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江戸時代に転生した元コンサル、最果ての宗谷でカニを売って成り上がる ―天明の大飢饉を経済で塗り替える―  作者: 一月三日 五郎


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第45話:無価値な名(アペ)、黄金の利(ウェンカン)

 宝暦十二年(一七六二年) (晩春) 蝦夷地・宗谷コタン


 あの和人の子ども――勘太がうちに転がり込んできてから、ひと月が経った。


 最近ではコタンの空気にも馴染んだのか、

 リラ以外のガキどもが勘太の周りに群れているのをよく見かける。


 俺が口を挟むことでもないが、寄る辺ない異邦の者が、

 この厳しい土地に馴染もうと足掻いている姿は、

 悪いものではないと思っていた。


 だが、驚いたことにあいつの周りに集まるのはガキどもだけではない。

 大人連中までもが、あいつを頼るようになったのだ。


 きっかけは、あいつが持ち込んだ和人の「研ぎ」だった。  

 あいつの手にかかったマキリやタシロ(山刀)は、まるで別物のように鈍い銀光を放ち、

 獲物の皮を撫でるだけで裂いていく。

 

 その評判は瞬く間に広まり、今やうちの入り口には、

 不器用な連中が持ち込んだ刃物の列ができている。


 礼代わりに置いていかれるのは、干し魚や毛皮、あるいは薪。

 叔父たちは当初、得体の知れない居候の食い扶持をどう賄おうかと頭を悩ませていたが、

 当の本人が「研ぎ」だけで、自分どころか俺たちの家計まで潤してしまった。


 研ぎだけではない。

 あいつの指先は、針を持てば縫い物をこなし、

 火の前に立てば見たこともない美味い料理をこしらえる。  


 それに、妙に綺麗好きだ。

 何かをするたびに手を洗い、爪の汚れを落としている。

 和人というのは、魂まで水で流さなければ気が済まない性質タチなのだろうか。


 認めざるを得ない。

 

 あいつが来てから、うちの中は整い、食卓はかつてないほど豊かになった。  

 

 俺だって負けてはいない。

 

 このひと月、何度も鹿を狩り、肉を運んだ。    

 それでも、胸の奥には消えない火種がある。  

 自分の半分ほどの歳の、戦う術も知らぬ子どもに、働きで負けている。

 その焦りが、獲物を追い詰める時よりも鋭く俺の心を急かしていた。


 ――そんな焦りを振り切るように、俺は今日も原野へと入った


---


 この大地は、気紛れだった。  

 

 雪解けの泥濘に足を取られ、獣の気配を追うのにも倍の体力を削られる。

 先日仕留めた鹿の幸運が嘘のように、今日の俺は空振りに終わった。


(……ちっ、これじゃあ胃袋の足しにもならん)


 肺が焼けるような熱を帯び、自慢の脚は鉛のように重い。

 これだけ筋肉を酷使し、泥を舐めて這いつくばって得たものが、

 雪解けの土からようやく顔を出したばかりのプクサ(行者ニンニク)の芽と、

 僅かに残っていた冬の木の実だけだ。

 

 猟師が獲物も持たずにコタンへ戻るのは、魂が半分抜けたような格好悪さがある。

 だが、家族のためにも、手ぶらで帰るわけにもいかなかった。


 泥だらけの足を運び、チセへ辿り着くと、まだ雪が残っている場所に見慣れぬソリが停まっていた。  

 中に入れば、囲炉裏の周りがいつもより賑やかだ。

 遠方のコタンからやってきた親戚連中が、祖父と酒を酌み交わしている。


「戻ったか、セタリ。従兄の息子の婚礼が決まってな、わざわざ知らせに来てくれたんだ」


 祖父が目を細めて笑う。  

 聞いたこともない誰かと、会ったこともない誰かが結ばれる。

 めでたいことなのだろうが、俺には「そうか」という以上の感想は湧いてこなかった。  

 だが、形だけでも祝いを贈るのが、コタンに生きる者の作法だ。


 俺は背負った籠を横目で見た。

 中にあるのは、貧相なキノコと木の実。

 これでは祝いの品には到底足りない、あまりに惨めだった。

 

 獲物が取れなかった。

 その事実が、疲労の重みと共に喉の奥で苦く沈殿した。

 どう言い訳したものかと思案していると、俺の隣でじっと座っていた和人のガキが、

 不意に立ち上がった。


「これは私からのささやかなお祝いです。婚礼の宴でお使いください」


 勘太はそう言って、懐から小さな革の包みを取り出し、親戚の男へと手渡した。  

 包みから漏れ出すのは、あの日、俺の五感を震わせたあの芳醇な「海の匂い」――カニの粉末だ。


「粉……? 薬か何かか?」


 親戚たちは、その不思議な粉を恐る恐る眺めていたが、

 リラが興奮気味に「すっごく美味しい粉よ!」と説明すると、半信半疑ながらも包みを開いた。

 

 瞬間、チセの中の空気が一変した。  

 潮騒を凝縮したような、狂おしいほど芳醇な香りが鼻腔を突く。

 男が指先に付いた粉を好奇心で舐めた直後、その瞳がカッと見開かれた。

 

「……っ!? な、なんだこれは。この深い旨味……。

 まるで海のカムイの真髄を舐めているようだ」


 他の連中も我先にと指を伸ばし、絶句した。

 

「これ、次の交易の集まり(イチャルパ)で他の村の長老にも教えなきゃならないよ。

 和人の勘太、という名だったね。あんたのことは必ず伝えておくよ」

 

 遠くのコタンへ、情報の波が広がっていく。

 その中心で、勘太は子供らしい無邪気な笑みを浮かべ、さらに続けた。


「皆さんのコタンの近くの川でも、あのトゲだらけの赤いカニはよく網にかかりますか?

 もし厄介者扱いされているなら、私がその処理の仕方を教えに伺えるかもしれません」

 

「あ、ああ……。網を破るから皆嫌っているが……。

 そうか、あのカニからこのような粉を作ったのか。わかった、しっかり覚えておくぞ」

 

 親戚たちが満足げにチセを辞した後、俺は囲炉裏の隅で火を突つく勘太に、声を潜めて問いかけた。


「おい、勘太。お前、あれは貴重なものだろう。

 和人の町に持っていけばいくらでも売れるはずだ。

 それを、縁もゆかりもない遠方の連中にタダで配るなど、正気の沙汰とは思えない。

 

 あんな調子で配っていれば、すぐになくなるぞ。

 もったいなくはないのか」  

 

 俺が呆れ半分に言うと、勘太はパチパチと爆ぜる火に照らされながら、小さく笑った。

 

「いえいえ、とんでもない。居候の身として、少しでも皆さんの役に立ちたいんです。それに――」


 勘太は言葉を切り、少しだけ声を落とした。


「顔と名前を覚えてもらうだけでも、十分に『利』がありますから」


「……覚えてもらうことが利になる? また意味の分からないことを」


 俺は鼻で笑った。  

 猟師にとって、目立つこといいことではない。

 むしろ気配を消し、誰にも知られずに近づくことこそが誇りだ。


 はるか遠くに住むものに名前を知られたところで、明日の獲物が増えるわけでもなし。

 ましてや、それが腹を満たすわけでもない。


「ばかばかしい。和人の考えることは、やはり理解できん」


 俺はそう吐き捨てて、逃げるように奥へ引っ込んだ。

 だが、チセの中には、まだあの濃厚なカニの香りが居座り続けていた。

 それは食欲をそそるだけでなく、これまでの俺の常識をかき乱す、

 毒か呪いのような残り香に感じられた。


 その時、俺には見えなかった。  

 背中を向けて立ち去る俺の背後で、勘太がどんな顔をしていたか。


 ……後からリラに聞いた話では。  

 その時の勘太は、まるで、自分だけが誰も知らない巨大な黄金の脈を見つけ出したかのような、

 恐ろしく静かな笑みを浮かべていたらしい。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


「顔と名前を覚えてもらって何をたくらんでる?」「セタリ、負けるな」と感じていただけましたら、

ぜひ下の【☆☆☆☆☆】での評価や、ブックマークをいただけますと、

執筆の大きなエネルギーになります!


【地形描写修正のお知らせ】

登山のイメージを避けるため、「山」の表現を「連なる丘」「原野」等へ調整しました。

宗谷地方特有のうねるような地形を再現するための修正です。

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