追跡
これより、夕さりつかた、
「内裏の方、塞がりけり」
とて出づるに、心得で、人をつけて見すれば、
「町の小路なるそこそこになむ、とまりたまひぬる」
とて来たり。
「さればよ」と、「いみじう心憂し」
と、思へども、言はむやうも知らであるほどに、二三日ばかりありて、暁方に、門をたたく時あり。
「さなめり」
と思ふに、憂くて開けさせねば、例の家とおぼしき所にものしたり。
『我が邸から夕方ごろ、あの人が
「宮中の内裏への方角が、塞がってしまったので」
と言って、宮中とは違う方角へ出て行くものですから、心に引っかかるものがあって、わけを知る使用人に後をつけさせます。どこに行ったか問いただすと、
「町の小路の、どこそこというところに、お車を止められました」
と言って来ました。そう聞くと、
「ああ、やはり……」とも、「あまりに……心がつらい……」
とも思うのですが、こんな時はあの人にどんな言葉をかけるべきか、わたくしには知る由もありません。
その二、三日ばかり経って、暁のころに我が邸の門を叩く音がするときがありました。そのやり方にあきれながらも、
「あの人らしい」
と思うけれども、やはり腹立だしくて戸を開けずにいると、例の女の住んでいるとおぼしき所へと、行ってしまいました』
いくら殿の態度が気に入らないといっても、冷静に考えればお子様も生まれたばかりだというのに、いつまでもお二人の不仲が続いて良いはずがなかった。
殿たちの居心地の悪そうな姿を見て女同士の妙な共感からのとげとげしい態度を『度が過ぎたかもしれない』と侍女たちも心を和らげたが、その頃には殿のお越しが一夜おき、二夜おきとなってしまった。
そもそも文が見つかっただけで決定的な証拠はまだ何もない。何より殿のご様子も、懸想文を見つけられて「しまった」という思いはあっても、お方様より他の女性に強く惹かれているとか、お子様が生まれたばかりのお方様への愛が冷めたというような印象もない。
聞くだけ無駄かも。と、思いつつも、やはり気になって助政に殿とその女性との関わり具合を問いただすと、
「信じないかもしれないが、本当にまだ、文のやり取り程度のお相手だよ。なかなか見栄えのいい女だという評判を、お気にかけているだけなんだ」
と、必死に言い訳をする。
「でも、文が用意されていたなら、あんたも頼まれれば渡すつもりだったんでしょ」
「そりゃ、それが俺の役目だし。だけどそれでようやく相手の人柄も少しは知れるんだし、ひょっとしたら断られるかもしれない」
「殿のような名家の子息を断る女なんていないでしょうに」
「それは偏見だ。こういうことは男女の心の問題だよ。『人が言うほどの容姿じゃない』とかなんとか、理由をつけて断る女も中にはいる」
「その女も断りそうな感じなの?」
私がそう聞くと助政は明らかに気まずそうな顔をした。
「いや……。もともと若殿の方は戯れだった。噂を聞くばかりじゃ気になって仕方がないから、物は試しに文を贈るつもりだったんだろう。だから大して気にも留めていなくて、書いた文をここへ忘れたりしたんだ」
言われてみると何だか納得できてしまう。男も女も恋を隠すのがうまい人間は確かにいるが、殿のように恋に強引な方が神経質に恋を隠すのは似合わない。しかも文をこの邸に置き忘れるなんて、本気の恋なら不用心すぎるだろう。
「どっちかって言うと、お相手の女性の方が若殿に入れ込んでる。何だかあっちは妙に上昇気質な感じがする。必死過ぎるというか、謙虚さがないというか。いつもの殿ならそう言う浅はかな人を相手になんかしないんだが……」
「何よ。奥歯に物でも挟んだような言い方して」
「だって、ここ最近のこの邸の対応ったらないじゃないか。門がなかなか開かないのは女君の御命令だろうが、車を止めるところにいつまでも使用人がぐずぐずしていたり、牛をつなぐ場所が汚いままだったり、俺たちの食事がなかなか出てこなかったり」
「あら、それはごめんなさい。お方様のお父上はお留守だし、婿君の関心が薄いとどうしても下々の使用人に軽く見られるみたいで」
「白々しいなあ」
私の言い訳に助政はうんざりした顔をする。それはそうだろう。邸の主が陸奥国へ下向して留守とはいえ、ここには二人の婿が通っている。そして、お方様の姉上様の婿君である為雅様の従者には、だれもそんな態度は取っていないのだ。
「若殿に八つ当たりするわけにいかないからって、あんまり俺たちを軽く見ない方がいいぞ。この邸の態度が悪いから、若殿もムキになって普段なら相手にしないような女に目が行くんだ。若殿の随身には先々有望な者も多い。そう言う人に気まずい思いをさせるのは、若殿だって不本意なんだから」
助政のその言葉は最悪な形で表れてしまった。殿はまるで当てつけのように三晩この邸を留守にして、あの文の女と結婚してしまったらしい。それだけでも衝撃的なのだが、さらに悪い話が使用人から流れて来た。
「町の小路の女ですって?」
お方様はその悪い噂にひきつけを起こさんばかりに息をのんでいた。
「よりによって……わたくしは、そのような女に殿を奪われているというのですか?」
「お方様、冷静になられてください。あくまでも噂です。そんなことを真に受けるよりも、殿ときちんとお話をなさって」
私たちは懸命にお方様をなだめようとしたが、
「あの殿がこの件を白状するはずがないではありませんかっ! これは、何としてでも真相を突き止めなくては」
と、お方様は頭に血が上るばかりだ。
そんなときに間の悪いことに、お子様の顔を見にいらした殿が、邸にお泊りにもならずに、
「今夜から内裏で宿直をするのだが、どうも方塞がり(占いで方角が悪い事。当時は陰陽道の占いを厳格に守ることが要求されていた)なようだ。知り合いの邸に寄ってから内裏に参るとしよう」
などと言いだした。それを聞いたお方様が私を呼びつけ、
「くちなし。出かける支度を」とおっしゃる。
「は? 突然にどちらへお出ましに?」
きょとんとする私にお方様は、
「わたくしではありません。あなたが一人で出かけるのです。徒歩で歩ける、地味な衣装に支度をなさい。そして、殿の後をつけるのです」
後をつける……。言われた言葉の意味が一瞬頭に入ってこなかった。
「えっ! ……ええっえー? わっ、私が、殿の後をつけて歩くんですか?」
これにはさすがに仰天した。男君が美女の住まいを突き止めるために、随身を使って美女やその使用人の後をつけるというなら聞いたことがあるけれど、女君が良男の相手を確かめるために女房に後をつけさせるなんて、前代未聞の御命令だ。
「そうです。そして、殿のお相手がどこに住んでいるのか確かめるのです。このまま真相がわからないままでは、わたくしは夜も眠れません。さあ、早く支度を」
せかされて、唖然としたまま支度をする。地味な身なりに着替え、長い髪をくくる。足元をたくし上げ、市女笠を被る。寺詣でが割と好きなので徒歩の身なりは着慣れてはいるが、まさかこんなことを命じられるとは思わなかった。
殿のお車が出られたのを確認して、他の門からこっそりと私も後を追う。雑踏の中を歩いたり、お方様の後を付き従ったりするのは寺詣でや稲荷詣でと同様だが、行列の後をこっそりと付け回して歩くなんて、当然生まれて初めてだ。
気取られぬように行列の後をつけるなんて、まるで盗人にでもなったみたい。道行く人々に私はどんな風に見えていることか。こんな事、もし助政に気づかれたらなんて思われるだろう。いや、それ以上に殿に知られでもしたら……。
気がつけば背中に異様な汗をかいている。胸は早鐘のように鳴っている。ここは神聖な寺の参道ではない。都の町中だ。身に染みてしまったお方様から分けていただいた上質な薫香の香りが気にかかる。質素な身なりにしたつもりだが、卑しい者が匂いを嗅ぎつけ、襲い掛かりはしないだろうか?
それどころか私の怪しい素振りに、検非違使などの役人に呼び止められたりはしないだろうか?
そんなことになったら、私はなんて言い訳をすればいいのかしら?
ああ、初瀬や長谷の観音様。清水や鞍馬や他のどの寺の仏様でも構いませんから、どうかわたしを無事に過ごさせてくださいませ。いいえ、それよりも、今日は殿が女のもとへ行きませんように。殿の御兄弟や、御友人の邸に行ってくれますように……。
そんな我が願いもむなしく、行列は都の外れへと向かっていく。大きな邸は姿を消して行き、庭の小さな邸や庭すらない小さな家が増えていく。行列は完全に下町に向かっている。
車はさらに小路に入った。小さな家が隙間なく立ち並ぶ、ごたごたした印象の場所だ。そしてその一軒の家の前に車が止められた。慌てて何かの荷の影に隠れる。
覗き見るとその家にはもちろん門などなくて、直接人が戸を開けて助政と応対している。
まさか……。いくら身分が低いといっても、これほど町はずれの庶民の住む家の女と殿が正式に結婚したなんて……。元の小国の受領の娘とかならともかく、いくら何でも……。
しかし、無情にも居心地悪げな随身さえ差し置いて、殿ご自身がさっさとその家に入られていった。車を置いておける場所もないために、お付きの随身一人を残し、助政も含めて皆車と共に返されてしまう。
これじゃ、噂にならない方がおかしいわ。良い女君とお聞きしている時姫様や、都屈指の美女とうたわれるお方様を差し置いて、このような殿に不似合いなところに住む女のもとに通っていらっしゃるのだもの。
これはお方様には屈辱的すぎる。いったい、どうご報告して差し上げればいいのだろう……?
私は途方に暮れたまま、心ここにあらずで邸に帰った。お方様の前に出てもどう言えばいいのかわからず口ごもっていたが、その様子にお方様は察しがつかれたらしく、
「くちなし。私はあなたの口からききたくて、あなたに後をつけさせたのですよ」
とおっしゃった。私もついに観念して、
「殿は……下町の……どこそこというところに……お車を止められました……」
とお答えした。私の顔色と場所の名を聞けば、それ以上の詳細はいらなかった。
お方様はその後気分が悪いと言って臥せってしまわれた。
その二、三日後の暁頃、邸の門の戸を叩く音があった。殿がいらっしゃったらしい。
内裏の宿直が嘘だったのだから、こんな時間に訪ねてくるということは、あの女の所から直接こちらに来たということだ。こちらに知られていないと思っているらしく大胆な行動ではあるが、そこがなんとも殿らしい。
だがお方様は傷心のどん底にいらっしゃる。決して戸を開けてはならぬと厳しくおっしゃった。当然のとこだろう。どうしても戸が開かないので、助政が私を呼び出した。
「どうしたんだよ。こんなに早くに殿が女君を訪ねて来たのに」
何も知らない助政に、私はお方様が殿の嘘に気づいていること、私自身が殿のお相手を確認したことを知らせた。
「そうか……。じゃあ、今日は入れてもらえそうにないな」
助政はあきらめたように言う。
「待って! 帰らないで。せめてお方様のお怒りが解けるのを待って、誠意を見せて欲しいの。そうすればお方様も少しは……」
「無茶言うなよ。たとえ戸が開くまで待ったとして、その後どうするんだ? 殿はどんな顔してお方様に会えばいいんだよ」
「それは……」
「今、女君になじられでもしてみろ。殿のことだ。余計ムキになるだろう。相手のことを知られてしまったのなら、そう伝えるしかないだろうが、あまりいい方向には向かわないだろうな……」
「だって……!」
いたたまれなさに思わず声を上げた私に助政がポンポンと肩をたたいた。
「気にするな、お前のせいじゃない。俺だって殿に頼まれれば言う通りにしただろう。男女の心のすれ違いなんてこんなもんだ。俺なんていつもこんな役回り専門だ。女君のお怒りは深いだろうが、殿の戯れ心はいつか終わる。それまでにお二人が仲直りできるようにすればいいんだ」
「でも、お方様の傷はとても深いわよ」
「それは殿もわかってるよ。わかっているからこそ……厄介なんだよなあ」
結局殿はその後、あの女のもとに戻ってしまったらしい。それも仕方がない。ここにいられないなら、時姫様の所にはもっと行くわけにいかないだろう。
しかしそれはよりお方様に屈辱を与える事になる。どうも助政の言う通り、ことはいい方向に運んでくれないようだ。