Act.65「願い」
※病気・医療・ドナー等に関する描写は現実と異なる場合がございます。
恐れ入りますが、予めご了承の上お読み頂けますよう宜しくお願い致します。
屋上で再会したその後、俺は彼女を病室に送って来た。
彼女の病室は、入院病棟の一角にある小さな個室だった。
「ありがとうね、お兄ちゃん」
髪をほどき、病室のベッドに横たわった彼女に、俺は幾分申し訳なさを覚えた。
「いや、いいんだ。ごめんな、無理させて」
「本当だよ。あたし一応病人なのに」
もう、と口をとがらせる彼女に、俺はずっと気になっていた事を尋ねた。
「なあ、お前、さっき“子宮癌だった”って言ったろ?今は、どうなんだ?」
すると彼女は、ふっと顔を曇らせた。
「・・・・どうしても、聞きたい?」
「・・・・ああ。お前の事だ。ちゃんと、聞いておきたい。あの時みたく、本当の事を知らないままでいるのはもう、嫌だ」
きっぱりと言った俺に、彼女はふぅと一つ溜め息を吐き、ゆっくりと話し出した。
「・・・・わかった。話すよ。あの時の事も、ちゃんと、ね」
そうして語られた彼女の話は、あまりに残酷なものだった。
俺が子宮外妊娠だと聞かされていたあの手術の日、本当は腫瘍の摘出手術をしていた事。
俺が自分の部屋に戻った数日後、彼女が一人で病院に戻り、医師から腫瘍が悪性だった事を聞かされた事。
万が一戻れなくなる事を考えて、それからすぐに業者を手配して部屋の荷物を全部まとめて実家に送り、部屋を解約した事。そのまま会社を辞め、必要最低限の荷物だけを持って長期入院に入り、本格的に癌治療に入っていた事。
なんとか投薬治療が成功し、しばらくは普通の生活を送っていたものの、最近になってまた再発してしまった事・・・・。
全てを語った彼女は、ふぅと小さく溜め息を吐いた。
「今度は、子宮、全摘出しなきゃいけないって。だからもう・・・・」
――――子供は、産めない。
消え入りそうな声で言った彼女に、俺はどうしていいか分からず、呟いた。
「・・・・ごめん・・・・」
ふいに彼女が身体を起こし、その腕をこちらに伸ばした。
昔より随分細くなった、彼女の、白い、腕・・・・。
その白い腕の先にある彼女の小さな手が、優しく、俺の頭を撫でた。
「・・・沙織・・・・」
彼女は黙って微笑み、ゆっくりと、ただ優しく俺の頭を撫で続けた。
抱き寄せて、ギュッと抱きしめた。
鼓動が、伝わる。彼女の温もりが愛しくて、悲しかった。
――――どうして?どうしてコイツばかり・・・・。
存在そのものを否定される苦しみの中で、それでも、生きて来たんだ。
自ら命を投げ出したいと思う程の痛みに耐えながら、それでも、懸命に!
なのに・・・・・・。
ほどかれた髪を撫でた。昔よりは短くなったそれは、サラサラと指の隙間を流れた。
「お兄ちゃん、今のうちに、触っておいて。多分、もうじきこの髪も、またなくなっちゃうかもしれないから」
その言葉にハッとなる。そうだ。抗がん剤での治療が始まれば、副作用で・・・・。
「ごめんね、お兄ちゃん、長い髪、好きなのに」
もう一度ギュッと抱きしめた。
「・・・・沙織、俺は、お前がどんな姿だって、お前が好きだよ」
「・・・・お兄ちゃん・・・・」
少し掠れた声に、俺はそっと唇をよせ、囁いた。
「・・・・・愛してる。お前の全部が、好きだ・・・・」
そのまま、唇を塞いだ。柔らかい沙織の唇から伝わる熱に、俺の身体が熱くなっていく。
「沙織・・・・」
躊躇いがちにその名を呼ぶと、彼女は潤んだ瞳で俺を見つめ、そのまま俺の唇を優しく塞いだ。
もう一度その背に腕を回し、その細い身体を抱きしめた。
「・・・・愛してる・・・・」
彼女は答えず、ただ俺の背に腕を回し、その手に力を込めた。
静かな病室に、二人きり。
ざわざわと風に揺れる木々の音に混じって、雨音が聞こえ始めた。
ふと振り返れば、窓の外、雨滴と共に降る、紅い葉の時雨が見えた。
どうしてだろう。綺麗なのに、何処か胸が詰まるような、悲しい景色に思えた。
「また雨だね」
呟いた彼女に、俺は思い出す。
ああそうだ。コイツと二人でいると、いつも決まって雨が降るんだ。
出会ったあの日も、初めてのデートも、あの初めての夜も・・・・。
「お前、雨女なんじゃねぇの」
「えー、違うよ。お兄ちゃんが雨男なんだよ」
くすくす笑った。
その笑顔が愛しくて、もう一度抱きしめた。
「・・・・お前が好きだ。お前と、離れたく、ない・・・・」
この腕を離せば、また消えてしまいそうで、怖かった。
「・・・・お兄ちゃん・・・・」
そっと背に回された腕の細さが、余計に悲しくて、抱きしめる腕に力を込めた。
叶うなら、このまま・・・・。
――――ずっと、一緒に・・・・。
叶わないと知っていても、願わずには、いられなかった。