プロローグ
オレは御子神勉。周りからはベンと呼ばれている。
今は食品関係の商社で営業をやっているが、若い頃は自動車関係の仕事に就いていた。
以前は家庭を持っていたこともあるが、今は気楽な一人暮らしだ。
あと数年もすれば、今の会社も定年を迎える。
今日も会社支給のトヨタ・プロボックスを転がして、得意先回りの真っ最中である。
車内には朝からつけっぱなしのラジオと、エアコンの低い唸り。助手席には飲み終えたペットボトルと、次の得意先に渡す資料の束。
いつもと変わらない、少し疲れた午後だった。
あと一軒。
あと一軒回れば、今日の仕事は終わりだ。
そう思うと、自然と肩の力が抜けた。
帰ったら何を食おうか。冷蔵庫に何か残っていたかな。
そんな取り留めのないことを考えながら、赤信号でブレーキを踏んだ。
そのときだった。
右隣の車線に、赤いスポーツカーが滑り込んできた。
キュッ、とタイヤが短く鳴き、オレのプロボックスの真横にぴたりと止まる。
おいおい、元気がいいねえ。
何気なく窓越しに眺めた。
低いボンネット、流れるようなルーフライン。
フロントフェンダーのガーニッシュに目が留まった。
ああ、スバルのBRZじゃない。トヨタの86だな。
いいねえ。
一度くらい乗ってみたいもんだ。
昔はオレも、こんな車に乗っていたんだよなあ。
などと感慨にふけっていると、妙なことに気がついた。
ん?
あれ?
なんだか、さっきより色が薄くなってないか?
赤かったはずの86が、どういうわけかピンク色っぽく見える。
夕日の反射か?
いや、まだそんな時間じゃない。
目を凝らしていると、
ウィーン。
突然、86の運転席の窓が開いた。
そして、車内から男の怒鳴り声が聞こえてきた。
何やらハンドルに向かって、ものすごい剣幕でがなり立てている。
おいおい、今度は何だ?
運転手は両手でハンドルを握りしめ、メーターの辺りを睨みつけている。
車に向かって説教でもしているのか?
最近の車は、そんなに言うことを聞かないものなのかね。
しかし、次の瞬間、オレは思わず息をのんだ。
男の顔を見てしまったのだ。
白いマスク。
目の部分だけが黒く抜け、顔の大半を覆い隠している。
どこかで見たことがある。
いや、あるぞ。
角川映画第一作、市川崑監督の『犬神家の一族』。
そうだ、青沼静馬だ!
世間ではスケキヨマスクと呼ばれる
あの白いマスクだ!
なんでだよ!
なんで真っ昼間の交差点に犬神家がいるんだよ!
しかも86に乗って!
オレは思わず凝視してしまった。
すると、白いマスクがゆっくりとこちらを向いた。
目の穴が、まっすぐオレを捉える。
まずい。
目が合った。
いや、マスクだから本当に目が合ったかどうか分からんが、とにかく合った気がする。
男はしばらくオレを見つめていた。
そして、いきなり怒鳴り始めた。
しかも、ドイツ語で。
「Die hier hat sich in dich verliebt!」
な、なんだ?
「Die ist doch tatsächlich in dich verknallt!」
男は片手を振り上げ、こちらに向かって何やらまくし立てている。
ちょっと待て!
なんでドイツ語なんだ!
実はオレ、大学ではドイツ語を専攻していた。
だから、まったく分からないわけじゃない。
聞き覚えのある単語もある。
だが、白いマスクをかぶった男が、真っ昼間の交差点で、ものすごい剣幕でドイツ語を怒鳴っているのである。
理解しろという方が無理だ。
何を言っているのかさっぱり分からん。
いや、正確には、頭が理解することを拒否している。
逃げたい。
とにかく逃げたい。
しかし、信号は赤。
後ろには車が詰まっている。
窓を閉めようか。それとも知らん顔をしてやり過ごそうか。
いや、そもそも何でオレがこんな目に遭わなきゃならんのだ。
頼む。
早く青になってくれ。
そう念じながら、信号を睨みつけていた。
そして、ようやく青に変わった。
今だ!
オレはアクセルを思いきり踏み込んだ。
キュッ!
タイヤが短く鳴き、プロボックスが勢いよく飛び出した。
仕事用の車とはいえ、こういうときは頼もしい。
バックミラーを見る。
86はまだ動いていない。
よし!
そのまま交差点を抜け、次の角を曲がった。
これで大丈夫だろう。
そう思った瞬間、バックミラーの向こうに赤い車が見えた。
来た!
来やがった!
なんなんだ、あいつは!
次の角を左へ。
さらに右へ。
もう一度左へ。
気がつけば、まったく知らない住宅街に入り込んでいた。
狭い道を抜け、ようやく大通りに出る。
ミラーを確認する。
いない。
今度こそ、いない。
どうやら振り切ったらしい。
オレは大きく息を吐いた。
まったく、冗談じゃない。
何だったんだ、あれは。
犬神家の一族が、ドイツ語で怒鳴りながら86に乗って追いかけてくるなんて。
誰に話したって信じてもらえんぞ。
そう思って時計を見ると、今度は別の意味で血の気が引いた。
まずい。
得意先との約束の時間を、とっくに過ぎている。
慌ててカーナビを確認する。
ここはどこだ?
おいおい、ずいぶん遠くまで来ちまったじゃないか!
結局、得意先に到着したのは、約束の時間を一時間も過ぎてからだった。
担当の部長には、たっぷり嫌味を言われた。
オレはひたすら頭を下げるしかなかった。
まさか、白いマスクの男に追いかけられて道に迷いました、などと言えるはずもない。
「申し訳ありません。ちょっと道が混んでおりまして……」
自分でも苦しい言い訳だと思う。
部長の冷たい視線が痛かった。
クソッ。
なんて日だ!
────────
その晩、妙に懐かしい夢を見た。
若い頃のオレは、トヨタ・カローラレビンAE86に乗っていた。
夜の峠道。
ヘッドライトが暗闇を切り裂き、エンジンが甲高い音を響かせている。
前を走るのは、仲間のサイバーCR-Xとグランドシビック。
あの頃は、暇さえあれば仲間と山へ走りに行ったものだった。
連続するS字コーナーを抜ける。
その先は、下りの右ヘアピン。
オレは強くブレーキを踏み、いったん左へ振ってから、素早く右へ切り返した。
リアが流れる。
すかさずカウンターを当てる。
よし!
決まった!
そう思ったのも束の間だった。
CR-Xとシビックが、イン側からあっさりと抜いていった。
「おいおいおい! ちょっと待てよ!」
二台のテールランプが、みるみる遠ざかっていく。
「チキショウ! 次は負けねーぞ!」
夢の中のオレは、本気で悔しがっていた。
あの頃は、今ほど「走り屋」という言葉も一般的ではなかった。
暴走族とひとくくりにされることもあった。
もちろん、褒められた遊びではない。
それでも、人家から離れた山道を選び、自分たちなりの節度は守っているつもりだった。
若かった。
車が好きで、走ることが好きで、仲間とくだらない話をするのが楽しかった。
負ければ悔しい。
勝てば嬉しい。
ただ、それだけのことに夢中になっていた。
あの峠は、今どうなっているんだろう。
あいつらは、今でも車が好きなんだろうか。
目が覚めても、胸の奥にあの頃の感覚が残っていた。
天井を眺めながら、しばらく考えた。
あと数年で定年。
子供たちも、とっくに成人している。
一人暮らしで、誰に遠慮することもない。
今さらスポーツカーなんて、と思わないでもない。
だが、今さらだからこそ、という気もする。
オレは布団の中で、ひとり頷いた。
そうだ。
スポーツカーを買いに行こう。




