第20話 二歩目が出ない
草が止まったまま、揺れない。
風が吹けば草は揺れる。虫が通っても揺れる。
揺れないのは――そこに、重さがあるからだ。
茂は槍を前に倒し、低く構えた。刃先を草の境目に向ける。自分の呼吸だけが耳の中で鳴る。
手が冷たい。
指が硬い。
心臓が速い。
怖い。
怖いのに、目だけは離せない。
そこに匂いが来た。
動物の匂いじゃない。
もっと生臭い。血と泥が混じった匂い。
鉄の匂い。
草の根元が、黒く濡れている。雨じゃない。土の色が、変わっている。
その横に、薄い布みたいなものが落ちていた。布じゃない。皮だ。小さくて、柔らかい。
人間の皮膚じゃない、と茂は思った。思っただけで、喉が渇く。
ハエが一匹、低く飛んで、すぐ引っ込んだ。
――食ってる。
言葉にすると軽いのに、現実は重い。
土の盛り上がりの向こうで、草が一筋、割れた。
黒い背中。
それが最初に見えた。毛じゃない。短い剛毛。濡れているのか、光が鈍い。
次に出たのは肩。肩というより、盛り上がった塊。筋肉がそのまま外に出ているみたいな形。
中型〜大型。
言葉が頭に浮かぶ。数字が続く。――いくらだ。
喉の奥で息を殺したまま、足を一歩引いた。踏む音を消すために、踵から置かない。爪先で、土を探って置く。
頭が見えた。
犬でも鹿でもない。口が短い。鼻先が潰れている。
猪。
その言葉が一瞬浮かんで、すぐ薄れた。似ているだけだ。
脳がそう判断するより早く、口元が見えた。
濡れている。赤黒い。泥じゃない色だ。
口の端に、脂が光っている。生温い肉を舐めたあとの光り方。
背中が粟立った。
眼が、こちらを向いた。
目が合った?
その瞬間、全身の血が足へ逃げる。
鼻がひくついた。匂いを嗅いでいる。
茂の汗と鉄と何か。
――ばれた。
動かなかった。
動けば、追いかける。動かなければ、来ない可能性がある。
可能性。
そんなものを信じられるほど、茂は慣れていない。
前脚が一歩、出た。
草が擦れた。土が沈んだ。
茂の手が勝手に引き金を探した。
でも槍に必要なのは、引き金じゃない。
いま必要なのは――刺す腕。
違う。
刺す腕より先に、逃げる足が必要だった。
逃げろ。
頭がそう言う。
でも足が動かない。動けば背中を見せる。背中を見せたら終わる。
二歩目が出たところで、茂は息を吐きながら踏み込んだ。
引けなかった。
勇気じゃない。逃げ遅れただけだ。
槍先が草を裂く。
吠えた。
吠え声というより、破裂した空気の塊。
突進が速い。
それより――重い。中型の重さじゃない気がする。力が違う。
横へ跳んだ。
跳んだというより、逃げた。 当たりから外へ、身体が勝手にずれた。
跳びながら、槍が前に出た。
――刺した、と思った。
刃が剛毛を割り、皮を割り、肉に入る感触が腕に返ってくる。骨には当たっていない。
浅い。
浅い――最悪だ。
手応えが無い。
次の瞬間、重い塊が身体ごと捻られた。視界が歪む。
衝突。薙ぎ払う質量。
牙が白く光った。
振り抜かれた軌道が空気を裂き、茂の顔のすぐ横を通過する。
臭い。
腐った肉と血の混ざった匂いが、一瞬で鼻腔の奥まで入り込んだ。
茂の身体が沈む。
地面に片膝。
靴底が滑った。
踏ん張りが効かない。土が湿っている。
立ち上がれ、と頭が命じる。
だが身体は別の答えを返していた。
無理だ。
重さと衝撃で、均衡が戻らない。
それが振り返る。
速い。
迷いのない反転。
槍は刺さっていない。
刺し損ねた。
表面だけを裂いた感触が遅れて理解される。
切っただけだ。
この質量、この速度。
切断だけで止まる相手じゃない。
――――ジェル。
チャンバーの感触が頭に浮かぶ。今入っている一本。予備一本。
二回ある。
二回しかない。
息が荒い。肺が熱い。喉が渇く。
硬い脚が土を掻く。踏み込む前の溜め――次が来る。
槍の柄を握り直した。指が汗で滑る。
滑る感触がはっきりと伝わる。
まずい。
この距離、この速度。
失敗したら終わる。
滑るのが怖い。
怖い。
理屈じゃない。
身体の奥が拒絶している。
それでも、離せない。
ここで怖いと思っている場合じゃないのに、怖いが先に来る。
茂は片膝のまま構える。
距離はない。
真正面。
巨大な猪のような塊が、一直線にこちらへ突っ込んでくる。
速い。
重い。
無理だ――この体勢では受けきれない。
判断より先に身体が動いた。
茂は転げるように横へ逃れる。
次の瞬間、さっきまで自分がいた空間を質量が通過した。
風圧と衝撃がまとめて身体を叩き、足元の土が爆ぜた。
害獣は減速しない。
そのまま数歩、前へ流れ――踏み込んだ脚が泥を掴んだ。
均衡が崩れる。
重い身体が前へ持っていかれ、巨大な塊が鈍く地面へ叩きつけられた。
倒れた。今しかない。
茂は跳ね起きる。
呼吸も整えないまま間合いを詰め、背後へ雪崩れ込む。視界に入った柔らかい腹へ、そのまま槍を叩き込んだ。
肉が沈む。
抵抗が浅い。
深い――いける。
そして――迷わずトリガを引いた。
音は小さい。
だが次の瞬間、刃先近くのポートからV-Gelが高圧で噴き出した。
体内に何かが入り込む感触が、槍越しに手へ返ってくる。
押し返すはずの抵抗が、腹の奥でいびつに逃げる。
遅れて、腹が変な形になった。
膨らむんじゃない。内側から押し広げられて、腹筋の下で面がずれる。
皮膚だけが引っ張られ、張りが一瞬だけ強くなる。
——そこで、壊れた。
筋が切れる音。血管が破れる圧。
吠えようとして、声にならなかった。
起き上がろうとした脚が、力なく滑る。
力が入らない。
腹の奥で崩れた何かが、全身の連動を断ち切っていた。
巨体はすでに地面にある。
それでもなお、支えを探すような痙攣だけが一度走り――消えた。
地面が鈍く揺れる。
もう動かない。
抵抗もない。
ただ、さっきまでそこにあった圧倒的な塊が意味を失って沈黙した。




