第89話 レイテ沖海戦
1547年(豊新元年)8月25日 レイテ沖 山本勘助
帆船の甲板に立てば、どこまでも広がる紺碧の海が目に飛び込んできた。空は抜けるような青さで、真夏の太陽が燦々と降り注ぐ。
潮風は頬を撫でるように心地よく、湿気を帯びた生暖かい空気が、南の島々特有の甘やかな香りを運んでくる。
遠くには、緑豊かな島影がいくつも浮かんでいる。島を取り囲む白砂の海岸は、陽光の下でまばゆいほどに輝き、その沖には、海の底まで見通せるほど透明な青緑の浅瀬が広がっていた。水中には、色とりどりの珊瑚礁が花園のように広がり、その間を色鮮やかな魚群が悠々と泳ぎ回っているのが見える。
穏やかな波と心地よい風、息をのむほど美しい景色。帆は真っ白に膨らみ、船は波間を滑るように進んでいく。
本隊より別れた17隻の帆船から成り、呂宋の南セブ島に有るセブ王国へと進物を届ける命を受けたこの分艦隊の航海は正に、順風満帆、驚く程に順調である。
しかし
幾ら順調とはいえど、この有様は無いのではなかろうか?
この分艦隊の旗艦・武蔵の甲板を見ると、其処には粗い木製の甲板に直接寝転がり、腕を枕にしながら空を仰ぐ者、吹き抜ける心地よい風に身を任せ、波の揺れに誘われるように、うつらうつらとまどろんでいる者、海に向かって釣り糸を垂らしている者、少し離れた場所では、何人かの男たちが輪になって座り、サイコロを振る音や、陽気な笑い声が響き渡る。
それは、まあ良いだろう。酒は飲んでおらん様だし、既定の見張りをちゃんと立ててある。軍規には違反はしていない。
しかしじゃ
甲板の真ん中で長椅子と脇机を持ち込み、日傘を立て褌一丁で寛ぐのは、やりすぎじゃと思うのじゃ。
それも、兵士達の規範たるべき軍長が行っておるとなればな。
此処は、長尾家・筆頭軍師たるこの儂が一言、物申して置かねばなるまい。
「武田殿、長野殿、少しよろしいか?」
「ん?おぉ!軍師殿では有りませぬか。こんな格好で失礼仕った。」
「山本殿、南国の日差しは暑う御座る。日陰に入られるが良かろう。」
竹で織られた長椅子でキセルを吹かしていた元甲斐守護職・武田信虎と長椅子でまったりと読書を楽しんでいた【上州の虎】の異名を持つ長野業正、2人の褌姿のジジイが、古傷だらけの鍛え抜かれた躰を此方に向けた。
流石は、歴戦の名将達こんな格好ですら、中々の迫力だ。
少し胃がキリキリ痛むが此度、殿より仰せつかった儂の御役目は、こ奴等の目付けよ。気押される訳にはいかん。
「御二方、大事な御役目の最中、その有り様は余りにも寛ぎ過ぎでは無かろうか?」
「あははは、軍師殿が言われる事はごもっともであるが、規定以上の見張りも立てておる。我等も決して油断しておる訳では無いのだ。」
「左様、戦では減り張り(メリハリ)が肝要、力を抜くときは抜かねば肝心な時に役に立てませぬぞ。」
うむ。確かに正論では有るが…褌姿で言われても響かぬわ。
「とは申されるが、兵の指揮官たる軍長にはそれなりの節度や規律が求められよう。」
「その通りであるが、我等上官が力抜かねば、兵も安心して力抜けぬでは御座らんか?」
「山本殿は、生真面目過ぎでござりますな。それでは、胃の腑を痛めますぞ。殿の姿を、思い出して見られると良いのではないかと。」
むぅ。確かに戦場での殿の姿を思い浮かべてみると……確かに、余り真剣見は感じぬやもしれぬが……儂が間違っておるのか?
いやいや、殿を初めとして破天荒な者達が多い長尾家においては、数少ないといえど、儂の様な常識派も必須の筈じゃ。
殿もそう考える故に、儂をこ奴等の目付けとして付けたのであろう、此処で言い負かされる訳にはいかぬ。殿の御期待に、儂は応えねばならん!
あぁぁ。胃がキリキリキリと痛い……
と、儂が痛む胃の腑に鞭打って反撃を試みようとした時
帆柱の見張り台に立つ、見張りからの甲高い警告の鐘が鳴らされた
「左舷前方の島影より、多数の所属不明船!その数、100……いや200隻を越えます!」
「ほう。やっと、参ったか。」
「かかかか。待ちくたびれたわ!」
見張りからの報告と同時に、肉食獣の様な凶悪な目付きに様変わりするジジイ。
「進路を北に向けろ!」
「石弓砲、装填準備急げ!」
先程までのだらけ切った様子が嘘の様に、瞬く間に軍装に袖を通すとテキパキと水兵に的確な指示を与えていく。
「中型船が40、大型が15、残るは小型が150、兵力は1万5千と云った所かの。」
「船足は、小型船は我等より優り、中型・大型船は我等より劣っておるようですな。」
望遠鏡を覗きながら、敵の戦力を冷静に分析する姿は流石だ。
「船の性能こそ此方が優っておりましょうが、此方は17隻とその戦力は大きく劣りまする。此処は……」
「軍師殿、判っておる。此処は、逃げの一手よな。」
「逃げながら、突出して来た海賊共を、石弓砲にて海の藻屑としてやりましょうぞ。」
うむ。判っておるなら良いが…少々浮かれすぎでは有るまいか?
うっ…胃が……帰ったら、舞殿に新たな胃薬を調合して頂かねば。
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ドドド~~ッン!
ドッカ~~ン!
「ガァハハハハハハ!海賊共が、まるで塵の様に海を漂っておるわ!」
「クワハハハハハッ!軍師殿よ。この業正の一撃、その眼でとくと、ご覧になるが良いぞ!」
船の後部の石弓砲の射手を、追い出して自ら子供の様にはしゃぎながら、海賊共の船を沈めていくジジイ共。
うむ…かつての苦い記憶が思い出される様な光景じゃ…
それはさておき
我等が逃げ、それを追いかける敵艦隊との追いかけっこが始まってから既に2時間余り、足の速い敵の小型船との距離は縮まっては来ているが、我が船団に肉薄するまでには至れていない。余り近づき過ぎて、石弓砲の射程に入ろうものなら、忽ち今の様に石弓砲の斉射の餌食で海の藻屑だ。
既に、敵の小型船30隻程が轟沈し、敵の小型船と船足の遅い中・大型船との距離は大きく離れている。
楽しそうなのは何よりであるが、このジジイ共は本来の目的を忘れては居らぬか?
「御二方、余りやり過ぎて敵が追撃を諦めたならどうなされる?我等の御役目を忘れてはなりませぬぞ。」
「ハハハハハ。それは申し訳御座らぬ。少々、はしゃぎ過ぎた。」
「うむ。海戦も思うた以上に心躍るものでな。しかし山本殿、どうやら我ら無事に御役目を全う出来た様じゃぞ…」
長野殿が見据える後方に眼を向けると
敵小型船の遥か後方に位置する、敵の中・大型船の何隻かが大きな火柱を上げて、次々と炎上していくのが見えた。
「逃げるのも、いい加減飽きたのう。」
「カハハハ。敵勢は随分と慌てふためいておりまするな。」
「ふぅ~。御二方、存分に暴れ回るがよろしい。ただし、やり過ぎは厳禁でござるぞ。」
1547年(豊新元年)8月25日 レイテ沖 春日将次郎
「流石は、筆頭軍師の山本殿と名将と名高い武田殿と長野殿、囮として見事に御役目を果たされましたな。」
副軍長・富永 直勝の言葉に頷く。
「ああ。流石です。次は我等が役目を果たす時、敵艦隊を殲滅せよ!」
我等、東海水軍100隻の前方には敵艦隊の主力である中・大型船50隻余りが無防備な後背を晒している。
殿が流した
『セブ王への進物の莫大な財宝を満載した船団がセブ王国に向かう』
と云う情報にまんまと釣られた欲深い海賊共が、殿の策に見事に嵌められた形だ。
呂宋北部で、越後水軍と別れた我等、東海水軍と南方水軍は東周りで呂宋を廻り、予め決められていたこの海域で満を持して、囮艦隊が海賊を引き連れて現れるのを待ち受けていた。
それにしても、殿の策略の冴えは相変わらずよな。
殿とはもう長い付き合いとなるが、まるで未来が見えているかの様な、その智謀には時折、空恐ろしさを覚える程だ。
所詮は俺の様な凡人には、とても理解出来る御方では無い事は判っているが、俺も妹の美雪も家を家族を失いどん底で命までも失う所を助けられた上に、まるで家族の様に迎えられて、此処まで引き上げて頂いた。
妹は殿に一目惚れした様だし、俺は今では弟…いや、兄の様に思っている。
この殿に付いて往くのは、凡人の俺では大変だろうとは思うが、
俺はこれからも、あの人と共に在りたい。
共に、進んでいきたいんだ。
「東方より、南方水軍!」
「敵艦隊の逃走経路を塞ぐ形ですな。絶妙の動きですな流石、鈴木殿です。」
「我等も、遅れを取るなよ!東海水軍の勇名を、世界に轟かせよ!」
次々と火柱を上げて轟沈していく海賊船。
フィリピン中部、レイテ島沖で行われたこの海戦は、日本水軍の完勝に終わり、結果としてこの地域における日本の影響力を飛躍的に高めた海戦として後世に伝えられることになる。




