第2話『叡智のあかり』
開いた目に一番初めに飛び込んできたのは、美しい虹色だった。
窓の向こう、空にかかる雲の一部が虹色に輝いている。
雲がゆったりと動く度に虹色に輝く部分が移り変わるその様子は、いつまでも眺めていたいと思うほど美しかった。
呆けたように美しい光景を見ながらの穏やかな心持は、しかし突然の異変に遮られた。
「いたっ!」
左の手首あたりが強烈に痛い。私は左腕を抑えながらじたばたと暴れる羽目になった。
「いいいいいい痛っ! ぅわ! たっ!」
痺れるような痛みは断続的に続いて、いちいち声をあげてしまう。痛みを発散するすべもなくむやみに床を転がると、ある時を堺にふっと痛みが遠のいた。
「ひぇぇ……。なんだったの……」
涙ぐむ私の頭は、今やはっきりと覚醒していた。
壁際まで転がってきたのを幸いと、壁に手を当てなんとか起き上がる。寝起きで暴れたせいか、慣れない痛みに苦しんだせいか、ちょっと頭がクラクラしている。
痛みを訴えていた手首をさすろうとするが、腕輪の冷たい感触に遮られた。そういえば、痛みを感じたのは腕輪が肌に触れている辺りだ。突発性金属アレルギーとか、そんなものがあるのだろうか。
腕輪を外そうとしたが、うまくいかない。はめる時はものすごくスムーズだったくせに。
「……というか。ここ、どこ?」
やたらとシンプルな部屋に私はいた。
円形のそう大きくはない部屋で、大股で3歩も歩けばゆうに部屋を横切れるだろう。天井は平らではなく半球形をしている。
石の壁にはそっけなくくりぬかれただけの大きな窓が二つ。窓から外を覗いてみれば、起き抜けに見えた虹色がまだ見える。夢のような光景だが、夢ではなかったらしい。
しかしそれよりも、いまは我が身の置かれた状況の方が気がかりだった。ここは、ある種異常な部屋だ。
家具らしい家具はないが、下へと続く階段の他にものすごく気になるものが一つ。床に書かれたおかしな模様があまりにいわくありげで、一旦目に入ってしまえば視線が離せない。
(模様っていうか。魔法陣っていうか……)
石床の上に描かれたいかにも意味ありげな円形の模様は、よく見るとごく薄くだが光を放っていた。
その大きさと位置からして、私はこの上に寝ていたのではないだろうか。こんな怪しげなものの上に。
「う~~ん……痛っ」
好奇心に任せて手を伸ばしたら、魔法陣もどきにちょんと触れた右手の指ではなくなぜか腕輪のついた左手首が痛い。痺れるような痛みは、先程体験したのとまったく同じだ。
魔法陣から離れると痛みは消えた。
(なにこれ怖い……)
できるだけ距離をとってから、私は意味がわからないなりに床を見つめてみた。
じっくり観察したところでその魔法陣の意味するところはひとかけらも読み取れなかったが、変化には気がついた。陣を形成する線が消えていくのだ。
一筆で絵を描く場面を録画して、逆再生しているような消え方だった。薄っすらと発光していたその光ごと線がするすると消えていき、最後に外周の円が消えるとあとには何も残っていない。
おそるおそる魔法陣があった辺りに手で触れてみるが、今度は痛みは走らなかった。
狐につままれたような心地でいた私の耳に、扉を開ける音が響いた。
ギィィィと、重苦しい音は階段の下から聞こえる。それから間を置かず階段を登ってくる足音。
私は大いにビビり、隠れる場所もない部屋の中で階段からできるだけ離れた石壁に背中をひっつけた。そして階段口を凝視する私の目に写ったのは――。
(メ、メイドさん??)
シンプルな黒いワンピースに白いエプロンを着けたその姿は、日本のサブカルチャーに浸かった私には正しくメイドさんに見えた。ただしヘッドドレスは着けていない。
白でも金でもなく銀だよねそれ!?という色合いの髪は、後頭部はベリーショートくらい短いのにサイドだけさらりと長い。
少し変わった髪型だが、可愛い子はどんな髪型でもかわいいの法則が生きている。目の色なんか、透き通るような淡い水色だ。身長は私と同じくらいで、顔立ちからするとおそらく年下だろう。
「私の言葉が理解できますか?」
彼女の唇から発せられた質問に、私は戸惑いながら「えぇと。はい。もちろん」と返した。
彼女は私の受け答えに頷くと、まるで私が口を開くのを封じるように、間を置かずに続けた。
「ご質問にはあとでお答えいたします。今はどうぞお急ぎください。皆様すでに『嚆矢の間』にてお待ちです」
言うやいなや彼女は私との距離を詰めると、白く細い腕に見合わない力で手を引いてきた。私は反応しきれずたたらを踏む。どうやらどこかしらに移動しなければならないらしいということだけが分かった。
腕をひかれるまま暗い階段を降りて、扉を抜けて、更に階段を降りる。建物の外に出てからやっと、自分が居たのが筒型の塔の最上階だったと知る。なんであんな場所にと考えているうちに、今度はやたらと大きく立派な建物の中に連れていかれた。
そんな具合であれよあれよという間に、私はメイドさんに服の上から着せられた赤茶色のローブを纏い、重そうな扉の前に立たされていた。扉の左右には私が着ているのと同じようなローブ姿の男の人が一人ずつ立っている。
この扉の中がどうやら『こうしの間』という所らしい。
メイドさんは扉の向こうに声をかけると道を開けるように私の前からさっと退いた。
そうして私の眼前で、扉は開かれた。
部屋の中は薄暗く、廊下の明るさとの明暗は強烈だった。
開かれた扉から部屋へと差し込む明かりを背負う形になった私の眼には、照らし出された手前の一部分を除けば部屋の中の様子はほとんどわからない。
そんな私の背を押したメイドさんとともに部屋の中へと数歩足を進めれば、背後で扉が閉まっていく。ギ、ギ、ギと響く音がどうにも重々しい中、メイドさんは音もなく壁際に寄った。私は腕を引かれなかったのでそのままだ。
扉が完全に閉まると、部屋の中は一時静寂に満たされた。
だんだんと部屋の暗さに慣れてきた私の目に、部屋の中の様子が見えてくる。なかなかに広い部屋だ。
まず何より目につくのは、部屋の中央に置かれた大きな円形のテーブル。『テーブル』なんて表現は軽々しすぎるかもしれない。『円卓』とでも呼ぶべきか。
中央が空いた輪っか状の卓ではなくて、円そのままの天板なので表面積がやたらと広い。その広い天板の中央部分には複雑な模様が彫り出されていて、それが部屋の数少ない光源である燭台の明かりに照らされ目を引く。
鑑賞にも耐える大きな家具の存在感が強すぎて、この部屋の主役はこの円卓そのものであるような印象を受けた。
円卓の周りには二十脚ほどの椅子が配置されているが、ほぼ空席。たった一人だけ、灰色のひげをたたえた威厳ある顔つきの老人が、部屋の一番奥側にあたるひと際立派な椅子にこちらを向いて腰かけていた。
それ以外にもそれなりの人数が部屋の中にいたが、なぜか円卓には着かず、壁際に並べられた椅子に座っている。全員フード付きのローブを羽織っているので分かりにくいが、体型はバラバラで男女入り混じっているものと思われた。
(なんて怪しい空間なんだ……)
どうしていいものかわからず直立不動で立ち尽くす私の前で、老人がゆったりとした動作で立ち上がった。
その視線ははっきりと私を捉え、ローブから伸びたしわだらけの手が私を指さした。
「『愚者』の訪れは、すなわち試練の幕開けである」
しわがれた声が、静かな部屋に響きわたる。
「御印持ち、わが身を火にくべ鍛え上げんとするものは立て」
老人の言葉とともに、壁際の椅子に座っていた人たちが立ち上がった。
椅子に座ったままのものは、いない。
これで私やメイドさん含め部屋にいるすべての人間が立っていることになるが、もちろん私の心中は老人の声に答え自分の意志でもって立ち上がった人たちとはまったく異なる。
「意気ある者は、然るべき座へ」
老人の促しとともに、集団が円卓に向けて歩き出した。その確固たる足取りは、自分の座るべき椅子がどれかを知っている様子だ。
その流れに乗ればいいのか、無視していいのか。わからないまま立ち尽くす私に声がかけられた。
「――お前の席は、あそこにはない」
少しかすれた、低く響く声だ。
驚いて見上げた先の風貌に、私はぎょっとした。
暗い色合いのローブに関しては、今は人のことを言えない。しかしその人の場合フードから覗く長い金茶色のボサボサ髪で顔の上部と横が隠れている上に、同色の髭によって下半分が隠れている。つまるところ、顔がほとんど見えないのだ。暗がりで対面するには怪しすぎる風貌だった。
かすれた声の印象はわりと年齢がいっているようにも感じたが、こちらが威圧感を覚えてしまうほどの長身はまっすぐに伸びている。そのためになおのこと、年齢不詳である。
私がなにか返事をする間もなく、彼は踵を返した。そのまま円卓の一席、はじめから卓についていた老人の隣に腰を下ろし、そのあとはもうこちらを気にする様子はない。
なんにしても、私が円卓につく必要がないのは事実のようだった。老人を含め、円卓に座る人たちがこちらに注意を向けることはなく、突っ立っていた私はメイドさんに促されるまま空席になった壁際の椅子に腰を下ろした。
べつに仲間外れにされたくないとか、この儀式的ななにかに参加したいとかは思わないのだが。どうも釈然としない。実際のところ円卓には普通に空席があるのだ。
改めて数えてみると、円卓の席はちょうど20脚あった。そのうち8つの席が空席だ。端から順に座ったわけではないようで、時々空席を挟む形で12人が席についている。
12人は上座の老人と先程の年齢不詳男性を除くと、比較的若い男女の集まりに見えた。とはいえ決まりなのかなんなのか、フードをかぶったままなので容貌が分かりにくい。そもそも、この部屋には光源が少なすぎるのだ。
再び老人の話が始まるも、私は完全に上の空だった。
静かな部屋に響く老人の声はもちろん耳にまでは入ってくるのだが、どうやらここからは私に関係のない話らしいという他人事感に加え、老人が使う言葉が難しいので頭に入ってきにくい。
代わりに私の頭を占拠したのはもちろん、(私はなんでここにいるのか)という根本的な疑問だ。
天気のいい休日に、家を出て自転車を走らせた。ハプニングで川に飛び込む羽目になった瞬間のヒヤリとした心持ちまでたしかに覚えているのに、その後どうなったのかがまったくわからない。
川には落ちたのだろうか? だったらなぜ、服が濡れていないのか。
目覚めたときには自転車はもちろん、荷物の一つも見当たらなかった。リュックサックに入っていた財布は買い物用の、今月分の食費だけ入ったものなので失くしても痛手は少ない。でもスマートフォンが水没していたらかなり痛い。
いや、荷物のこともそうだが、いったいここはどこなのだろう。目が覚めた時にいた塔にも、まったく見覚えはなかった。
(痛かったなぁ……)
塔のことを思い出すと同時に、ズキズキと痺れるような感覚まで思い出してしまった。私は眉をひそめ、現在とくに異変の感じられない腕輪を見つめる。
『人生ナビ』だか『叡智のあかり』だか知らないが、なんとなく今日遭遇したおかしな出来事には、この腕輪が関わっていると思えてならない。だって、あきらかにこれを手にしてからいろいろ起こってるし。
叔父はいったいどんな意図でこれを私に送ってよこしたのか。
(そういえば目的地『異世界』とか言ってたけど、まさかね。……いや、まさか、だよね?)
頭に浮かんでしまった思いつきのせいで、胸のあたりがもやもやとして落ち着かない。
こんなおかしな発想に多少なり真実味を感じてしまうのは、この場の怪しげな雰囲気のせいだろうか。
はやくこんな会合は終わりにしてほしいと、心から思う。
意識と視線を円卓に戻すと、老人の話しぶりに少し変化があることに気がついた。
円卓に着くよう促していたときの、定型句を諳んじているような話し方ではなくなっている。語り口は相変わらず淡々としていたが、そこには隠しきれない熱のようなものが感じられた。
「――試練は、自らの心に打ち勝つためのもの。しかしその先にて、女神の与えたもうた宝物を手にするのはただ一人。これは神聖な儀式であると同時に、苛烈な争いそのものである」
なんか大ごとっぽいなと他人事として聞いていた私は、続く言葉に心底驚いた。
「闇に閉ざされた未来を照らし出す唯一の可能性にして、為政者のみならずこの世の誰もが希求する無二の宝。『叡智のあかり』はたしかに実在する。これを手にしたただ一人にのみ、勝利者としての光輝と、なにより輝かしい未来が約束されるのだ」
老人は長く続いた話を、「死力を尽くし、挑まれよ」という激励の言葉で締めた。これによってこの会合は終息したのだが、あいにく私はそれを喜ぶような心境になかった。
(女神の宝物? 無二の宝? そのたいそうなお宝と同じ名前のものが、私の腕にはまってるけど――――――大丈夫?)