4-3
春の夜風はほんのりと肌を冷やす。月は隠れて闇が深い中、ゼフィールは寝室の机で蝋燭の明かりを頼りに、未だ書きかけの手紙を前にしてペンを握っていた。
何をどう書けばリズが喜ぶのか。今まで何度かペンが進まないことはあったがここまで悩むのは滅多にないこと。何度書き上げても納得できず、没にして丸めて捨てた羊皮紙はゴミ箱を埋め尽くそうとしている。
静かな夜にゼフィールのため息はよく響いた。
そして。
「陛下・・・」
ここにいるはずがない人物の声に、ゼフィールははっとして後ろを振り返る。
「あの・・・ごめんなさい・・・」
纏めていない黒い髪を腰まで垂らし、緑色の瞳は控えめにゼフィールの顔をチラリと見た。小さな声は震えていてその存在は今にも消えてしまいそうなほど儚く、闇に浮かぶ白くて華奢な体も相まってそこに確かに存在しているのか不安になるほど。
タイトな白い下着は肌に張り付いて、生地が薄いために彼女のピンク色の乳房が透けて見えている。
「リズ・・・」
ゼフィールは椅子を蹴るように立ち上がり、あられもない格好で自分の寝室へ入って来たリズを見た。どうやってここまで入って来られたのか。・・・いや、今はそれはどうでもいい。
「陛下・・・」
リズは言い辛そうに俯いて視線をさ迷わせる。
ゼフィールが一歩だけ彼女に近づけば、リズはその場から動かずゼフィールの出方を伺っている様子。
「・・・寒くはないか」
「はい・・・」
「・・・そうか」
声をかけたがリズに敵意もなければ嫌悪も感じない。怖がらせないようにゆっくりと手を伸ばせば、触れた彼女の頬は温かく滑らかな感触がした。目を細めてゼフィールの手に擦り寄るような彼女の仕草に、思わずごくりと喉を鳴らす。
「何故ここに・・・」
薄着で男性の寝室に入るのだから目的は明らかだったが、ゼフィールは目の前の出来事が信じられなくて訊ねずにはいられない。
恥ずかしくて答えられなかったのだろう、リズは顔を真っ赤にすると唇を引き結んで俯いてしまった。頬に触れていた手でそっと彼女に上を向かせれば、うるうると揺れる緑色の瞳がゼフィールの顔を映し出す。
どちらともなくそっと重なった唇に、まるで壊れ物を抱くかのようにリズを腕の中へ収める。小柄な彼女はすっぽりと包み込まれて小さな両手がゼフィールの胸の上へ置かれた。
仮面パーティーの時のような激しさはなくとも身を焦がす熱の熱さは変わらない。角度を変えては何度も重ね合わせ、途切れ途切れになるリズの息を浚うように奪っていく。柔らかく、温かく、これ以上の幸せはないように思えた。
「・・・いいのか」
このまま奪っていいのかと問うゼフィールに、リズは耳まで真っ赤にした顔をゼフィールの胸の埋めて小さく頷いた。
高ぶった感情のままゼフィールが手を彼女の背中に這わせれば、スッと音も無く彼女が腕の中から消え失せる。
何が起こったのか理解できず驚いて身を引けば、彼女は何故かゼフィールから一歩離れた場所へと後退していた。
「どうした・・・?」
そして。
パシーン、と大きな音が響き、リズの小さな手がゼフィールの左頬を張る。あまり痛くはなかったが驚いて左頬に手を当てるゼフィール。目を大きく見開いて、何故、と無言で彼女に問うた。
「酷い、私を騙してたんですね・・・」
「何の話だ?」
「とぼけないでください。今までずっと、良い人のフリをして手紙を寄越すなんて・・・!」
リズが言っているのは文通のことだと思い至る。
「あれは・・・」
あれは、ただ全てを失ってしまったリズが心配で少しでも慰めになればと送ったもの。下心があったわけでも、ましてや騙すつもりだったわけでもない。
「名前は明かしていないのに何故・・・」
「筆跡ですよ」
リズは先ほど愛に浮かされて潤ませていた瞳を、今度は憎悪の色に染めてゼフィールを睨みつける。彼女にこんな目ができたのかと、そしてそんな目をさせているのは自分の所為なのかと、ゼフィールは軋むような痛みを覚えた心臓に眉間を寄せた。
「黒薔薇の手紙と、姫様へ贈った陛下の手紙の筆跡が同じでしたから」
「そうか・・・」
失念していた。エレノアへの手紙は古語文字だから問題ないと思っていたのだが。
「酷い、ずっと騙してたなんて・・・!」
リズは堪えきれないというように頭を抱える。ゼフィールは手を伸ばそうとして彼女に触れるのを思い留まり、宙に浮かんだままの手をぐっと握り込んだ。
「違う、俺は・・・」
「嘘つき」
「リズっ、俺はただ心配で―――」
「私から全てを奪ったあなたに心配なんてされたくありません。屈辱しかない」
決定的な拒絶の言葉に、ゼフィールは足元が崩れ落ちる感覚がして絶望した。自分が良かれと思ってしたことが彼女をこんなにも苦しめるなんて。
「リズ・・・リズっ」
喉の奥から絞り出したような乞う声は、リズの心には届かない。
「・・・死んで償ってください」
いつの間にか彼女の手にある短剣が、どすっという鈍い衝撃と共にゼフィールの胸元を貫いた。
コロリ、と軽い音を立てて転がるペンの音に、ゼフィールは書きかけの手紙の上で突っ伏すように眠っていたことに気が付いた。
額に浮かぶ汗を袖で雑に拭えば、夢の中で起こったことを鮮明に思い出して大きくため息を吐き出す。
最近、頻繁にリズの夢を見る。リズと愛し合い、その後彼女に突き放されるという内容だ。崖から落ちるのを冷たく見下ろされることもあれば先ほどのように刺殺されるパターンもあった。
ベッドで愛し合った後に布で首を絞められるという夢を見た時は、目が覚めた後しばらく放心状態になって身動きがとれなかった。夢の中だというのに彼女の肌の感覚や声までも全て鮮明に覚えていて、罪悪感のあまり朝の食事が喉を通らなかったのはまだ数日前のこと。
これは何かの暗示なのか。夢に意味を持たせるのは無理だと理解していても、似たようなものばかり見るのだから何かしら原因がありそうだ。もしかしたら仮面パーティーでの一件を自分が思っているよりもずっと引きずっていたのかもしれない。
夢の中でリズに平手打ちされた左頬は、突っ伏すように寝ていたため机に押さえつけられて軽くじんじんとした痛みがある。手紙を書き終えてしまおうとペンを握りなおすが、まだ夢の中の衝撃から立ち直れず手が震えて力が入らなかった。
このまま手紙を書き続けて良いのか。
最初はあまり深刻に考えていなかった。知らない男が書いた黒い薔薇の縁起が悪い手紙など悪戯と捨て置かれるかもしれないと。
しかし両親や友人、名前や貴族としての暮らしの全てを失ったリズの悲しみは深く、誰でもいいからすがりたかったのだろう、彼女はすぐに正体不明の相手に心を許した。手紙が心の支えだと断言するほど今の彼女にはなくてはならない存在になっている。
しかし手紙に救われたのはゼフィールも同じ。
王という立場に辟易していたゼフィールは手紙の中でだけ"王ではない誰か"になることができた。だから自分では考えられないような優しい言葉がスラスラ書けたし、まるで救世主のようなフリをして綺麗事を並べることができた。なりたいと思う人物になりきって、思いつく限りの優しい言葉を書き連ねた。
そうすればリズが喜んでくれた。返事を書いてくれた。柔らかい文字の可愛らしい手紙は社交辞令や事務的な紙に埋もれていたゼフィールにとってどれだけ癒される存在だったか。
しかしどれだけ手紙で心を通わせたとしても手を伸ばすことは叶わない。近くにいても素知らぬ顔をして、ただ紙の上の文字でリズを支え続ける。
ゼフィールは改めて手に力を込めてペンを握りなおす。
この状況は使命なのか、それとも罰なのか。いずれにせよ彼女に夢の中のような絶望を味わわせないためにも、絶対に正体を明かしてはならない。





