第75話 努力
1547年(天文16年)1月下旬 越後春日山城
指でそっと触れると、ほんのり暖かく心が安らぐ、不思議な柔らかさと優しい弾力がある。そしてきめ細かくて、なめらか。 そっと撫でると、吸い付くような、しっとりとした感触。何時までも触れていたいと思わせる魔性が、其処にあった。
「ほんに、愛い奴よのぅ~」
「……と、殿…お、お止めくだされ。」
「フフフ。良いではないか〜良いではないか〜」
「⋯⋯旦那様、何時まで、竹千代と遊んでいるのですか?」
「新様⋯また新たな書類の山がやって参りました。」
「はい。この山は、中将様の担当ですからね。」
「⋯⋯⋯はい。頑張りマス⋯」
地獄の様な書類の山との格闘に疲れ果て、たまたま近くを通り掛かった竹千代君5歳の頬を突いて、バカ殿ゴッコで遊んでいたら嫁達から白い目で見られた。
少し位、良いじゃ無いかよ〜
春日山城に凱旋して3ヶ月が経とうとしている。春日山にて缶詰状態でこの書類の山々と格闘し続けているが、この地獄の様な仕事量は一向に減る気配を見せない。というか、寧ろ増えてないか?
そんな悲惨な状態が既に3ヶ月、俺の心が少しくらいの癒しを求めたとしても、それは致し方無い事ではなかろうか!
「旦那様、手が止まっています。」
「⋯はい、すいません⋯」
むむ。千代に睨まれた⋯
大人しく、仕事をするとしよう。
「お殿様、竹千代もお手伝い致しまする。」
「おお。竹千代は良い子じゃな。じゃが、もう少し大きく成ったら頼むとしようか。」
舌足らずにも、健気に俺の手伝いを申し出てくれる5歳児、思わずその小さな頭を撫ぜてしまう。実に素直で良い子である。
こんなキラキラとした目をした健気な少年が、将来はあの狸爺になるとは未だに信じられんな。
この竹千代君のフルネームは、松平竹千代。
そう、史実では三英傑の一人にして後の天下人となった、徳川家康の幼き姿である。
何故、後の天下人になる様な人物が春日山に居るかというと、この時代の松平家は竹千代の祖父・清康が家臣・阿部正豊に殺害されて以降、没落の一途を辿っており清康の後を継いだ竹千代の父・広忠も尾張の織田と駿河の今川といった勢力に挟まれて、何とか今川の庇護下の元で、生き残る道を選ばざるを得ない状況だった。
その松平家を庇護していた今川家も先頃の戦で長尾家へと吸収され、結果松平家は生き残りの為に次の庇護先にうちを選んだ訳だ。
そして、要らんと云うのに竹千代を人質として春日山城に送ってきた。
そもそも、うちは人質等とっては居ない。人質等取っても裏切る奴は裏切るから何の意味も無いと俺は思っている。
だが、突き返す訳にもいかんので暫くはうちで面倒をみることした。現在松平家は、うちの庇護下に入る事となり、尾張の織田には一応
『松平家には、手を出さないでね!』
と、伝えて置いた。
織田も、うちと本格的にやり合う程、馬鹿では無い筈だが。
松平家については、内政関連が落ち着いたら長尾家の直臣として取り立てていくつもりだ。
「早く大きく成って、お殿様のお手伝い頑張る。」
「よしよし〜飴玉食べるか?お小遣いは足りてるか?」
「旦那様⋯⋯。」
「なんというか⋯新様は随分と老成されてますね⋯」
「うちの実家の、おじいちゃんみたいですわ。」
今度は、嫁達に呆れた目で見られてしまった
仕方ないだろ……前世を加えればこっちは60越えてるのよ。
「はぁ~、少し休憩と致しましょうか。」
「お茶を運ばせて参りましょう。」
「この仕事量も、おそらくは即位礼まで、なんとか持ち堪えましょう。」
はい。正直もう限界です……糖分が欲しいっ。
現在の春日山城は、予想通りの非常事態体制に入っている。
その中には文官達だけでなく、一部の武官や当然、俺までもが含まれているいる。
城の廊下を歩けば、目の下に隈がる文官達とすれ違うが、皆さん死んだ魚の眼をしている。そして、俺ももうすぐ100連勤である。
もう嫌……ブラック過ぎる。
流石に、今回はヤバイ。
このままでは、マジで文官たちから謀反やストライキを起こされかねん。
なんとか、ボーナスや繁忙期後の連休をチラつかせて文官達を宥めてはいるが、その効果も薄まってきている為、次は間もなく完成予定の妙高の温泉保養施設への優先招待を餌にする予定だ。
諏訪ちゃんの言う通り、この異常な程の仕事量も間もなく減少に転じるとは思っている。仕事量の大幅な原因一つである、現帝・後奈良帝の【即位の礼】の準備に間もなく、凡その目途が付くためだ。
実際には後奈良帝の即位式は既に10年程前に行われているが、当時朝廷にはまともな即位式を上げる余力が無く、その即位式は実に質素でみすぼらしい式であったそうだ。それを悔いていた公卿・西園寺 公朝から改めて現帝の即位礼を大々的に行いたいと云う要請を受けた。
その要請は、長尾家が新たな朝廷の庇護者と云う事を天下に知らしめるには絶好の機会と云える。とても、断る事は出来ない。
即位礼を執り行う日は4月1日、既に全国各地の大名には関白・一条 房通と俺の連名にて即位礼への参加を促す書状を送り付けてある。
参加を強制する心算は無い。式に参列するなり代理を建てるなりするなら良し、黙殺するなら後々朝敵として討伐対象候補となるだけだ。
「此度の即位礼、どれだけの方々が参加するのでしょうか?」
「西国の大名家は、流石に難しいのでは?」
「おそらくは、公方様も列する事は無いかと。」
女官が淹れてくれたたっぷりと砂糖の入った紅茶を、上品に飲みながら嫁達が話している。
「公方は、流石に来ないだろうな。西国の大名も距離的に難しいが、多少でも先の読める家は使者位は出してくるかもな。」
「中将様は、この即位礼を敵の判別に使われる御心算ですわね。」
「まあな、直ぐに攻め滅ぼす事は無いが、後々には戦を仕掛ける良い口実となる。」
「中将様……少々、お尋ねしたい事が有るのですが、よろしいでしょうか?」
「ん?構わんぞ。」
なんか、諏訪ちゃんが真面目な顔で此方を見てくる。
「ありがとうございます。間もなく、日ノ本は中将様の手によって統一される事と成りましょうが、中将様はどのような統治体制を考えておられるのですか?」
「……それは、帝や公卿の扱いについて言っているのか?」
「はい。差し出がましいとは思いますが、その……」
「うん。余り朝廷が権力を握り過ぎるのは、統治に支障をきたすな。」
「……はい。そう愚考致しますが。」
今まで、その辺の事は嫁達とも殆ど話してこなかったからな。
諏訪ちゃんの心配も良く判る。正直、今の朝廷にはとても日本を統治するだけの力は無い。権威・軍事力・経済力・人材・知識・理念、国家を統治する上で必要な物で、権威以外は全てが足りていない状況だ。
知識が無いものが、政治や国家の運営に口を挟むことは害悪にしかならないからな。
「うん。ここで、ハッキリと言っておくが、俺はたとえ帝で有ろうと関白であろうとも国政に口を出させる心算は無い。国政・軍事は適切な知識を持った、有能な者が行う。帝にはその任命や、国の祭祀を執り行って頂く。」
帝の在り方は、戦後の日本に近しい形が良いと俺は思っている。戦前の様な立憲君主制度では、軍部の暴走を止められなかった。天皇には、日本の象徴として長きに渡り君臨して頂く、政治軍事における失敗は、全て執り行った者達の責任となり、天皇にまでその責が問われる事は無い。それが、帝にとっても日本にとっても一番良いと俺は考えている。
「う~ん、権威は与えるが権力は与えないと?それで、納得されるでしょうか?」
「納得して貰うしかないな。これからの時代は、政治や軍事はその専門家が行う。」
帝はともかくとして、今の貴族は平安時代末期から鎌倉時代にかけて公家の家格が固定化され、家柄によって昇進できる官職が限定されている。以来、その家の序列により家格が形成され、家格が低い者がどんなに才能に溢れ努力しても、定められた官職以上には就くことが叶わない。完全に硬直し既得権益化してしまっているのが、今の朝廷であり貴族達だ。
俺は、今の貴族達には古き文化の継承以外に、特段価値は見いだせない。
暫くは援助はしていく心算だが、家柄だけで食べていける時代は終わった。と云う事は理解して貰う必要がある。新たに実用的な事を学び努力するなら、幾らでも援助をするし、うちで取り立て重用もするが、そうでないなら数代も経たずに幾つかの家は、消えていく事になるだろう。
「あらあら。それは貴族の方々には、随分と厳しい時代にはなりそうですね。」
「努力すれば良い。それが出来るならば、幾らでも取り立てる。」
「さあ、お仕事ですよ、旦那様。私達も努力致しましょう。」
「………………はい、努力致しマス」
こうして、俺は山と積まれた書類との格闘を再開した。




