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第54話 罠にかかった獲物

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 宝暦十二年(一七六二年) (晩春) 蝦夷地・宗谷コタン


 久しぶりに、体が軽かった。


 ここ数日、チセにこもりきりで板とにらめっこを続けていた。  

 文字、算術、社交辞令。  

 頭の中に詰め込まれたものが多すぎて、肩まで重くなっていた気がする。


 だが今日は違う。  

 夜明けとともに原野へ向かい、仕掛けた罠を確認して回る。  

 体に羽が生えたようだった。


 雪解けの泥が足裏に吸いつく感触。  

 鼻腔を満たす湿った土と、芽吹き始めた草の匂い。  

 この感触が、俺の本来の場所だと教えてくれる。


 最初の罠は空だった。  

 

 二番目も空だった。


 三番目の罠に近づいた時、俺は足を止めた。


---


 罠の周りの地面が、えぐれていた。


 シカの毛が散らばっている。

 だが、シカの姿はない。


 血の跡が、丘の合間に広がる原生林へと続いている。


(……持っていかれたのか)


 俺はしゃがみ込み、地面を調べた。


 罠の輪の中に、シカの足首から先が残っていた。

 断面は、刃物で切ったものではない。

 力任せに引きちぎったような跡だ。


 地面には、重いものを引きずった跡が残っていた。

 罠を固定していた木が限界まで引っ張られ、根元から斜めに傾いている。

 木の周りの土が、大きく盛り上がっていた。


 木よりも先にシカの足が限界を迎えた。

 そうして、引きずっていったのだ。


 足跡があった。

 丸く、深く、地面にめり込んでいる。 俺の顔より大きい

 狼ではない。  

 

 狼にこれだけの力はない。


 足跡を追った。  

 

 泥に深く沈んだ、丸みを帯びた巨大な爪痕。


 俺は息を呑んだ。


 熊だ。  

 

 しかも、これほど大きな足跡は見たことがない。  

 前足の幅だけで、俺の顔ほどはある。  

 俺が両腕を広げても、届かないかもしれない。


(……いつからここにいた)


 跡を辿れば、少なくとも昨日には動いていたはずだ。  

 罠を仕掛けたのは一週間前。  

 その間、俺は座学でチセにこもりきりだった。


 俺は引きずった跡をしばらく追い、それから踵を返した。  

 今一人で深追いするのは悪手だ。


---


 息を切らせて、チセに戻ると、祖父と叔父に報告した。


「足跡の大きさはどれくらいだ」


 シモンが鋭く問う。


「俺の顔より大きかった」


 シモンとエカシが目を見合わせた。  

 どちらも、何も言わなかった。


「申し訳ありません。  

 俺が罠の見回りを怠ったせいで、シカを放置してしまいました。  

 熊を引き寄せたのは俺の失策です」


 俺が頭を下げると、横から勘太が口を開いた。


「違います。  

 俺がセタリさんを引き留めていたからです。  

 狩りより座学を優先させたのは、俺の判断でした」


 チセの中が静まった。  

 勘太は真っ直ぐにエカシを見た。


「申し訳ありませんでした」


 エカシはしばらく黙っていた。  

 

 それから静かに言った。


「詫びは後でいい。今は熊の対策が先だ」


---


 日が落ちないうちに動かなければならない。  

 夜に熊がコタンへ降りてくれば、手がつけられなくなる。


 動ける猟師をかき集め、総勢七人で原野へ入った。  

 残されたのは、戦えない女子どもたちだ。


 俺は引きずった跡を先頭に立って追った。  

 跡は木々が密集する谷間へ、さらに奥へと続いている。


 やがて、風向きが変わった。  

 血の匂いが鼻を突く。


 俺は手を上げ、全員を止めた。  

 耳を澄ます。  

 骨を砕くような、重い咀嚼音が聞こえた。


 木々の間から覗いた先に、それはいた。


 灰黒色の巨体が、シカの残骸にかがみ込んでいる。  

 背中の盛り上がりだけで、俺の胸ほどある。  

 予想通り、いや、それ以上だ。


(でかい)


 シモンが素早く手振りで指示を出した。  

 全員が音もなく散開し、熊を半円状に包囲する。  

 俺は木に登り、毒矢を番えた。


 シモンの合図とともに、矢が放たれた。


--- 


 激闘だった。


 一矢目が肩に刺さった熊が振り返り、立ち上がった。  

 その咆哮が森を震わせる。  

 二メートルを超える巨体が、まるで岩が動くように突進してきた。


 槍を持った男たちが前に出る。  

 熊の前足が一人を薙ぎ払い、男が吹き飛んだ。  

 俺は木の上から次の矢を放ち、熊の首筋を狙った。


 毒が回り始めたのか、熊の動きが鈍くなった。  

 シモンが踏み込み、槍を脇腹に深く刺した。


 熊が倒れた。


 森に静寂が戻る。  

 薙ぎ払われた男は肋骨を折っていたが、命に別状はなかった。  

 全員が荒い息をつきながら、その巨体を見下ろした。


「でかいな……。こんな熊は初めて見た」


 誰かが呟いた。  

 

 確かに大きい。  

 

 だが。


 俺は地面を見ていた。


(……おかしい)


 足跡を見比べた。  

 倒れた熊の前足と、朝に見た足跡。


「……シモン」


 俺は静かに言った。


「この熊の足跡と、朝に俺が見た足跡。  


 大きさが違う」


 シモンが眉をひそめた。  

 男たちが顔を見合わせる。


 俺はもう一度、朝の記憶を辿った。  

 泥に深く沈んだ爪痕。  

 前足の幅は、この熊より明らかに大きかった。


「熊は、もう一頭いる」


 言い終わった瞬間。


 コタンの方角から、低く重い咆哮が響いた。


 全員の血が、凍りついた。

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― 新着の感想 ―
北海道にイノシシ?Wikipedia見ると縄文遺跡から骨は出るそうですが、、、
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