ディルネン(9)
誰かが、あたしの事を呼んでいる気がした。
この世界へ落ちることを決めたときと同じだ。
あの子を泣かせたまま、あたしは眠れない。
「……クーちゃん」
大事な大事な、あたしの弟。あの子があたしを呼んでいるのだ。
目を開けると、カーテンを閉め忘れた窓から薄明かりが差し込んでいた。どうやら明け方らしい。
そうだ、国営ギルドの奥の部屋に泊まらせてもらったんだった。ブリキの天井を見上げながらぼんやりと思い出し、ベッドを出て外を見た。
そこへもう一度、泣き声が響き渡った。
間違いない。弟の声だ――今の弟ではなく、あたしが別れた、幼かった頃の声。
「行かなくちゃ」
着替える時間も惜しんで、セピア色をしたケープを羽織り、あたしは外へ飛び出した。
声は鉄鉱石の坑道から聞こえてくるようだった。
リーダーと弟が大型光化種の討伐に向かっていたはずだけれど、そう言えばどうなったのだろう。あの二人が任務をしくじるところなど見た事がないし、きっとこれから先もそんな心配はいらないのだろうけど。
黎明の鉱山都市は静まり返っている。普段ならそろそろ動き出すのかもしれないが、大型光化種が出たせいか町は静まり返っていた。
すがるような声をたどり、ただひたすらに駆ける。ざっざ、とブーツが地面の砂利を擦お音だけが響く。
助けてあげなくちゃ。
それ以外の事は何も考えていなかった。
たとえばあたしには戦う術なんて何一つなくて、坑道に駆けつけたところで足手まといにしかならないっていう事さえも。
坑道の入り口に立つと、その大きさと奥行きに息を呑んだ。
「すごい……これが鉄鋼石の採掘洞……!」
洞窟の左右には光術製品と思われるランプが等間隔で並んでいた。ぽつりぽつりと燈るそれらは、導くように奥へと続いている。
でも、ランプで照らし切れない闇に、思わず足を止めそうになった。
深淵を覗き込むような恐怖。全身が竦み、臓腑がくっと持ち上がる感覚――あたしの中の何かが、暗闇を拒絶している。
が、そのとき、坑道の奥から凄まじい音が響き渡った。まるで何かが崩れ落ちたような。
行かなくちゃ。
暗闇から目をそらすように、あたしは駆けだした。
坑道に入ってすぐ、暗闇でも目立つ金髪を見つけた。あの白いケープは間違いない。
「リーダー!」
あたしが呼ぶと、リーダーは緩慢とした動作で振り向いた。
灯りが足りないせいなのか、リーダーの表情が読みとれなくて、どきりとした。何しろリーダーは美形だ。映画の中でしか見たことのないような整った顔立ちで、表情なく黙っていると、少し怖いくらいなのだ。
「何しにきやがったんですか、リーネット」
静かな声。
しかし、微かではあるが怒りを含んでいると感づいたのは、半年間、一緒に過ごしたからだろうか。
「……クーちゃんの声がしたの。泣いてる声。だから」
「帰りやがれ、ですよ」
聞いたことのないような冷たい声に、胸がすくんだ。
怒っているのはいつもなのに、今日は少しだけ違う。いつもは怒っていたってちっとも怖くない。でも、今は――怖い。とても怖い。
ところが、暗闇に少しずつ目が慣れてくると、リーダーの右肩からだらだらと血が流れているのに気づいた。その血が腕を伝い、指を伝い、足下に血溜りを作っている。
「リーダー、怪我してるよ!」
駆け寄ってみて、思わず目をそらした。
平和な世界に暮らしてきたあたしには、とても直視できない。皮膚どころか肉まで裂ける傷。白のケープが真っ赤に染まるほど流れた血。嗅いだことのない鉄錆のような匂いが肺を満たし、息を止めた。
手先が冷えていった。
「大丈夫だ、この程度ならすぐ治す」
リーダーは無事な手であたしを振り払った。
傷を押さえていたのだろう、その掌についた血が飛び散り、あたしの頬をかすめていった。
もしかして、リーダーたちは任務の時に、いつもこんな怪我を負っているの?
走ったせいではなく、喉がカラカラに乾いていた。
「……リーダー、クーちゃんは?」
声が上ずってしまう。
リーダーは黙って後ろの岩壁を顎で示した。
「えっ……?」
先ほどの大きな音。もしかして、この岩盤が崩れたの? もしかして、あたしの大事な弟はあの大きな岩の向こうにいるの? その向こうから泣き声が聞こえたの?
「俺はこのまま、遠回りしてクォントを拾いにいく。この程度でアイツがくたばるはずねーからな。リーネット、お前は邪魔だからとっとと帰りやがれ」
一切の感情なく言い放ったリーダー。
その息がひどく荒いのは、右肩の怪我のせいだ。
あたしは唇を噛みしめた。
「〈糸よ 細出よ 細出てきれなあ かわい殿さの縞の横〉」
ゆっくりと、声が震えないように、唇から歌を紡ぎ出す。
しかし、リーダーは歌い出したあたしを無表情で見下ろしていた。
怖い。
こんなリーダー、見たことないよ。
「余計なことすんじゃねーですよ」
吐き捨てられた言葉に、歌が途切れた。胸をザクリと抉られたような感覚に陥る。
変な呼吸をしたせいで、とちゅうで歌を止めたせいで息が出来ない。苦しい。
声が出ない。
ぽたり、と血の滴が地面に落ちた。
リーダーはあたしから視線を外し、奥へ向けた。
「マティアス。人のツレに勝手に〈個体検知〉かけてんじゃねーですよ」
「ああ、ええ、すみません。知りたがりなのです。どうしても、彼女の秘密が知りたくて」
若い男性の声がした。
振り向くと、そこには顔の半分を鋼の仮面で隠した男の人が立っていた。黒いコートはリーダーとまるで反対の色だ。くすんだ赤い髪が闇の中でも目立っていた。
両手のガントレットに宝石が埋め込まれている。この人はたぶん、リーダーと同じ光術士だ。
そういえば、討伐のために傭兵を雇ったって言ってたから、その人かも。
「検知出来ないほどの主記憶装置量――なるほど、君が『紡ぎ唄の聖女』ですか。紡ぎ唄で人々を癒し、大地に豊穣を与えるという慈悲深き少女。お噂はかねがねお聞きしております」
半分だけのぞいた赤茶の瞳は、嬉しそうに細められていた。
害意は感じないが、少しだけ怖い。なんだかとても興味を持たれてしまったようだ。
「もしかして、普段、彼の主記憶領域不足を補っているのは君ですか?」
「えっ?」
理解できない言葉に、思わず首を傾げた。
メモリ、っていう単語は聞いた気がする。確か、光術関連の単語だ。宝石に保存された光術プロセスを展開する領域の事だった気がする。
あたしの世界のPCなんかを例に弟が説明してくれた気もするが、忘れてしまった。
「……黙りやがれ、マティアス」
リーダーの声が刃のような鋭さを帯びた。
その迫力に押され、マティアスと呼ばれた男性は一瞬、言葉を止めた。
が、すぐに続きを語りだした。
「だってそうなんでしょう? もし彼女を使えば、君は文字どおり最強となるでしょうし。何より戦時中の技術で王国が――」
「黙れ!」
びりびり、と大気が震えた。
今度こそ、仮面の男性は肩をすくめて口を閉じた。
「リーネット、ギルドへ帰れ。坑道には絶対に近寄るな、と言ったのを忘れたのか?」
リーダーは冷たい声と冷たい表情のまま、あたしに告げた。
怖いよ、リーダー。まるであたしの知ってるリーダーじゃないみたい。
「帰れ、リーネット。これは遊びじゃない。クォントは大丈夫だ。絶対に俺が連れ帰る」
「でもリーダー」
「リーネット」
ぴしゃりと閉じられ、あたしは口をつぐんだ。
たしかにあたしは足手まといだ。何も出来ない。ここにいても、仕事の邪魔になるだけだ。
何しろ、リーダーの怪我を見ただけで卒倒しそうなのだ。
「いいからギルドに戻れ。明日には、必ずクォントと一緒に帰るから」
「……約束?」
「ああ」
あたしは、小指を差し出した。
「何だ?」
「約束。あたしの世界では、約束する時こうするの」
リーダーの左小指を無理やり絡めて。
何か言いたそうにしたのも、後ろでマティアスという人が吹きだしたのも、無視した。
「〈指切りげんまん 嘘ついたら針千本のーます〉」
あたしの歌が、力を持ってしまっている事に気付かず、当たり前のように歌った。
周囲の光素がふわりと渦巻いたのが分かった。
が、途中で止められない。
「〈指きった〉!」




