家こそ、私がこの手で終わらせてやる!」

唾を飛ばして激昂する山屋に対し、石橋は眉一つ動かさず、ただ哀れな虫を見るような酷薄な視線を向けた。

そして、彼はゆっくりと口を開いた。

かつて、前任の総理である洗井理人を冷酷に切り捨てた時と——一言一句、完全に同じセリフを、寸分の狂いもないトーンで放った。

「俺はアンタに相談じゃなくて、通達をしてるんだ。アンタはもう、用済みなんだよ」

その瞬間、山屋の周囲の空気が急速に凍りついた。

デジャヴ。

この永田町という空間にかけられた、決して逃れることのできない無限ループの呪縛。総理大臣の首をすげ替えるという国家の根幹に関わる事象すら、石橋というシステム管理者にとっては、劣化した部品を交換する程度のルーティンワークに過ぎないのだ。

「ふ、ふざけるな……! 私は解散する! 閣議を開く!長官であるあんたが署名を拒むなら、罷免して私自身が兼任するまでだ! 『一人内閣』にしてでも、私は解散を断行する!」

山屋は立ち上がり、狂ったように叫んだ。総理大臣には閣僚の罷免権があり、理論上はすべての閣僚を罷免して自らが兼任し、単独で解散を決める「一人内閣」というウルトラCが存在する。

「ほう。一人内閣、ね」

石橋は楽しそうに目を細め、立ち上がった。

「やれるものなら、やってみるがいい。……君のような空っぽの神輿に、国という重さをたった一人で背負う覚悟があるのならね」

石橋はそれだけを言い残し、音もなく執務室から姿を消した。

直後、緊急招集された臨時閣議。

円卓の最座に座る山屋は、震える手で解散詔書への署名を求めた。

だが。

「署名には応じかねます」

総務大臣の小鳥遊が、官僚の書いたペーパーを読み上げる時のように無感情な声で拒絶した。

「私も、応じられません」

「私もです」

次々と連鎖する拒絶の声。山屋以外の全閣僚が、一人の例外もなく署名を拒否したのだ。彼らは皆、石橋の引いたレールの上を歩くだけの、感情を持たない操り人形でしかなかった。昨日まで山屋にすり寄り、愛想笑いを浮かべていた彼らの顔には今、一抹の同情すら浮かんでいない。

「き、貴様ら……! 全員罷免だ! 私が、私が一人で……!」

山屋はペンを握りしめ、喚き散らした。だが、ふと顔を上げた時、自分を取り囲む十数名の閣僚たちの、ひたすらに見下すような軽蔑の視線が一斉に自分に突き刺さっていることに気づいた。

そこにあるのは、反逆者を見る目ですらない。路傍で喚く狂人を、ただ遠巻きに眺めているような、完全な無関心と冷笑だった。誰も、彼を国家のリーダーとして見ていない。ただの道化として、壊れた玩具として見下ろしている。

(一人で……国を……?)

山屋の頭の中に、『国家』という得体の知れない巨大な質量がのしかかってきた。官僚組織の掌握、外交の重圧、経済の責任。それらをたった一人で背負う「一人内閣」という机上の空論を振りかざす勇気など、元々信念など何一つ持ち合わせていない空っぽな彼にあるはずがなかった。熱狂という麻酔が切れ、自分がいかに無力で小さな存在であるかを、最悪の形で突きつけられたのだ。

握りしめていたペンが、ポロリと手からこぼれ落ちた。

山屋太郎は、完全に詰んだ。

彼に残された道は、内閣総辞職——自身の辞任という、惨めな敗北の選択肢しか残されていなかった。


数時間後。首相官邸の記者会見室。

緊急の辞任記者会見場は、異様な空気に包まれていた。

フラッシュの嵐の中、演台の前に立った山屋の姿は、数時間前までの自信に満ち溢れた宰相のそれとは完全に別物だった。

髪は乱れ、目は焦点が定まらず、肩で激しく息をしている。全能感の頂点から一気に地獄の底へと叩き落とされたことで、彼の脆弱な精神は完全に崩壊していた。

「……党内の、一部の抵抗勢力が……私の、私の改革の邪魔を……」

マイクの前に立った山屋は、しどろもどろに言葉を紡ぎ出したが、やがてその口調は次第に熱を帯び、常軌を逸したヒステリックなものへと変貌していった。

「私はっ! 国民のためにっ! この命を懸けてっ!」

バンッ!

突如、山屋は両手で演台を激しく叩きつけた。記者たちが一瞬ビクッと身をすくませる。

「誰が投票しても一緒だ、誰が投票しても、じゃあ俺がああ!!立候補して!!この世の中を!ウグッブーン!!ゴノ、ゴノ世のブッヒィフエエエーーーーンン!!ヒィェーーッフウンン!!ウゥ……ウゥ……。ア゛ーーーーーア゛ッア゛ーー!!!!ゴノ!世の!中ガッハッハアン!!ア゛ーー世の中を!ゥ変エダイ!その一心でええ!!ィヒーフーッハゥ。一生懸命訴えてやっと!総理に!!なったんですううー!!!」

山屋は顔を真っ赤に腫らし、大粒の涙と鼻水を垂れ流しながら、カメラの前で子供のように泣き叫び始めた。

毎朝新聞社を代表して記者会見に出席し、最前列で冷ややかな視線を送っていた八村が、鋭い声で質問を飛ばす。

「総理、法案が廃案になったのはご自身の根回し不足であり、辞任は政権運営の行き詰まりが原因ではないですか!」

その言葉が、山屋の崩壊した神経の導火線に火をつけた。

山屋は右手を耳の前に当て、信じられないものを見るような顔で八村を睨みつけた。

「八村記者!あなたには分からないでしょうけどね!」

山屋はマイクを両手で握りしめ、絶叫した。

「文字通り!アハハーンッ!命がけでイェーヒッフア゛ーー!!!……ッウ、ック。私がどれだけ孤独に戦ってきたか!誰も助けてくれない!誰も私の言うことを聞かない! うわあああぁぁん!!」

全国のお茶の間に生中継で流れる、一国の最高権力者の滑稽すぎる末路。

それは悲劇というよりは喜劇——極上のブラックコメディであった。神輿に上げられ、全能感という薬物を注入され、最後は無惨に舞台から突き落とされた男の、あまりにも惨めな終幕だった。


同じ頃。都内の高級料亭『松影』。

石橋は縁側に腰掛け、庭の池を優雅に泳ぐ錦鯉に無表情で餌を撒いていた。

背後の和室に置かれたテレビからは、山屋の号泣する絶叫が虚しく響いている。

池の鯉たちは、上から降ってくる餌の正体も、誰がそれを与えているのかも知らず、ただ本能のままに口をパクパクと開け、浅ましく群がっていた。それはまるで、世論という熱狂に踊らされ、法案に賛成票を投じた衆議院議員たちの姿そのものだった。

石橋は、最後に残った餌をまとめて池に放り投げると、パパン、と手を払い、冷たい目でテレビ画面を一瞥した。

「参議院を笑う者は、参議院に泣く。……さて」

石橋は縁側から立ち上がり、障子の奥の暗がりへと歩を向けながら、誰に言うでもなく独り言ちた。

「次の『表紙』は、誰にするかね」


一方。参議院議員会館、天馬の自室。

テレビの画面では、泣き叫ぶ山屋の姿が繰り返し流されている。

天馬は、デスクの前に一人静かに座っていた。

彼女の手元には、一枚の古びたメモ用紙が置かれている。

それは、亡き戸頃の遺品。茨城ルートの資金の流れ、そして石橋という妖怪の急所に繋がるかもしれない、微かな事件の端緒となる文字列が記されたメモだった。

彼女の頬には、先ほど石橋の部屋で流した涙の痕が、まだ乾ききらずに残っていた。

権力の恐ろしさ。そして「出口を塞ぐ力」の絶対性を、彼女は骨の髄まで思い知らされた。綺麗な言葉を並べるだけでは何も変えられない。時には泥を被り、屈辱に塗れ、悪魔からの施しに頭を下げてでも、この恐ろしい盤上にしがみつかなければ、真実の尻尾を掴むことすらできないのだ。

だが、メモを見つめる天馬の目は、決して死んでいなかった。

敗北の底から這い上がろうとする、黒く、鋭い炎がその瞳の奥に宿っている。彼女の中で、甘く脆い「理想」が死に、本物の「政治家」としての覚悟が産声を上げていた。

彼女はテレビの電源を切り、デスクの引き出しから取り出したクリアファイルに、戸頃のメモを大切に挟み込んだ。

——机上の論理と、まつりごととしての現実

——最高権力者の首をも容易く刎ねる、不可視で最強の剣

——VETO 拒否権こそ、最強の権力

天馬は立ち上がり、窓際に歩み寄った。

厚いガラスの向こう側、漆黒の夜空に向かって、国会議事堂の尖塔が、まるで絶対的な権力の墓標のようにそびえ立っている。街のネオンさえ届かないその巨大な暗闇は、永田町に巣食う魔物たちの底知れぬ胃袋そのものに見えた。

(いつか、必ず。)

彼女は、一億五千万という目に見えない呪いと重荷を背負った自身の議員バッジにそっと触れながら、その巨大な石造りの建物を、射抜くような鋭い視線で睨みつけた。

永田町の歯車は、再び冷徹に回り始めている。

だが、巨大な権力の中に潜り込んだ小さな異物は、いつか必ずその心臓部を食い破る。

天馬薫子の本当の戦いは、今、この絶望の底から始まったのだ。

(了)

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